2016年12月22日木曜日

逸民、陸沈者、高等遊民のことなど



その時々に考えたことや自分の中に入ってきたことを記す「断章」と名付けたワードファイルがある
ノートを持ち歩くことは減っていたが、こちらには書いていたことが分かる
年の瀬を迎え、今年の正月から読み返してみた
今年はこれまでで450ページを超えている
因みに、2015年を見てみると500ページを超えていた

書くことだけで、目に見えない効果はあるのかもしれない
しかし、読み返すことにより、思考過程や事実が意識に固定されることになる
それは考え直す機会を与えてくれるもので、哲学する機会にもなっている
これまでは前に進むことに追われていたため、読み返す余裕は持てなかった
今年の年末は少し違うようである

1月の10日分を読んだだけで、一つのことに気付いた
それは、そこに書かれてあることをその後に言ったりやったりしていることである
これには驚いた
詳しいことは意識に上っていないのだが、どこかに滲み込んでいるようである
それが出会った状況の中で無意識の中から出てくるのかもしれない
一旦覚えて、その後に忘れるという過程にも通じるのだろうか
現在のわたしの場合、最初に書くという摩擦がなければ、このようなことは起こらなくなっている
通り過ぎて見えなくなるだけである
その記憶を引き出す術もなくなる

それから日本語のビデオを観る(聴く)ようになっていることにも気付いた
すっかり忘れていたが、今年の元旦には小林秀雄のべらんめい調の講演を聴いていた
その日のメモには「逸民」や「陸沈者」などの言葉が見える
逸民とは俗世間を遁れて、隠れ住んでいる人、隠遁者
陸沈者とは表面上は俗人の中にあり、同様の生活を営みながらも隠者として暮らす人
『荘子』の雑篇・則陽に出てくる

どこか自分と重ねるところがあったのだろうか
勿論、大隠などではあり得ないのだが、、
そう言えば、この秋のSHEで、参加者から「高等遊民」と評されたことを思い出した
今ではあまり聞かなくなった懐かしい言葉である
こちらも高等とは言い得ないのではあるが、、





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