フランソワ・ラブレーの名はフランスで招聘研究員となった大学にも付いていたので気になっていた
夜、最初の学生時代に買った記憶はあるが、読んだことはないと思われたラブレーの名が本棚に見えた
筑摩書房の世界文學大系8「チョーサー、ラブレー」(昭和36年)で、ラブレーは渡辺一夫訳である
『第一之書 ガルガンチュア物語』の冒頭にある「作者の序詞」に目を通す
この中だけで次のような名前が出てきて驚くと同時に、ラブレーの印象が変わる
プラトン、『饗宴』、『国家』、アルキビアデス、ソクラテス、ガレノス、ピュタゴラス、ホメロス、『イリアス』、『オデュッセイア』、プルタルコス、ポントゥスのヘラクレイデス、エウスタティウス、ポルヌトゥス、ポリティアヌス、オウィディウス、『変身賦』 、ホラティウス、デモステネス、エンニウス、、、
『饗宴』のつながりで、ソクラテスをこう描写している
- 上辺を見ると、葱の皮一枚ほどの値打ちもなかろうと思われるくらいに
「体の格好は醜く、挙措は滑稽で、鼻はとがり、眼差しは牡牛のごとく、顔つきは瘋癲も同然、暮らし方は簡素無二、粗野な衣をまとい、金運に乏しく、女運にも恵まれず、一切の国家公共の責務に適せず、常に哄笑を事とし、常に相手を選ばずに酒杯の応酬を重ね、常に嘲弄をほしいままにし、常にその神々しい知恵をば隠蔽していた」
- ところが、その中には高貴無上の神薬が蔵めてあったのだ
「すなわち、人間のものとは思われぬほどの思慮、驚くべき才徳、不屈の勇気、並びない節制力、ゆるぎない恬淡無欲、完璧な確信、俗世の人間どもが不眠不休、東奔西走、汗水流したり、海原に乗り出したり、剣戟を交えたりしてなおも願い求める一切のものに対する信ぜられぬほどの侮蔑の念、こういうものが見られるに相違ない」
昔買った本を紐解く悦びの一つが、当時の自分を垣間見る瞬間があることだろう
それは今や全くの別人ではあるのだが、、
この冒頭部分とアランによる『ラブレー』と題するエッセイの中に読んだ痕跡があった
以下に書き出してみたい
序詞では、骨髄のある骨を熱情を込めて噛みつき砕く犬について触れている
それは、ガレノスが言うように、骨髄は完全無欠に精錬された自然の糧だからという
その続きがマークされていた
「この犬にならい、諸君も事理に聡くなられ、滋味に富んだこれらの良書の香気を嗅ぎだし、その真価を探りあて、これをこよなきものと思うべきであり、獲物を追うにあたっては軽捷、これに立ち向かうに際しては大胆たるべきだ。そして入念にこれを繙読し、瞑想の数を重ね、骨を噛み砕いて、滋養豊かな精髄をーーすなわち、余がこのビュタゴラス流の寓意によって言おうとするものをーー綴るべきであり、このようにして読書をおこなえば、分別もでき、立派な人間にもなれるという確固たる希望を持たれて然るべきだ」そして、アランの文章では以下の部分に印があった
「医者である彼は、ひとが隠そうとする欲求を顕わす。この自然の欲求は彼の神だ。欲求を恥じることは神を瀆すことだ。これはなにも彼にかぎったことではない。われわれ誰しも生まれながらこの卑猥な本性を具えていて、それを恥じねばならぬと思っている。恥じてはならぬ。人間の本性のすべてを受け入れねばならぬ。さもなくば偽善しかない」
「ひとはもはや人間をおそれない。『人間ハ人間ニトッテ神ナリ(ホモ・ホミニ・デウス)』という美しい公式が今やふさわしい。恐れなき思想のみが人間の持ち物の中で希望を与える唯一のものだ。尊厳が描き出され、偉大な人間像がその畏怖すべき裸形のままに現れる。これは教養というものがいかに大きな成果を挙げうるかの証左だが、教養とは母国語の崇拝だ。人間を飾るものは言語しかない。そして、プルードンの言ったように、書くのが下手な者はかならず考えることも下手だ。文章の技法がすべてだと言ったのは諸君ご存じの別の男(フローベール)だが、これは言いすぎだ」