2022年7月31日日曜日

メチニコフの『近代医学の建設者』を読む(7)




























Jean-Martin Charcot (1825-1893)



今日は、第7章を読み終えたい


卒中の後、歩行の不自由と左腕の力が弱くなったが、知力は完全に回復した

1870年の普仏戦争は、パスツール(1822-1895)に癒すことのできない悲しみを残した

彼は志願兵として国民軍に加わり、包囲されているパリを離れようとしなかったが、友人たちは父の郷里に行くよう勧める

そして、セダンの戦いで全面降伏し、フランス帝国が瓦解した翌日、アルボアへ発った

パスツールのプロイセンへの憎悪は激しく、ボン大学が彼に贈った名誉称号を突き返した

フランスに普及しているドイツビールと競争できるように、醗酵に関する研究がビール製造の改良に寄与するよう計画した

1876年には、酒精醗酵に関するすべての研究を「ビールに関する研究」として発表

同年、コッホは炭疽病の原因として炭疽菌を明らかにしている

パスツールも細菌学の研究に向かっていた


醗酵に関する研究は大部分がリールで行われたが、伝染病についてはパリの高等師範の小さな実験室で行われた

彼の発見と多数の反対者との間の衝突では、激昂、熱中した闘士が容赦ない議論を展開したのである

特に、医学アカデミーでは、医者たちの科学的準備不足や実験方法の無知を容赦なく指摘した

そのため、医者たちは反撃の機会を狙っていた

そして、狂犬病ワクチン接種で死亡例が出た時、パスツールは殺人犯として告発されそうになった

その時、神経学者シャルコー(1825-1893)ら23名の教授が弁護に立ち、人心を鎮めたのである

このような問題がパスツールの健康に悪い影響を与えたことは想像に難くない

家族は彼をフランス南部のボルディゲーラに連れて行ったが、大地震により引き上げなければならなかった


パリに戻ると、彼の名を冠した新研究所の創立にエネルギーを注いだ

1888年、パスツール研究所の盛大な開所式が行われた

パスツールは66歳を越えていた

研究所に一室を与えられたが、最早実験の仕事はできなかった

そして72歳でその生涯を閉じた

彼の遺骸はパスツール研究所内に安置されている


(了)








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