jeudi 23 juin 2016

二元的な自己



久し振りに朝の空を味わう
まさに千変万化であった
雲の動きには心を躍らせる何かがある
この雲はあの画家が見ていたものではないかというものに何度も出会ったことがある
それは嬉しい発見である

昨日、意外にも仕事が捗った
何故か分からなかったが、朝の空を見ながら次のような説明が浮かんできた
それはそれ以前の発見とどこかで繋がるもののような気がしてきた

どこかに移動する
以前であれば、自分が能動的に歩いてそこに向かうという意識があった
疲れるのである
ところがこちらに来てから、自分が歩いているのではなく周りが動いているという感覚になった
つまり、そこでは受動的な意志しか働くなくなっていることに気付いたのである

人に連日のように会う
以前であれば、自分が能動的にそこに向かって行くという意識であった
努めて行事を乗り越えるという感覚があった
しかし、こちらも自分とは別の何かが受動的にそこに向かっているという感覚になっている
実に自然に「こと」が過ぎて行くのである

仕事をする
以前であれば、自らが肩に力を入れて「こと」に当たるという感覚であった
そうすると、なかなかうまく進まない
自分が先に出ているからではなかったのか
ところが、昨日は何かが違っていた
それは、自分の意志で何かをやるという感覚ではなかった
「自分」とは別の「意志はないが自然に力を発揮するエネルギーのような何か」をうまく使っていた
そういう感覚の中にいた
それが自然に「こと」を進めてくれたと感じていた
仕事をしているのは自分ではない
その何かにやってもらえばよいという感覚である
したがって、全く疲れないのである

これらをどう解釈するのか?
これまで「自分で」と考えていたものが実は一つの自分ではなかったのではないか
もう一つ、この生が本来的に持っている意志を欠く、能力だけを具えている迸りのようなもの
しばしば自分の意志により隠されているもの
それが表に出るように仕向けること
フランス語で l'élan とでも言うべきものにすべてをやってもらうこと
そのためには、自分の意志のような邪魔者を排除することが必要になる
これこそがすべての現象を説明するメカニズムではなかったのか

つまり、どういうことなのか?
普通、意志が宿るところを自己だと思う
それはよいのだろう
しかし、それだけではない
もう一つ、意志がないだけに掴みようがない、エネルギーと能力だけを持った何かがある
それも自分の中にあるので自己と呼んでもよいだろうし、もう一つの何かとしてもよいだろう
そして、その何かに働いてもらうためには、最初の自己による調節機能が極めて重要になる
いまのところはこう理解しておこう



 


これはわたしにとっての大発見のように見えてきた
今朝の空が齎してくれた贈り物だったのか





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