dimanche 19 mars 2017

「生き方としての哲学」とは



本日も曇りで冴えない一日であった


2006年12月にパリのリブレリーで偶然に手にした本の中で、「生き方としての哲学」に出会った
振り返ってみれば、この言葉はその後を決めることになったように見える

  運命の出遭い?があったリブレリー再訪(1 février 2016)

この言葉に出会うまでは、理論的な思考、体系の構築こそが哲学の仕事であると思っていた
あくまでも漠然とした印象にしか過ぎなかったのだが、、
当時、それをこれからやっていくことには抵抗があったが、この言葉でその認識が変わった
もう一つの道が魅力的に見えたからだろう
これは「わたしの発見」であった

しかし、哲学に入ってみて、それは哲学にとっても発見だったことが分かったのである
その背後には、ピエール・アドー氏が古代の哲学の中にその要素を見出し、訴えたことがあった
さらに、アドー氏をコレージュ・ド・フランスに誘ったと言われるミシェル・フーコーもそこに加わった
哲学という営みには、その始まりから理論と生き方に関わる道があった
しかし、その一方が時代が進むに従い、忘れ去られていったということだろうか
より正確には、二つの要素の強調される割合が、時代とともに変化しているということかもしれない
哲学の持つもう一つの側面が意識されるようになった現代ではあるが、それは少数派に留まる

「生き方としての哲学」という場合、そう言われているものを研究することではない
自らの哲学を自身で生きるということを意味している
思想と実践の一致が求められることになる
生易しいことではないだろう
しかし、ソクラテスが命を懸けて伝えたことは、そうしない生は生きるに値しないということであった
どこかで聞いたような気もするが、それ以外に道はないということになる






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