2020年6月29日月曜日

大拙の言葉から




先日の不思議な蝶が、文字通り舞い戻ってきてくれた
同じ蝶だと思いたい
お昼に、久し振りに海を見に行った

今日は鈴木大拙の言葉から、いくつか

  • いつまでもいつまでも名利の巷を彷徨して、人生の真意義に徹し得ぬ人達を考えると、どうも気の毒にもなり、また情けなくもなる。 

  • 組織化は或る意味に於いては通俗化を意味する。何となれば、物は秩序づけられると理解し易くなるからである。併しながら、この平民的伝搬は、宗教的天才の特徴とするところの独創力や想像力を働かす機会を減らし勝ちである。組織は不規則を許さぬ、不規則は体系化した組織より排除されるのが普通である。併しながら、禅にあっては、この不規則な飛躍が最も必要とせられているのである。 

  • 早ければ早いほど良いのであるが、我々は何とかして、科学、機械、及び資本主義から不可避的に起こり来るこれらの凡ての損失を補う方法を見付けなくてはならない。

  • すべてのものは重重に聯関しているので、その一隅又は一点に触れると、すべてがそれに繋がって動いて来るのである。・・・我等も亦宇宙構成の一環なのだから、この一環を攫むことによりて、宇宙全体も亦攫まれる。だた、一環を一環として全体から離さぬようにしなくてはならぬ。これを重重無尽的に物を見ると云うのである、また事事無礙法界(じじむげほっかい)の様相だとも云うのである。

  • 禅の意味を解しただけでは十分でない、それはその人の存在の全面に亘って徹底的に同化せられなくてはならぬ。

  • 禅僧は、極めて抽象的な形而上学的問題の解決を逼られている。これを解くために禅僧は、専心瞑想に凝る。併しながら、この瞑想が抽象的以上に出ない限り、その問題の実際的解決は得られぬであろう。

  • 印度民族は『般若経』や『華厳経』や『無量寿経』と云うようなものを創作した。・・・それと好き対照をなすのは実に唐土に於ける禅である。禅は印度ではできなかったに相違ない。・・・印度民族のように抽象的な頭脳でないと、『般若』の如き幽遠な思想、『華厳』の如き精緻な哲学は出来ない。又彼等のような宗教的熱情を持たないと、『無量寿経』の如き甚深な本願思想は生まれないのである。・・・シナ民族のように実証的性格をもって、何事にも行為的に思索しようとする心理態の持ち主に可能な哲学は、儒教か禅でなくてはならぬ。

  • 禅では、知性を知性の面でのみ見ないで、これを裏付けるものを忘れないのである。即ち、知性も亦行為的・意志的であることを、禅は主張する。・・・学ぶは、知識の蓄積でなくて、般若的生活の謂いである。東行西行するの義である。・・・禅は菩薩行である。禅者は『維摩経』を身読するの要がある。








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