2022年7月16日土曜日

ゲーテの言葉から(24)















1829.4.3(金)

「大衆の人気を得るためには、偉大な統治者は、その人に偉大さがありさえすれば、他にどんな手段もいらないのだ。その努力と活動によって、国家が内では繁栄をとげ、外では尊敬を受けるということになれば、ありったけの勲章をぶらさげて、立派な馬車におさまろうが、熊の毛皮にくるまり、口に巻煙草をくわえて、お粗末な貸馬車に乗ろうが、何をしようと国民の愛を獲得し、つねに同じ尊敬を受けている点では全く変わりない。けれども、君主に個人的な偉大さが欠けたり、善政を施いて国民に愛されるすべをわきまえないとすれば、他の統一の手段を考慮せざるをえないのだ。それには、宗教とその儀式をともに楽しみ、ともに行うこと以上にすぐれた効果的な手段は存在しない」


「『ヴェルテル』が出ると、早速イタリア語の翻訳がミラノで出たよ。ところが、じきに初版全部が一冊残らず売り切れてしまった。司教が手を回して、教区にいる聖職者たちに全数を買占めさせたというわけさ。私は腹も立たなかったね、それどころか、『ヴェルテル』がカトリックにとって悪書であるといち早く見抜くような具眼の士のいることを知って嬉しくなり、即座に、もっとも有効な手段をとって、それを極秘裏にこの世から抹殺した点に、感服せざるをえなかったよ」


1829.4.6(月)

「もちろん、彼の人格はずばぬけたものだったよ。けれども、大事なことは、人々が彼を指導者と仰いでいれば、自分たちの目的がかなえられると確信した点にある。だから、彼のものになってしまったのさ。だが、そういった確信をおこさせる人なら、相手えらばすそうするわけさ。俳優たちにしても、いい役につけてくれると信じれば、新しい舞台監督でも、いうことをきくじゃないか。これはお古い話だが、相変わらずむし返されている話だね。人間の本性とは所詮そんな仕組みになっているのだ。誰も、自ら進んで他人に仕える者はいないよ。だが、そうすることが結局自分のためになると知れば、誰だって喜んでそうするものさ。ナポレオン(1769-1821)は、人間を十二分に知りつくしていた。それで、人間のこの弱点を存分に利用することができたのだね」


「私は、彼(フランソワ・ギゾー、1787-1874)の講義を読みつづけているが、相変わらず卓抜なものだな。今年のは、およそ八世紀まで行く。彼は、どんな歴史家のばあいにも、これほどまでに偉大ではなかったと思われるほどの深い読みと透徹した目を備えている。人がとても考え及ばないようなことが、彼の目にとらえられると、重要な事件の根源として、この上なく大きな意義を帯びてくる。たとえば、ある種の宗教上の意見の優勢が、歴史にどんな影響を及ぼし、原罪や恩寵や善行などの教義が、時代時代に応じて、さまざまな形態をとったのはどういう理由によるのかなどという問題がはっきりと解明され、立証されていることがわかる」


「ギゾーは、昔のガリア人が他の民族から受けた影響について述べているが、とくに目についたのは、ドイツ人の影響を論じていることだ。『ゲルマン人は』と彼はいっている、『個人の自由という理念をわれわれにもたらしてくれた。これこそ、何にもまして、この民族に個有のものであった。』この言葉は、まことに立派ではないか? 彼の言うところは、まったく正しいではないか? またこの理念は、今日に至るまで、われわれのあいだに生きていはしないか? 宗教改革も、ヴァルトブルクの学生組合の蜂起も、賢明なことも、愚劣なことも、みなここから起こったのだ。猫も杓子も新生面を開拓しなければならぬと思いこんでいることも、同様に、わが国の学者が隔絶孤立して、自分の立場を守り、その立場から、自分の本領を発揮しているのも、みなそこから来ているのだ。それと反対に、フランス人やイギリス人は、はるかに堅く団結し、たがいに他人を見ならっている。服装や態度にも共通したものがある。彼らは、人目に立ったり、いい笑い者にされたりしないように、他人と違ったことをするのを恐れている。しかし、ドイツ人は、めいめい自分の考えを追い、自分自身を満足させようとする」


(山下肇訳)





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