2020年5月30日土曜日

現代哲学のまとめ(3)




分析哲学と大陸哲学の違い、再び(1)

分析哲学と大陸哲学を区別することには、少なくとも現代哲学についての省察を少し整頓するというメリットがある
1910年代から、哲学は二つに分断された
すべての過去の諍いはすでに忘れられたことを強調する和解の呼びかけや定期的な告知が出される
しかし、それは説得力があるのだろうか

特に我々には間違いなだけではなく、知的に有害に見える思考方法を、なぜ好意的に理解するよう要求するのか
寛容は知的無気力に至ってはならないのである
分析と大陸という現代哲学の二つの分野に共通する過去が再発見された言われる
それが歴史的に正しいならば、二つの流れの間に深淵を作るに至った違いを否定することをどのように正当化するのか
哲学はこの分裂がないよりはあった方がより面白くないだろうか

しかし、大陸哲学と分析哲学の間の違いが消えやすい性質のものであることも認識できるだろう
事実、哲学の二つの型の分断には僅かの偶然がある
いろいろな流れの発展は、哲学的思考の外の出来事に関連していた可能性がある
しかし最終的には、その流れに刻印を残すことになった

パスカルは偶然の出来事が持つ決定的な性質を強調して、次のように言った
クレオパトラの鼻がもっと低ければ、世界の様相は一変していたであろう」と
これは20世紀の哲学史についても言えるとわたしは考えている
例えば、アドルフ・ライナッハは1917年に戦死した
彼はフッサールの弟子である
しかし今日、彼は言語の分析哲学のある局面に参画したとされている

あるいは、ジャン・カヴァイエスは1944年、レジスタンス活動のために銃殺されている
彼はウィーン学団論理実証主義と同様、フッサールについても研究していた
もし彼が生き残っていたならば、どうなっていただろうか
このような例はいくつも挙げることができる
事故死のルイ・クーチュラ、病死のジャン・ニコ、勿論二つの大戦とホロコーストによる哲学者を含めた多くの生死など

現代哲学のすべて(特に大陸哲学)に潜在するヘーゲル主義は、哲学思想史を必然的な発展と捉えるように習慣づけた
その発展は避けられないフェーズを経て、また初めに与えられた意味を概念の実現によって追求するという形で行われる
しかし大きな領域を恣意的に除くことなく、どうしてすべての現代哲学をこのような図式の中に入れることができるのか

このように哲学はほぼ二つに分割された
これは、知的盲目の場合は除くが、その深い意味を過大評価することなく確認すべき事実である
しかし今日、我々が統一的な図を提示しなければならない困難に対する影響を推し量ることはできる

哲学の20世紀の想定される愚かさはまた、おそらく大陸と分析という二つの側が最も共有している世界のものである
実際には、それが両者同等であるのかという問題が生じる
わたしがそうは考えていないことは理解されただろう
ある哲学は自分の分け前以上のものを取ったのである







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