2022年7月6日水曜日

ゲーテの言葉から(15)































今日は不在者投票に出かけた

兎に角、頭の中が濁ったままの政治ではどうしようもないので、変化を求める方向で投票した

日本の政治は本質的には変わらないというのが基本的な見立てだが、せめて表層のところだけでもスッキリさせないと精神衛生によろしくない

それが天空からの眺めである


昨日、その昔お世話になった先生から『パリ心景』についての感想が送られてきた

まず、これまでエッセイを一遍一遍読んできた時の印象と全く違うことに驚いたとあった

今回の本では、それらがある流れで繋がっているためか、著者の心や思考がダイナミックに躍動している様子が見て取れるという

嬉しいコメントであった

そして、装丁の素晴らしさが永久保存に相応しいとも書かれてあった

さらに、表紙のイラストが一体何を意味しているのかに興味を駆り立てられたという

先日のランデブーで出ていたのは、例えば、ドン・キホーテや Knight-errant、あるいはケンタウロスなどなど

しかし、正解には至っていなかった

これは、次回お会いする時までのお楽しみということにしたい

さて、本日もゲーテ(1749-1832)である



1827.4.11(水)

ルーベンス(1577-1640)の風景画について

「これほど完ぺきな光景は、自然の中ではとうてい見られるものではなく、この構図は画家の詩的精神の産物なのだ。しかし、偉大なルーベンスは、なみなみならぬ記憶力にめぐまれていたので、自然を全部頭の中に入れておき、いつでも自然の細部を思う存分使いこなせたのだ。そこから全体や細部のこの迫真性は来ているわけで、それで、われわれは、すべてが自然そのままの模写だと思いこんでしまうのだよ。今日では、こういった風景画は、もうまるっきり描かれなくなった。こういう感じ方や、自然の見方が完全になくなってしまったのだ。現代の画家には詩が欠けている」


「君たちも私と同じように、五十年来教会史を研究してきたのでなければ、こういったすべてのことのつながりはつかめないだろう。ところが、マホメット教徒がその宗教教育をはじめるとき、どんな教えを用いるかというと、これがきわめて変わっているのだ。人間は、一切のものを導く神によって前から定められた運命以外のものに遭遇することが決してない、という確信を、かれらはまず若者にたたきこんで、宗教の基礎としている。このようにして彼らは安心立命し、それ以上のものをほとんど必要としないわけだ」

「私はこの教えが正しいか、それともまちがっているか、有益であるかそれとも有害であるかといった点を、せんさくしようとは思わない。しかしながら、実のところこういう信仰は、教えをうけたことがないにしても、いくらかはやはり、われわれみんなの心の中に巣くっているものなのだよ。戦場の兵士は、自分の名を書きこまれていない弾丸など、自分には当たらない、というが、もしこのような確信をもたなければ、いつふりかかるかもわからない危険のただなかで、どうして兵士は勇気と明るさをもちつづけられよう!」

「それから哲学の教育では、マホメット教徒は、どんなことでもその反対がいえないようなことは存在しない、ということを最初に教える。いかなる主張が出されても、反対の意見を見つけて発表させることを若者たちの課題にすることで、その精神を鍛えあげるのだ。こうすれば、考えることにも、話すことにも、十分熟達を見るにきまっているからだ」

「ところが、提出されたそれぞれの命題についてその反対が主張されたあとには、いったい二つのうちのどちらが本当に真実なのか、という疑いが生ずる。しかしいつまでも疑いつづけるわけにはいかないので、疑いは精神をはげましてさらに詳しい研究と吟味に向かわせ、これが完全な方法でなされると、そこから確信が生まれるのであり、このことが目的なのであって、そこにおいて人間は完全な安心の境地を見出すのだ」

「この教えには何一つ欠点がないということ、われわれの有するあらゆる体系をもってしてもこれ以上のことは望みえず、またどんな人もこれ以上に達しえないということが、君もわかっただろう」


カント(1724-1804)が最もすぐれている、まちがいなくね。彼はまたその学説の影響が今日にいたるまでやまないことを証明され、現代ドイツ文化の一番奥ふかく滲透した人なのだからね」

「いや、カントは全く私に注意を向けようとはしなかったよ。私は自分の本性から、彼と似たような道をたどるにはたどったのだが。私が『植物の変態』を書いたのは、カントのものを知る以前のことだったが、それにもかかわらず、これが全く彼の学説の精神で書いているのだな。主観と客観との区別、さらには、全ての被造物は、それ自身のために存在し、たとえば、コルクの木は、われわれの壜の栓に使うために生えているのではないという見方、これはカントとわたしに共通のものだったし、この点で彼と一致したのは嬉しかった」


(山下肇訳)








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