2022年7月7日木曜日

ゲーテの言葉から(16)


























1827.6.20(水)

「人間が事前や遺贈やあたたかい寄進によって罪をつぐなうことができ、またそもそもそれによって神の恩恵に浴するまでになれるという善行の教義は、カトリックのものだ。しかし、宗教改革者たちは、これに反対する立場のために、この教義をしりぞけ、代わりに、人間はひたすら、キリストの功績を認識し、彼の恩寵にあずかるよう努力すべきであり、そうすればまちがいなくそのまま善行にも通じることになる、という教義をうちたてた」



1827.7.5(木)

「私は何千年もの歴史を学びながら生きてきたので、立像や記念碑の話を聞くと、いつも妙な気がする。功労者のために建てられる彫像のことを考えると、必ず心の中に、それが将来軍人の手で倒され破壊されている光景がすぐに浮かんできてしょうがないのだ」


「現代のドイツの美学者たちはたしかに、対象が詩的であるとかないとか、さかんに論じている。それもある点では、全然まちがっているわけでもないだろうが、ひっきょう現実の対象で詩的でないものなど何一つないのであって、要は詩人がそれを適切に用いるすべを知っているかどうか、というだけのことだよ」


「フランス人ならば、悟性が邪魔するから、彼らには、想像力というものが、固有の法則をもっていて、悟性もそれに手出しはできないし、また手出しすべきではない、ということがわからないだろう。悟性にとっては永遠に解決できないようなことが、想像力によって生み出されるのでなければ、そもそも想像力などというものはあまり大したものではないよ。ここが詩と散文の分かれ目で、散文ではつねに悟性がわがもの顔をしているが、それで差しつかえないのだし、またそうでなければいけないのだよ」



1827.7.9(月)

「私はフランス人については、どんな点でも心配していない。彼らは世界史的観点からは、じつに高い位置を占めているので、彼らの精神はもはやどんなやり方をもってしても抑圧することはできない。この制限法(1827年6月24日、ブルボン王家が出版の制限を強化)は、よい方向にだけ働くだろう。ことに制限が本質的なものには何ら関係なくて、ただ個人個人に対してだけ加えられるのだ。何ら制限のない反対は、あさはかなものになる。しかし制限が加えられると、反対するにも、いやでも機智に富まざるをえなくなる。これはじつに大きな長所だよ。自分の意見を直接あらっぽく述べるのも、その人があらゆる点で正しい場合にかぎって許されるし、よいことでもあろう。しかしながら、党派というものは、それが党派であるというまさにその理由によって、全く正しいということはありえないのだよ。したがって、党派には間接的な表現方法が適しているわけで、この点では、フランス人は昔から偉大な模範になっていた。私が召使にずばり『ハンス、長靴をぬがせてくれ!』といったとする。それで彼にはわかるのだ。しかし、友人が居あわせたからといって、そういう用事をたのんだりするときは、これほど直接的にいえるわけがないし、あたりの柔らかい、親しみ深い言いまわしを考えなければだめなわけだ。こうしてはじめて、彼の心を動かし、親切にしてもらえるというわけだろう。何かを強いるということは、精神を刺戟する。だからこそ前にもいったように、出版の自由を制限することも、私はむしろ好ましいことだと思うのだ。フランス人はこれまでつねに、機智に富んだ国民であるという名声を維持してきたし、その名に値するだけのことはある。われわれドイツ人は、とかく自分の意見を率直に述べてしまう傾向があり、婉曲に言いまわせるまでにはいたっていないのだよ」


(山下肇訳)










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