2016年11月12日土曜日

第4回カフェフィロPAWL、新会場でアリストテレスを語り合う



今回、ディスカッションの時間が長く取れる会場で第4回PAWLを開催した。当日2名の方の都合が悪くなり、欠席となったが、SHEの第1回と第2回に参加された方の4年振りのカムバックがあったり、山形から参加された院生もおられ、興味深い構成となった。これまでより30分ほど余裕ができたのでゆったりできた印象がある。終了後、会場について皆様の感想を伺ったが、いま一つ歯切れが悪かった。個人的な感触では、僅かに今回の方が良いという方が多いような印象を持ったが、誤差範囲だろう。来週の参加者のご意見も参考にしながら、今後の予定を考えて行きたい。

今回のテーマは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で問題にした人間が生きる上での最高善とは何かであった。換言すれば、人はどう生きるべきかということで、まさにPAWLが考えて行こうとしているテーマになる。今回、アリストテレスの声を聴きながら、予想もしていなかった幾つかの発見をした。

冒頭に、何かを行う時に向かうところのもの、すなわち目的が善であり、いろいろな活動において見られる目的の中でもすべてを統合するものが最高善だとある。これはどういう意味なのだろうか。アリストテレスは究極であるための条件を次のように考えていた。一つはそのものだけのために追及する価値のあるもので、別の目的のために追求するのではないものである。もう一つは、それを得れば他には何もいらないという意味で、自己充足的であること。但し、自分自身だけではなく、広く言えば社会や国にまでそれが及ばなければならないと考えていた。人間は社会的動物と言った人らしい。

この条件を見て思い出したのが、以前に取り上げたことがある藤澤令夫氏のまとめによるエネルゲイアとキネ―シスとの対比であった。エネルゲイアは目的が行為の中にあり、それを行った時には「こと」は完了していて完全であるのに対し、キネ―シスは他のものが目的なので常に未完に終わるというものである。

エネルゲイアをわれわれの生に取り込む (2010.1.2)

当時は、仕事を辞めてフランスにいたため、エネルゲイアの状態が深い充足感を齎してくれることを身を持って体験していたのだが、仕事をしている時にはその意味がよく分からなかったのではないかと思いながら読んだところになる。実はそれが究極の善の一つの基準になっていたのである。

アリストテレスはさらに人間の機能とは何か?と探索を進める。ここでいう機能とは、人間に本来的に具わる他の生物とは異なるものであるが、それは理性を伴う魂の活動であると結論している。そして、その活動を善く行うことが卓越性であると言っている。その機能を発揮させること、すなわち哲学すること、しかもそれを生涯を通じて行うことが人間の善ということになる。観想(観照)活動はそれだけのためのものであり、観ること(テオリア)だけが求められるという意味で、究極性と自己充足性という条件も満たしている。

最も善きもの、最も快適なものは、その存在にとって本性的で固有なものである。とすれば、精神生活を全うすることが最高善であり、それは同時に幸福を齎すことになる。幸福を表す言葉「エウダイモニア」には、神に祝福された状態という意味がある。ダイモーンが神と人間との仲介者を意味するので、それが良い(エウ)状態が幸福になるということだろう。つまり、知的活動だけを生涯に及び続けるということは、神に祝福された状態にあり、人間を超えた「神的生活」とも言えるものになるのだろう。ただ、人間はそんなことはできないのが普通である。そこで問題になるのが、古くから言われている精神生活と動的生活のバランスになる。その問題を解決するのはそれぞれの人に任されているのだろう。これまでのわたしの歩みを振り返れば、動的生活と静的生活を人生の中で分けるという解決策を図らずも編み出していたことが見えてくる。

ところで、先日提案したフランス語を読みながら哲学を語る会に興味を持っている方がおられることが分かった。これで希望者が複数になってきたが、もう少し様子を見ることにしたい。






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