2021年12月31日金曜日

12月を振り返って


























今年最後の日になった

昨日は今年を振り返ったので、今日は今月を振り返ってみたい


まず、昨年末との比較である

昨年の今頃はまだフランスに戻るつもりだったので、落ち着かない精神状態にあった

当時の記録を読み返してみると、元旦を挟んでひと月ほどはダラダラしていたように見える

行き先が明確でないことはこれまでにも何度かあったが、いつもそんな状態になる

しかし今年は異常な集中の中にある

大きな違いだ


今月は主に「医学のあゆみ」誌のエッセイの纏めを中心に考えてきた

まだ、より高い認識にまで至っていないので、もう少し付き合う必要がありそうだ

それから先月同様、対面での会食が実現したのは幸いであった


明日から新しい年が始まるが、これまでとは違う考え方を模索しながら臨みたいものである








2021年12月30日木曜日

今年を振り返って


























今年を振り返る時期になった

早速、始めたい


今年も昨年同様、Covid-19のことを考えずに行動することはできない年となった

サイファイ研としてやっていたカフェやフォーラムは2年連続で中止になった

これらの会は対面を目指しているので、致し方ない判断だったと思っている

来年こそ再開できればと願っているが、どうなるのか予想できない


それから、Covid-19はわたしの実生活にも具体的な影響を及ぼすことになった

14年(実質13年)に及ぶフランス生活に終止符を打たなければならなくなったからである

5月に引っ越しをして8月に荷物が届き、その整理が終わったのが11月であった

この影響がどのように出るのか全く予想できなかったが、今月に入り、かなり良い影響として現れていることが見えてきた

フランスからの荷物は「アトリエ」と名付けた場所に入れることにした

そこにはフランスからのものしかないので、そこに入るとフランスにおけるわたしの精神の中に入るような感覚が生まれる

時間が消え、これまでの日常では得ることができなかった妙な落ち着きと精神の集中が可能になる

時間が消えているので「魔法の時間」とは言えないのだが、"C'est magique !" とでも言いたくなるような経験をしている

それは自分でも想像していなかった驚くべきことで、今年の特筆すべき出来事と言えるだろう

結果的にだが、Covid-19の良い影響として捉えている


第二に、これまで長きに亘って関わってきた免疫についての考えの全体像が見えてきたことが挙げられる

最終的な検討はまだ残っているが、一つの大きな塊ができたので、これからそれを見直すことにより新しいものが見えてくる可能性がある

このような試みは来年以降のプロジェのようなものになるだろう


第三には、「医学のあゆみ」誌の連載エッセイを振り返り、一つの纏まりを作るというプロジェがあり、7-8割のところまで来ている

これまでに100回以上のエッセイを書いているので、その全体をカバーすることは不可能であるが、今回は科学と哲学に関連するものを選び、纏めることにした

このプロジェは、一度自分の考えを纏めたものについての反省になるので、認識についての認識という2次意識的試みになる

その意味では、一段上の認識に達することが期待される


第四には、いろいろなことが終わりを迎えることと関係するが、過去を見直すプロジェを始めたことがある

上に挙げた第二、第三もその流れで捉えることができるが、これはフランス生活の最初の7年でメモしたノート63冊についての反省である

この機会に「マインドファイル」と名付けた場で、それらを解きほぐすことにした

まだ始めたばかりだが、ゆっくり味わうように進めている

読み終えるまでには、書いた期間と同じ時間が必要になるかもしれない



第五に付け加えるとすれば、特に今年の後半、マルセル・コンシュさんを読んできたことが挙げられる

周りの影響を受けることなく、ゆっくり考えている様子が伝わり、参考になることがある

取り敢えず、今読んでいるところが終わるまでは続ける予定である








2021年12月29日水曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(32)

































自然はその中に物質を含んでいるが、物質は自然の一つの側面にしか過ぎない。

自然は全体的な効果である。

物質という概念は一般的な意味や伝統に則って語る時に使うことができるとわたしは言った。

しかし、意味を奪われた言葉を使いたくないのであれば、現代物理学――量子物理学――は「非物質的」であると言わなければならない。

マクロのレベルでは、物体、物質がある。

原子下のレベルでは物質は消えたが、自然は常にある。

従って、物質は死を意味するが、自然は生と死を意味している。

マクロのレベルでは、生き、そして死ぬ物体がある。

原子下のレベルでは、生を支配する微細な要素がある。

プランク定数 h が測る作用量子は、自然の2つの段階の間の境界を示している。

人間の段階では、その影響は無視できるが、原子下の段階では現象の特徴を指図する。

象を見てみよう。

それは大きな物質の物体である。

触ると固く、容積も大きく、重たい、、、が、それは生きていて、その点から見ればミクロの世界に属している。











2021年12月28日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(31)





























自律的な主体は存在しない。

その意味は、すべての生き考える存在は存在の条件を物質性の中に持っているので、この事実から死を運命付けられているということである。

しかし、主体を必須条件に過ぎないものに単純化してはならない。

なぜなら、他のものでは説明できない、単純化できない体験があるからである。

その上、人間の場合には思考や自由、一言でいえば個性がある。

唯物論者は、わたしが今しがた念を押したように、「考えるのは脳である」と言う。

それは、チンパンジーや他のすべての脳を持つ動物についてであれば、正しいかもしれない、あるいは少なくとも是認できるかもしれない。

ただ、「考える」という言葉を他の言葉に置き換えれば、という条件付きではあるのだが、。

脳の活動は、動物がその世界で生きる方法の必要十分の条件であり原因であると認めることはできるが、その原因は効果を生み出すが、それを説明はしない。

しかし、人間の場合には異なる。

「ピエレット、わたしはあなたを愛しています」と言うことは、「わたしの脳はあなたを愛しています」ということと同じではない。



要するに、唯物論は生命と精神を説明することに失敗しているのである。






2021年12月27日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(30)
































ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、周囲の環境(milieu ambiant)という意味における「環境」という概念を用いている。

周囲の(ambiant)という言葉は、「取り囲む」を意味するラテン語の ambireに由来する。

フォン・ユクスキュルの環世界Umwelt)は、シグナルの価値がある刺激の集合によって決定される生物の行動の環境で、それは刺激の重要な選別を前提としている。

ダニは小枝の見張り場所で何年もの間、木の下を哺乳類が通り過ぎ、その匂いで刺激されて動物の上に落ち、皮膚の下に落ち着くのを待つことができる。

この間、森のような環境から来る刺激には全く反応しない。

ダニは自分独自の世界、自分を中心とした環世界、認識が起こらない閉じた世界の中で生きるのである。



生物の中での原子の配置や相互の反応は物体の中よりも遥かに複雑であり、おそらく物理学や化学に挑戦していると言えるかもしれない。

しかし、生物を構成する分子や原子のシステムがどんなものであれ、それは原則として認識を拒むものではないだろう。

しかし結果として、認識には動かされない自分独自の世界に生きている存在がいる。

物質が説明できないことは、主体である存在――「主体」という言葉を、内面性の核となるものと理解して――の出現である。








2021年12月25日土曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(29)






それぞれの動物は意味の世界に生きていて、それは他の種の動物には捉え切れない。

多くの種があり、二つとして同じ個体はない。

生命の世界は数え切れず、途方もない多様性を実現している。

オーギュスト・フォレルは、「蟻の二つの種の間には、ネズミとトラの間と同じくらいの違いがあり得る」と言った。

どのようにして物質は、物質レベルでは考えられない何か――それはわたしが「世界」という内面性なのだが――が出現する生命を説明するのだろうか。

高等動物は意識を持っている。

なぜなら、眠り、目覚め、目覚めた状態にいるということは、意識があるということだから。

しかし、すべての動物には心の奥のようなものが存在し、それは人間の理解を拒む内面性の側面である。

なぜなら、我々は猫やハリネズミや鳥などの世界を生きるために動物の立場に身を置くことができないからである。

映画『ミクロコスモス』の作者はそれを試みてさえいなかった。











2021年12月24日金曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(28)
























ところで、我々は木の葉を観察した。

遠くからでは、それは緑の斑点に過ぎなかった。

近くに寄れば、葉脈が見えた。

木は植物なので、その葉は生きている。

しかし唯物論者は、それを構成するのは「物質」、つまり生きていないものだと言う。

どのようにして生きていないものから生きているものを説明するのだろうか。

生命で起こっていること、そして物質だけでは説明できないことをより正確に見てみよう。

わたしは木の葉を切り離して考えたが、自然には切り離されているものは何もない。

この葉の上にコガネムシを置いてみる。

しかし、コガネムシとは何なのか。

それは感覚データを解釈する存在であり、すべての動物が同じである。

蟻は匂いの世界に生きている。

匂いが仲間、重要でないもの、奴隷、敵の識別を可能にしている。

蟻は宇宙の中で「蟻」の意味以外には関心を示さない。

ヒトの匂いに関心がない。

犬はその反対で、足、腋の下、性器、頭髪の匂いを嗅ぎ分けることができる。

その反対に、植物の匂いにはほとんど関心を示さない。

我々の目には白く見える花も、ミツバチにとっては違う色になっている、という具合である。









2021年12月23日木曜日

大切なことは過去にしかない



このところ、これまでに書いたものを読み直している

その過程で確認しなければならないところが出てくる

そこで資料や本を探すのだが、それがなかなか大変である

記憶が全く当てにならないからだ

ただ、それが見つかった時には静かな悦びが押し寄せてくる

単純に繋がりが見えて問題が解決したということもあるが、それを切っ掛けに広がりを見せることがあるからだろうか

過去に自分が触れたものを蘇らせる過程で、どこかが強烈に刺激されるのではないかと疑っている

大切なことは過去にしかない、とでも言いたい気分である


ということで、今日はこれからに繋がる大きなアイディアが浮かんできた

一晩寝ると全くお話にならないことが判明することもあるので、少し様子を見なければならないのだが、、

全体的には、これまでには感じたことのないような落ち着いた状態にある

これがエピクロスの言うアタラクシアなのだろうか

いずれにしても充ちた時間が流れている





2021年12月22日水曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(27)
































ところで、物理学者は我々が「物質」と呼ぶものは、非常に小さい異なる粒子からできていると言う。

分子は原子から構成され、原子は陽子、中性子、電子などの構成要素を含んでいる。

まあいいだろう。

そうでないわけはないだろう。

しかし、これらの多様な構成要素について理解しているところを物理学者に訊くと、物質という概念が雲散霧消するのが分かる。

つまり、物質の構成要素は物質ではないというところに戻るのである。

もちろん、その構成要素は霊的なものでもないのだが。

「精神」とか「物質」という概念は、英語でいえば "irrelevant"(不適切、無意味)なのである。

「物質」という言葉に正確な意味を保つためには、我々に見えるもの、つまり、生きものと生きていないものの両方が存在するという確実さに固執するようにしよう。







2021年12月21日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(26)

























しかし、形而上学的な射程を持たない場合、物質という概念は狭い範囲の概念として有効である可能性がある。

ミシェル・セールは言う。

「物質は科学がない限りにおいて、良い概念である」

なぜなら、科学は自然の非物質性の深さを見出すからである。

非物質主義やピタゴラス主義に陥るのを望まないならば、科学を横に置いておき、常識に留まることにしよう。

自然と同一視するのが適切ではない物質の概念は、現象学的概念としての価値を保っている。

いつ地上に生命が現れたのかと自問する。

生命は火星に存在したのか。

おそらく。

しかし今は生命の形は存在せず、固体、液体、あるいは気体の物質だけが存在している。

取り巻く世界において、我々は生きているものと生きていないものを識別する。

砂糖は生きていないが、砂糖が引き付けるアリは生きている。

屋根の瓦は生きていないが、瓦の苔は生きている

生命は地上の至るところに存在するが、今日見るような星は物質でしかない。

従って、この概念は記載する際に価値がある。







2021年12月20日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(25)


























我々は結局のところヘラクレイトスの「火」に戻る。

ハイゼンベルクは、「『火』を『エネルギー』という言葉で置き換えれば、我々は彼の言葉を殆んど逐一繰り返すことができる」と言った。

哲学的物理学者が今日の彼らがするように、常に「存在論」を語る必要がなかったのは、「存在する」ものがないからである。

しかし、「エネルギー」とは何を言うのだろうか。

それは「4次元ベクター(4次元空間にあるベクター)の構成要素である」とベルナール・デスパーニャは言う。

さらに、「我々は結局のところ非常に抽象的で、非常に『非物質的な』定義に辿り着くのである。分かりますか。4次元ベクターの構成要素とは、数学的な存在なのである」と付け加える。

我々は「小体」について語るが、確実なことは、もし小体が存在するとすれば、「不変性、不貫入性、そして空間の固定部分を満たす広がりというような物質の本質的特質は何も持っていない。従って、それに関連する波動と同様に、単なる数学的記号としてしか考えられない」とシャンバダルは言う。

それ故ミシェル・セールは、「物質」という言葉は「それが物理学の中で、あるいは物理学によって解析された瞬間から益々意味を成さないものになり、その結果、今日の優れた唯物論者は形而上学的にしか存在しない」と指摘している。

ミシェル・セールが一見して間違ったのは、もし形而上学が現実の全体を考え、物質という概念がこの現実の一部にとって「意味を失った」とすれば、すべてを物質に帰着させようとする形而上学的唯物論は不可能になるからである。








2021年12月19日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(24)































自然の一貫性の原理は物質なのだろうか。

それは唯物論者が認めるところである。

これに対しては、ポジティブにもネガティブにも語ることができる。

物質は思考ではない、従って「意識のないものすべて、考えないもの(存在するために思考が必要でないもの)すべて、記憶、知性、意志、情動を欠いたすべて」が物質だとアンドレ・コント・スポンヴィルは言う。

このネガティブな定義は観念論に汚されているように見える。

なぜなら、それは思考に根ざすことから出発し、コギトを想定するからだが、数と空間という数学的存在もまた意識や記憶などを欠いているので、定義が広すぎるからである。

他方、物質とは何かをポジティブに言うのは物理学者の仕事になるだろう。

しかし、それを言おうとしているだろうか。

それは非物質主義に陥ることになる。

我々は電子や陽電子のために「物質」について語るが、光を与えると消滅する。

光はまだ物質である。

なぜなら、それは思考ではないからと言うだろう

しかし、光子に質量はない。

そのすべてのエネルギーは運動エネルギーにしか過ぎない。

それから、アインシュタインの式(E = mc2)によれば、質量自体はエネルギーに過ぎないので、すべてはエネルギーに帰着する。

バシュラールは「エネルギーがすべてを支えている。エネルギーの背後には何も残っていない」と言った。






2021年12月18日土曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(23)

























遠くから見る場合、見えるものはぼやけている。

技術化された目で見ても同様である。

「軌道」と言うべきか。

「粒子」と言うべきか。

議論されている。

ハンス・ディーター・ツェーは「粒子はない」と言う。

トンネル効果という量子現象を利用する1981年に発明された走査型トンネル顕微鏡は、特定の表面の電子状態の形態と濃度を、原子のサイズと同等かそれ以下の解像度で決定する。

にもかかわらず、原子の写真を手に入れることができず、合成イメージだけである。

しかし、ミシェル・ビットボルは、「スクリーンへの影響も、泡箱の痕跡も、走査型トンネル顕微鏡によって提供される刺激的な画像も、それらが証明しているように見えることを証明していない」と書いている。

わたしには彼が懐疑主義を進め過ぎたように見える。

目の前に倍率が1,000万に達する可能性があるイオン顕微鏡で得られたタングステン先端表面の画像があり、特定の条件下では先端表面の原子を識別できる時には、彼に付いていく気にはならない。

ただ問題が残っている。

「我々は正確に何を見ているのか?」が肉眼と同様に技術化された目についても問われる。

わたしが受け入れていることは、いずれにせよ、目に届くものは夕日のように自然の中で起っているということである。

つまり、自然の一貫性があるのである。







2021年12月17日金曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(22)

























しかし、この二つの側面――感知し得る性質の面と微粒子や電波の面――をどのように折り合いをつけ、一つにするのか。

次のようにするとできるように、わたしには見える。

感知し得る対象、例えば木の葉を遠くから見てみよう。

すると、緑のものしか見えない。

今度は少し近くから見てみよう。

そうすると、裂片や葉脈が見える。

光学顕微鏡、それから電子顕微鏡で、さらに近くから見てみよう。

すると、セルロースの分子が見える。

100万倍に拡大して大きな分子や細菌の構造を明らかにする電子顕微鏡――電子線は可視光の波長よりずっと短い波長を持つ――により、ウイルスや他の非常に小さな対象を撮影することができる。

結晶の空間における配列は、もはや不可視ではない。

他方、ウィルソンの霧箱の中で見たもの――放射性核から放出された粒子の軌道、他の粒子との衝突による粒子の生成、粒子の崩壊と放出――を撮影できる。

技術化された目のお陰で、視線が物質の構造に入り込むのである。

確かに、照射された湿ったガスが膨張するとその中に現れるものは、小さな液滴で形成された不規則な白い紐のようなものである。

今わたしが言ったことは、最近まで言われていたことであった。

すなわち、白い線は粒子あるいは小体の途方もなく微妙で速い軌道を表していると。

今日であれば、このイメージは別の解釈が可能になると言われている。









2021年12月16日木曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(21)

























有名な数学者のオイラーは『ドイツ王妃への書簡』の中で、「受け入れられている話し方から離れるいかなる理由もない」と語っている。

彼は、庶民の上に立って農民のように話そうとしない哲学者を次のようにからかっている。

「農民はこの物体は赤い、別のものは青い、さらに別のものは緑であると思い描くので、哲学者は反対のことを言うことによってしか自分を区別できなかった」(1760年7月15日の手紙)

わたしもまた、農民は正しく、色、味、音、匂いという固有に感覚されるもの(sensibilia propria)は実際の物体の性質であるというアリストテレス・スコラ学派の見方に戻るべきだと言うだろう。

色づく樹木の緑は自然の中にある。

「黄昏時の仄かな赤い光は、我々が想像する分子や電波と同じように、自然の一部である」とホワイトヘッドは言っている。






2021年12月15日水曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(20)
























ロックによれば、我々の知とは独立して物体の中に実際にある「1次」性質と言われるものは、硬さ、広さ、形、数、運動であるのに対し、光、色、音、熱さあるいは寒さ、匂いなどの「2次」性質は、一次性質が我々の感覚に与えた影響に過ぎない。

このような見方は未だに「大部分の科学者」の見方であると、ベルナール・デスパーニャは言っている。

バークリーは色から幾何学的データを分離するのを拒否することにより、色は「精神の外にはない」と言うが、それは物質的なものを消滅させることになる。

これはスコットランドの実在主義が反対する非物質主義(後の主観的観念論)である。

トマス・リードは言葉の普通の使い方を求め、こう言っている。

「『色』という言葉は、庶民が使うように、精神という考えを意味しようがなく、物体の永続的な性質を指している。」







2021年12月14日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(19)

































しかし、真の自然は科学にとってのものだと言われるだろう。

それは分子、原子、プロトン、ニュートロン、エレクトロンなどから構成されている。

わたしがいま語ったばかりの見かけの自然があり、見かけの自然の原因である真の自然がある。

これは、ホワイトヘッドが「自然の分岐」と呼んだもので、彼自身はもっともなことだが放棄した概念である。

彼はこう言っている。

「我々は『見かけの』という言葉を削除しなければならない。なぜなら、自然は一つしかないからで、それは我々の前にあり、知覚による知の中にある自然である。」

17-18世紀の哲学において、我々はボイルと共に「1次性質」と「2次性質」を区別することで自然を二つに分けた。

ガリレイによれば、自然は運動する物質の最小部分である「粒子」から構成される。

ただ、色、匂い、味は感覚器に依存している。

デカルトも同様の見方をしている。

ここに石がある。

彼は言う。

そこから硬さ、色、重さ、冷たさ、熱さなど、他のすべてのこの種の性質を取り除いてみよう。

なぜなら、それらが石の中にあるとは思わないからだ。

そうすると、我々が持っている本当の考えが残る。

その考えを構成するのは、長さ、幅、奥行きをもって広がる物質であると我々が明確に認識するということだけである。
 






2021年12月13日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(18)
































少し間隔があいたが、再びコンシュさんの話に耳を傾けることにしたい

本を手に取る

なぜか新鮮だ


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感覚は「もの・こと」がそうあるものとしてではなく、我々の感覚器の構造が認めるものとしての「もの・こと」を我々に提示すると言えるだろう。

しかし、我々の感覚器の構造は、まさしく我々が見、聞き、、するもので、我々を取り巻くものを真に知ることを可能にしているものである。

木は視覚にとって緑なのである。

確かにそうだ!すなわち、視覚のお陰で我々は木がそうであるもの――緑――として見ている。

望遠鏡の助けを借りて、わたしは遠くの船に乗っている人を見る。

それは「望遠鏡にとっての」人と言うのだろうか。

ヒトはヒトの感覚で自然を感じ取る。

犬は犬の感覚で別の自然を感じ取り、ミツバチも同様に異なった感覚で異なった自然を感じ取っているといった具合である。

これらの知覚は、何らかの統一性を想定することと相容れないのではなく共存する――わたしは相互に補完するとは言わないが――ものである。

自然はまさしくそう見えるものである。

自然は表れなければならないことをあらゆる方法で解決する。

外見よりも深いものは何もない。

存在しているということ――多数の存在、分散した存在――は外見である。







2021年12月12日日曜日

仙台で2年振りの語らい






















             島、田村の両氏



昨日は仙台で2年振りの会合があった

なかなか実現しなかった会であったが、やっと叶ったという感じである

お二方ともまだお仕事をされているようで頭が下がる

ただ、これからに向けていろいろと考えを巡らせているところとお見受けした

何もしないで悠々自適の身は珍しい人種のようで、その立場から見える景色をお話した

ひょっとすると、その話には参考になることがあるかもしれないと思いながら、、


ところで、いま顔を見せ始めたオミクロン株

感染力は強いが、重症に導く力は弱いという情報があるらしい

つまり、感染は広がるがそれほど酷いことにはならない株ということになる

これが本当なら、集団免疫はできやすくなり重症にもならないので、次第に収まっていくというシナリオが成り立つ

明るいシナリオではあるが、まだ確実ではないので、そう願いながら注意深く様子を見守ることにしたい






2021年12月11日土曜日

紙の裏を読む














昨日はこのところでは珍しい長時間の集中ができた

新しいアトリエがそれを可能にしているのは間違いないだろう

おそらく、そこにはフランスからの荷物しかないため、生活の匂いがしないためと思われる


ところで、フランスの資料を整理する際、「必要なし」と判断した紙を取っておくことにした

紙の裏を印刷に使おうという魂胆であった

そこで思わぬ発見をした

今日、移動の途中にポケットに入っていた紙を取り、何気なく裏に目をやったところ、以前に書いた原稿があった

読んでいくと非常に新鮮で、いろいろな判断をしていた

当時、ネガティブに思っていたところが、それほどでもないのではないかというものがある

精神衛生に良さそうだ

勿論、その逆もあるのだろうが、、

これは新たなプロジェになるのではないか

そんな思いも浮かんだ

しかし、これは暇つぶし程度に考えておいた方が体には良さそうだ

ただ、目の前にあるものは見逃さないようにするという点では、良い気づきであった





2021年12月9日木曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(17)
































エピクロスとルクレティウスが言っていることは、わたしには正しく見える。

そしてデカルトはそれに反論しない。

感覚の意味は、世界への適応を可能にすることである。

もし感覚が我々を欺いているなら、適応はどうだろうか。

盲人の痛ましい状態を見なさい。

感覚は種によって異なる。

ミツバチは偏光を感知でき、それが自らの位置を決めることを可能にしている。

彼らにとっての光は、太陽との角度によって多少とも明るくなるのである。

犬は我々が感受できない非常に高い音を聞き取る。

蝶は遠くにいる雌の匂いを嗅ぐ。

常に良い姿勢で飛ぶ鳥は、我々が持っていない平衡感覚を持っている、など。

これはすべて我々がまず第一に生きているということであり、生のための意味における感覚を理解しなければならないということである。







2021年12月8日水曜日

サイファイ研ISHEのカフェとフォーラムを振り返る



















科学と哲学のカフェ「サイファイ・カフェSHE」が始まったのは、2011年11月になる

今年で10年が経過したことになる

その後カフェが増え、PAWLベルグソンSHE札幌パリカフェの5つになった

この中のパリカフェは、COVID-19のためにフランスを引き上げたため、継続が難しくなりそうである

また、PAWLが始まるのを受け、2013年にこの活動のベースとしてサイファイ研究所ISHEを創り、現在に至っている 

ここ2年間はこれらの活動が休止を余儀なくされている

これもCOVID-19の影響である

これ以上悪化することがないよう願いたいものである


この休みの間、これまでの活動を振り返ることにした

手始めとして、これまでの会の様子を写真で一望できるページを作ってみた

より正確には、偶然そのような仕様になっているページがあり、内容が埋まっていなかったので利用したということになる

 ページはこちらから


いずれにせよ、実に多くの方の参加があり、これまで継続できたことが分かる

参加された皆様には感謝しかない


これからどのようにしていくのか、これまでの活動を振り返りながら考えることにしたい

今後に向けてのヒントやサジェスチョンなどがありましたら、歓迎いたします

これからもよろしくお願いいたします






2021年12月7日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(16)

























今朝、何気なくカレンダーを眺めていたら、ちょうど6年前の今日がパリでのスートゥナンスの日だったことを思い出す

それからさらに思索を続け、6年目に一応の纏まりを付けることができたことになる

本当に時間が掛かるものである

それでも「一応の」なのである

道は永遠に続いている


ところで、今朝は体の芯から冷えるなぁと思っていた

2時間後、暖房のスイッチを入れるのを忘れていたことに気付く

寒風が吹き込んでくる状態でよくも我慢していたものである

信じられないことが起こるが、これは何かが進行している証拠なのか

あるいはまた、古代の哲学者が考え事をして池に落ちたように、日常的に "absent-minded" の状態に入っているのだろうか

後者であることを信じたいのだが、、

さて今日も、コンシュさんに当たりたい


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唯心論は、絶対的精神は神であると我々に言う。

そして、神の属性を列挙する。

しかし、自然の方はどうだろうか。

神の存在を疑うことはできるが、アリストテレスが言うように、自然の存在を疑うことは「馬鹿げている」だろう。

感覚的な証拠においては、自然は敢えて言えば生身の人間にそれ自身を提供する。

しかし、我々は感覚を信用することができるだろうか。

デカルトはそうは考えなかった。

彼はこう言っている。

「わたしは感覚は間違えるということを時々経験した。我々を一度間違わせたものを完全に信頼しないことは慎重さである。」

しかし、感覚の証を拒絶する理由は、感覚が現実に我々を欺くから――この主張は正当化される必要があるのだが――ではない。

そうではなく、デカルトがこれから先は感覚的な確実さとは全く異なる確実性に彼の体系の基礎を置くことを決めたことである。

反対に、エピクロスは彼の体系を以下のような確実性の上に打ち立てた。

彼は言う。

「誤りや間違いは常に」感覚データに「意見が加えられたものの中にあり」、感覚データそのものの中にはない。

ルクレティウスは「感覚の誤り」と言われる多くの例を分析し、「誤りは我々の判断に由来し」、感覚そのものではないことを示した。

感覚の証は疑うべくもないのである。

その上、「我々に最初に真理の概念を与えたのは感覚である」とも言っている。

なぜなら、もし我々の目が見、我々の聴覚が聞いたこと、あるいはその反対を誰かが我々に主張した場合、その主張の正しさあるいは誤りは、我々にはすぐに分かるからである。







2021年12月6日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(15)





























「自然主義」が意味するものは何だろうか。

世界に存在するすべてのものの中で、特に人間について考えれば、それを最もよく示すことができる。

その起源に関して言えば、二つの解しかない。

すなわち、人間は自分より高いところから来たとするか、自分より低いところから来たとするかである。

一方に、起源に精神を置く唯心論があり、他方には、起源に自然を置く自然主義があるが、その中のある者は自然を物質に還元する。

ダーウィンの進化論は、人間が自然に由来することを示している。

キリスト教神学者は、進化論は人間の体については有効だが、神によって創られる魂については有効ではないことを認める材料を持っていない。

これは、ポッパーであれば言うであろう「反証可能」ではない仮説のタイプそのものである。

唯心論と自然主義との二律背反は、「イズム(主義)」という言葉のあるなしに関わらず、世界と生命について素直に省察した人の心に浮かんだ二律背反である。

例えば、イギリスの政治家グラッドストンは、自然の上位に自然とは異なる原理を認めるかどうかで2種類の精神を区別した。

法律』の第10巻の中でプラトンによって始められた対立は、哲学の全歴史を貫いて見られる。

ライプニッツによって始められ、マルクス主義者によって再び取り上げられた観念論と唯物論の対立は横に置いておくべきである。

なぜなら、「観念論」という言葉は、例えばプラトンあるいはカントで全く同じ意味ではないのみならず、観念論とは唯心論の特別な形に過ぎず、唯物論は自然主義の特別形に過ぎないからである。












2021年12月5日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(14)





















引き離された「神」、わたしにはそもそも少しずつ意味がなくなっているように見える概念だが、現実の全体はどうだろうか。

他には何もないので、それは必然的に無限である。

しかし、三要素の体系においては、神も存在するので世界は有限であり無限ではない。

わたしは今、世界に無限という性質を与えることができるだろうか。

ところで、世界はそれ自体で説明可能なのだろうか。

ここで我々が問い掛ける権利があることを知る必要がある。

何かが存在し、その何かは世界である。

まず、何かが存在するという事実について疑問を投げ掛けるべきなのか。

ある人たちは「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いを尊重する。

しかし、これは間違った問いである。

なぜなら、我々がパルメニデスベルクソンなどから学んだように、「何もない」ということ、すなわち無は考えられないからである。

マルブランシュが「何もないものを見るということは、見るということではない」、「何もないものを考えるということは、そもそも考えることにならない」と言ったように。

従って、この問いは「形而上学の根本的な問い」からは程遠く、我々がよく言うように「そもそも問いになっていない」とジャン・ヴァールは言う。

反対に、「なぜ『もの・こと』が他のようにではなく、このようであるのか」という問いは真の問いである。

エピクロスは、なぜ世界は我々がそうであると見ているようにあるのか、と自問した。

彼は原子仮説を使えば、詳細に至るまで説明できると考えたのである。

彼は「世界」という言葉を、星座も含めた見えるものの全体と理解した。

「世界」は、ギリシア語では秩序と構造を意味するコスモス(cosmos)と言う。

これらの言葉自体は有限性を意味し、無限の源泉である起源――それは説明力のない概念である神ではあり得ない――を想定しなければならない。

なぜなら、説明すべきものが何であれ、世界がどんなに異なっていても、いつも同じ「神」が引き合いに出されたからである。

反対に原子で満ちた自然は、世界のすべての現象を説明できるに十分なものを持っている。














2021年12月4日土曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(13)





この回答はわたしの考えをよく表現していた。

わたしが少なくとも家庭内においてはキリスト教の教育を受けていた時期、現実の全体は神、世界、人間という3つの要素から成るものとして提示された。

わたしはやがてこれらの要素の中の最初のもの、すなわち神を抹消した。

すべての「もの・こと」の源泉には全能で善なる神がいたが、これは地上で見るすべての悪や苦悩、特に「絶対」悪――つまり、我々がどのような視点から見ても正当化できない悪――とわたしが考える飢餓に曝され、虐待される子供の苦悩と相容れない。

これはまた、戦争における子供の運命に関する考えでもあり、わたしを徹底的な平和主義に導いたのである。

この平和主義に対する反対は良く知っていたがそれを拒絶して、わたしは自分の意見を決して変えることはなかった。

もし正当化できない悪の立場から有神論に反対の議論をしていなかったならば、超越的な神への信仰を守ることができたであろうか。

わたしはそうは思わない。

なぜなら、特に「聖なる」と言われている書物が人間の作品に過ぎないこと、そしてそれが意味するすべてのことを考えれば、わたしには「信じる」僅かな理由も見出せない。

もし聖書が神に霊感を得たものであるとすれば、その本は暴力的な神によるものに違いないだろう。










2021年12月3日金曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(12)

























エホバの証人の人がわたしに会いに来て、わたしは神を信じていないと打ち明けたが、彼らが抱く聖書の信念にわたしを引き込もうとして「あなたは世界がそれ自体で作られたものではないことをよく認識すべきです」言った時、わたしは決定論が持つ他にはない驚くべき価値を持ち出さないように、そして「世界の原因は何であるか」という質問の正当性に疑義を差し挟まないようにした。


もっとも、「世界はそれ自体で作られたものではない」ということを聞くのはありきたりなことである。


従って、この問題については善良は人たちの同意がある。


ところでプラトンは、「善良な人たちの同意は、言ってみれば他の人たちの同意よりも重みがある」と言った。


従って、わたしも訪問者と同じ土俵に身を置くことを受け入れ、こう返したのである。

「世界の原因は神ではなく、自然である」

彼らの内の一人はこの反応に衝撃を受けたようにわたしには見えた。













2021年12月2日木曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(11)
























しかしその上で、わたし自身の選択――それは唯物論ではない自然主義に向けられているのだが――について語る時である。

わたしは「自然主義」という言葉をアンドレ・ラランドの『哲学用語辞典』が「自然の外には何もないとする主義」と書いている意味に理解している。

わたしは素直に哲学するつもりである。

「素直に」とは、わたしの省察を理性の正当性に関するカントの批判から生まれた制約に従わせることなく、という意味です。

カントの批判は、実際のところ、現実の全体に関する知として与えられた形而上学に反するものである。

しかし、我々はこのような形而上学の捉え方に別れを告げた。

形而上学は、科学とか知識であるという思い上がりなしに行われる自由な思弁である。

「哲学者は多様なやり方で世界を『解釈した』だけであった」とマルクスは言った(フォイエルバッハについての11番目のテーゼ)。

彼はそこで哲学が解釈以上のものではなかったことを認めている。

科学しか与えられない知識ではなく、従って一つの纏まりに還元されない多様な哲学が可能であること、そしてその多様な哲学の中から個人的な瞑想によってのみ選択が可能になることをマルクスは認識していたのである。







2021年12月1日水曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(10)























そこで、選択するためには何に基づくのか、という問題が生じる。

エピクロスも同じだが、デカルトによれば、出発点は必然的に、我々にとって余りにも明確に見えるので真であると認めないことが不可能であることの中にある。

デカルトは知的な証拠を、エピクロスは感覚的な証拠を考えていた。

しかし、証拠が常に真理の基準であるということにどのような保証があるのだろうか。

「欺かない」神に基づき反対のことを強く支持したエピクロスもそうだが特にデカルトの考えにもかかわらず、我々はそのような保証を持っていない。

我々に明らかに真に見えるものがそうでないことはあり得る。

「われ思う、ゆえにわれ在り」(Cogito ergo sum)は確かである。

つまり、コギトと共に、紛れもない真理を保有していると信じることは正当化されるだろう。

しかし、証拠は決して単なる事実ではないし、当然の確かさがある確実性は事実の確かさ以上のものではない。

我々は不確実性の中で哲学する。

モンテーニュは、我々はその状況で同じようによく哲学することを示した。

我々は普遍的に有効であると考える真理に辿り着く。

しかし、確信しているが、それが不確かなものであることを知っているので――なぜなら、確信は確実性ではないから――、我々は自分の真理を誰にでも押し付けようとすることを――それが説得によるものであっても――避けるのである。

そこから寛容の体制が生まれる。

形而上学的な多元主義を、そして我々以外の真理があることを認めるのである。

我々のものではないこれらの真理は、我々はそれを間違いだと思っているので、括弧付きの真理とするのではあるが、、