lundi 5 décembre 2016

なぜ読むのか?



研究者として仕事をしている時、忙しいから人のものを読まなかったのだろうか?
どうもそうではないような記憶が蘇ってきた
他の人の考えよりも自分の考えが重要だと思い、意識的に外からの声を避けていたのではないか
そのため、何かを読んでもなかなか中に入って来なかった
それがさらに読むことを遠ざけていた可能性がある
勿論、根底には忙しさのために自らの中を十分に観ることができていなかったことはあるだろう

それが変わったと思ったのは、こちらに来る数年前
自らの存在の危機のようなものを感じたこともあったのだろう
いろいろな模索が始まった
その辺りから、言葉というものに対する感受性が異常に亢進したように思う
人の言葉がよく入ってくるようになったのである
勿論、人による程度の差はあるのだが、、

そしてこちらで気儘に読む中で、自分の考えなどは知れていることに気付くことになった
自分が考えているようなことは、すでに、しかもずっと深く考えられていることが分かったのである
そこで自分ができることは何なのか?

それは自分の中に在るものと共振するものを読み、すでに在ると思われるものを深めること
この過程は中に在るものの形をより明確に掴むことにも繋がる
そして、そこで得られたいろいろな要素を繋ぎ合わせること
すなわち、考えること
それを繰り返すうちに、これまでにないものが現れるのではないか
そんな期待を持ちながら只管歩むこと

しかし、実際には先のことはどうでもよいと思っているフシもある
なぜならば、その営みの中に深い悦びがあることを感じることができるようになっているからである
それは14世紀に吉田兼好がすでに感じていたことでもある


「ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人をともとするぞ、こよなう慰むわざなる」

"To sit alone in the lamplight with a book spread out before you, and hold intimate converse with men of unseen generations -- such is a pleasure beyond compare."
(Yoshida Kenko Essays in Idleness)

« Solitaire, sous la lampe, c'est une joie incomparable de feuilleter des livres et de se faire des amis avec les hommes d'un passé que je n'ai point connu. »
(Urabe Kenkô, Les Heures Oisives)





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