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2022年12月9日金曜日

コリングウッドによる自然(58): ヘーゲル(13)

































ここで再び、ヘーゲル1770-1831)の自然哲学(Naturphilosophie)の不完全さ、すなわち論理的基盤における解消されていない矛盾を見る

彼は何をやっていたのか

自然科学者が実際にやり、信じていたことを哲学的に説明しようとしていたのか

つまり、彼の自然哲学は自然科学者が知っていることをどのように知ることになったのかという問いに答える試みなのか

あるいは、自然科学者がすでに成し遂げた結果の後ろに回り、伝統的な自然科学の方法ではなく、彼自身の哲学的方法で異なる結果を得ようとしていたのか

彼はこの両方をやったことで非難された

その都度、他のことをやるべきだったという理由で

確かに、彼は両方をやっていた

まず、同時代の自然科学を暫定的に受け入れることにより始めたのだが、その状態に満足できず、彼が考えるあるべき科学の姿に改良しようとした

そのことで彼は正当とは言えない厳しい批判に晒されたのである

それは科学が出したものを「科学的」すなわち侵すべからざるものとして放っておけばよいところを、それらを受け入れず批判したためであった



ヘーゲルは、同時代の科学と彼自身の方法で得た結果との統合、機械としての自然と過程が浸透している自然という概念の統合を何とか齎そうとしていた

統合が必要だと彼が考えたことは間違っていなかった

ただ、彼が辿り着いた統合が正しかったと言っているのではない

わたしが言っているのは、彼は急いでおり、自然科学は都合の良い時に自分のやり方で解決しなければならないということを見ず、自然科学の問題を哲学で解決しようとしたということである

彼は、科学の将来の発展でしかないようなことも哲学で先取りしようとした

そして、彼の予想は多くの点で驚く程正確であったことが分かる

しかし、科学的思考には先取りの場所はない

科学的思考は科学が成し遂げた結果を尊重するだけなのである


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これでヘーゲルのセクションを終えたことになる

なぜか分からないが、非常に長く感じた

と同時に、科学と哲学との関係に悩み、奮闘していた姿も垣間見ることができた

その意味では、これまで殆ど関係ないと思っていた一人の哲学者が、近くに寄ってきたように感じられる

それはカント1724-1804)についても言えるだろう

これから先は、よりは身近な現代的テーマが現れることを期待したい








2022年12月8日木曜日

コリングウッドによる自然(57): ヘーゲル(12)





ある点では、蕾から葉への過程と自然から精神への過程の対応関係は不完全である

蕾から葉への過程は自然の中で起こるので、時間の中でのことである

それに対して自然から精神への移行は自然の中でのことではないので、時間の外にあり、イデアの世界のもの、あるいは論理的なものである

ヘーゲル1770-1831)によれば、全ての自然が精神に変わってしまえば、時間はなくなる

逆に、自然が精神に変わることがなかった時はなかったのである

精神は常に自然から成長するし、これまでもしてきた


ヘーゲルの宇宙論が今日出回っている多くのものと明確に異なっているところに我々は導かれる

それは時間の意味に関係することである

現代の宇宙論は一般的に進化の概念に基づいている

一つの種の発展は時間の中での発展として見るだけではなく、自然からの精神の発展も時間の中での発展として見るのである

この種の見方はヘーゲルの時代にも徹底的に議論されていたが、彼はそれについて考えた末にそれを捨てたのである

全ての実在は層構造をしていると、ヘーゲルは言う

それは、低い感覚の層と高い知性の層がある精神についても、無機的で生命のない層と有機的で生きている層がある自然についても当て嵌まる

自然においては、生きているものと死んでいるものが相互に浸透することなく、それぞれの外に別物として存在しなければならない

自然においては、時間的な移行はなく、論理的な移行だけが存在する

それでは、なぜヘーゲルはこの立場を採ったのだろうか

それは、彼の時代の物理学によって考えられている純粋に死んでいる機械的な物質の世界は、物質を空間の中で再配置することしかできないのだが、それをやっても生命を生み出すことはできないと考えたからである

死せるものとは質的に異なる生きるものの中で作動している新しい組織化の原理がある筈である

物理学者が死せるものの概念に満足している限り、進化の理論を受け入れることができないのである















2022年12月7日水曜日

コリングウッドによる自然(56): ヘーゲル(11)


































自然=精神だからといって、我々が自然を考える時に精神を思い描く必要はない

あるいは、自然は精神が存在しなければ存在できないようなものでもない

ただ、自然は真の過程の一つの相であり、それが精神の存在に導くということである

ヘーゲル1770-1831)にとっての自然は、バークリー1685-1753)やカント1724-1804)にとってと同様、一つの抽象であるが、それは真の抽象であり、精神による抽象ではない

真の抽象とわたしが言うのは、実在する過程の実在する一つの相のことで、それが導く次なる相のことではない

従って、葉芽の成長は実際に起こっている過程で、葉が完全に形成される前に起こることである

蕾と葉が別々にあることは精神が作り上げたフィクションではない

蕾は葉とは異なる特徴を持っているが、葉になるようにしており、それが蕾の本質である

つまり、蕾と葉は一つの過程の異なる相を形成している

自然による抽象は、連続する相を通して行われているのである

ヘーゲルにとって全体としての自然が精神を含意しているということは、丁度蕾が葉を含意していると言うのと同じである

自然はまずそれ自身でなければならない

従って、自然の概念は真であり、錯覚ではない

しかし、暫定的にそれ自身であるのであって、自然はそれ自身であることを止め、精神になる

丁度、蕾がそれ自身であることを止め、葉になるように

蕾の全過程における暫定的な性質は、論理的には自己矛盾になる

そう在ることと成ることとの間の矛盾である

この矛盾は植物学者の誤りではなく、実在に内在する特徴なのである










2022年12月6日火曜日

コリングウッドによる自然(55): ヘーゲル(10)






























ヘーゲル1770-1831)は、空虚な空間と時間を自然における基本的なものとするという点で、カント1724-1804)とニュートン1642-1727)、デカルト1596-1650)とガリレオ1564-1642)に続いた

ヘーゲルは、自然に浸透する運動を、プラトン427 BC-347 BC)やアリストテレス384 BC-322 BC)のやり方で、さらに基本的な何か――それは論理的な過程なのだが――を時間と空間に翻訳することであると理解した

しかし彼は、このように時空に広がる自然というものを真剣に捉えるとすれば、いかなる自然の事物や過程も時間と空間の中には居場所がないという結論に至ることも見ていた

従って、空間に存在し、時間の中で起こるという考え自体が自己矛盾する考えになるのである

この状況においてヘーゲルがすべきことは何なのか

ある哲学者は、自己矛盾するものを見つけた時には、それは見かけであり実体ではないと言い張る

しかし、ヘーゲルには逃避の方法がない

なぜなら、彼は知の理論において超実在論者であり、現れたものは何でも実体であると考えるのである

自然が確かに我々に現れる

我々の感覚に現れるように見えるが、カントが示したように、それは我々の感覚ではなく我々の想像の中に現れ、科学者の思考に理解可能な形で現れる

従って、それは実在するのである

しかしヘーゲルによれば、その中にある矛盾が、それは完璧ではないことを証明している

それは何か他のものに変化することに関わっている何かなのである

自然が向かう他のものとは、精神である

従って、ヘーゲルにとっての自然とは精神であると言えるだろう








2022年12月5日月曜日

コリングウッドによる自然(54): ヘーゲル(9)




























予想よりも早くゲラが届いた

今週はその校正に使われることになる

当初のように、横書きが縦書きになっていることに新鮮な驚きを感じることもなくなっている

先日、参考文献について触れたが、本文中の数字はわたしの目には見えない大きさなので、気にすることなく読み進むことができるのではないだろうか

さて、本日もコリングウッド(1889-1943)によるヘーゲル(1770-1831)である



ヘーゲルは古代ギリシアを崇拝し、その芸術、文学、思想を熱心に研究したドイツ人世代に属している

ヘーゲルの自然哲学の有機体論や反機械論は、古代ギリシアの思想から拝借することにより18世紀の未解決問題が解決された哲学であると安易に記述されるかもしれない

わたしが安易にと言うのは、このような記述方法が影響とか借用について語られる表面的な歴史の特徴的なものだからである

このような安易なフォルミュールに満足しない思想史家は、ヘーゲルが18世紀の思想の隙間をプラトン(427 BC-347 BC)やアリストテレス(384 BC-322 BC)のパテで埋めたとは見ないだろう

寧ろ、自身の自発的な発展により、18世紀の思想が十分に成熟したため、プラトンやアリストテレスを理解できるようになり、その結果、自身の問題を彼らが議論していた問題と結び付ける地点にヘーゲルを見るだろう

しかし、ギリシアの観念との接触があったため、ヘーゲルは自分の世代の実践生活との接触を失ったのである

ヘーゲルは革命的であった

彼の自然観は、意識的に科学研究の正しいやり方についての革命的結論に至った

彼はガリレオ(1564-1642)から直接アインシュタイン(1879-1955)に行きたがったのである

しかし彼は、ニュートンにとって良いことは将来のすべての世代に良いと主張する反革命の世代に生きていた

ヘーゲルと彼の同時代人との論争は、彼の思想における不一致から生じたものであった












2022年12月4日日曜日

コリングウッドによる自然(53): ヘーゲル(8)



































ヘーゲル(1770-1831)によれば、自然の観念はこのように分散し、時空間に分布する二重にばらばらにされた実体の観念である

この特徴は全体としての自然の観念だけではなく、自然の中のいかなるものの観念にも影響を与える

物質的な物体の観念は、空間に分布する多くの粒子の観念であり、生命の観念は時間の中に分布する多くの特徴の観念である

そのため、物体の観念が局所的にでも実現されたり、生命のすべての特徴が現実となる時はない

物体がここにあるとか、今この瞬間わたしは生きていると言うことができないのである

たとえ「ここ」を一立方フィートとし、「今」を80年だとしても、物体の存在がその領域に含まれ、80年の中にその有機体が存在しているとは言えない

このように考えると、ホワイトヘッド(1861-1947)が再発見し、我々の時代に広めた概念に辿り着く

それは、世界に存在するそれぞれの物質は、ここやあそこに局在しているのではなく、どこにでも存在するということである

この概念は現代物理学にとって驚くべきことではなく、現代の宇宙論についての注目すべき事実なのである

それは現代の物理科学が物質とエネルギーについての見方に辿り着いたもので、自然に関するヘーゲルの理論が意味するところと合致している

ホワイトヘッドのような哲学者であり科学者が、ヘーゲルの理論をそうとは知らずに(なぜなら彼がヘーゲルを読んだようには見えないないからである)復唱したのである

しかし、ホワイトヘッドに可能であったことはヘーゲルには不可能であった

なぜなら、ヘーゲルの時代の物理学はニュートン(1642-1727)とガリレオ(1564-1642)のもので、空間にものが「ただ置かれている」(ホワイトヘッドによれば)と見做す物理学だったからである

従って、ヘーゲルの自然に関する理論は二元論によって引き裂かれ、結局はばらばらにされる

一方に、17世紀から受け継いだ自然は機械だとする前提がある

そして他方には、自然は単なる機械ではあり得ず、全ての実体には過程と活動が浸透していなければならないという彼自身の思想の宇宙論的な含意がある

なぜなら、自然にはそれ自身から論理的な必然性により、生命と精神を進化させる力が具わっているからである











2022年12月1日木曜日

コリングウッドによる自然(52): ヘーゲル(7)



























ヘーゲル(1770-1831)が自然の過程を指示する概念や形相をどう考えるのかは、プラトン(427 BC-347 BC)があらゆる形相を考えたやり方と平行している

例えば、プラトンは理想的な国家の概念は、いかなる現実の国家でも実現されないとしている

なぜなら、人間の精神はその概念を完璧に実現することができないからである

形相が人間精神にはできないことを課しているのである

しかし、ヘーゲルはなぜ、自然の形相がこのような奇妙な特徴を持つと考えなければならなかったのだろうか

答えるためには、我々は形相と観念、形相と精神を分けている特異性を問わなければならない

ヘーゲルの回答は、自然は本質的に外部の実在、外的世界だというものである

ここで言う外部とは、我々にとっての外部ではない

自然は我々にとって外部にあるものではない

我々の体の外にあるものではない

逆に、我々の体は自然の部分なのである

また自然は、我々の精神の外にあるものでもない

なぜなら、両者が空間に位置するのでなければ、一方が他方の外に位置することはあり得ないからである

体ではない我々の精神は空間には存在しない

自然を外的世界と呼ぶことが意味することは、それが外部性に特徴付けられた世界、すべてが他のすべての外に在る世界だということである

つまり、自然はものがそれぞれの外に在る世界である

これには2つの形がある

1つは、すべてのものが他のすべてのものの外に在る、すなわち空間

もう1つは、一つのものがそれ自身の外に在る、すなわち時間

一つのものが時間の中でそれ自身の外に在るというのは、その概念を実現するのが時間の中に広がっているということである

例えば、拡張し収縮するのが心臓の性質である

この2つの過程は論理ではなく自然の過程なので、一方からもう一つの相に移行するのは時間の中である

それぞれを虫食い状に行うのである









2022年11月29日火曜日

コリングウッドによる自然(51): ヘーゲル(6)

































自然の中に在るすべては、何か定まったものになろうとしている

しかし、その目的への収斂は常に漸近的で、決して一致点には到達しない

そのため、自然の法則は現代の科学者によれば統計的な法則と呼ばれる

個々の行動を正確に記述するのではなく、彼らの行動の全体的傾向を記述するのである

その意味では、自然は real ではなく、自然の中のものはどれも科学が記述するものとは完全には一致しない

それは我々の記述が訂正を必要としているからではなく、自然には不確定性の要素、アリストテレス(384 BC-322 BC)の言葉を使えば、まだ完全な現実態になっていない可能態の要素があるからである


自然における不確実性の要素の理由は何なのか

ヘーゲル(1770-1831)の回答は非常に目新しい

古代ギリシア人は、それを物質のせいにした

形相は完璧なのに物質の中に完全には体現されないのは、物質が言うことを聞かないからだとした

しかしこれは回答ではなく、形相が物質に体現されていないことを言っているに過ぎない

ヘーゲルの回答は、自然の形相が体現されないのは、形相自体に問題があるからだというもの

形相の問題とは、体現されないようにさせるものが存在していることで、そのため本来的に形相は完全には体現されない

その形相はユートピアのものである

抽象的で、本質的に非物質なのに物質に再現されるように要求されているのである







2022年11月28日月曜日

コリングウッドによる自然(50): ヘーゲル(5)




















ヘーゲル(1770-1831)にとって、自然は実在するもので、錯覚やそこにあると我々が思うので存在している単なる見かけでもない

それは真に存在しており、精神から独立して存在している

真に存在する、実在するという言葉(real)は曖昧である

字義通りに言えば、それは物体(res)の特徴を持っている

もし物が時空に存在するもののことを言うのであれば、自然は実在するだけではなく、唯一の実在である

なぜなら、それはまさしく物の全体であり、事物性の王国であるからだ

日常語における real にはもう一つの意味がある

それは本物か模造品かという場合の本物に当たる

模造品の場合、それは実在する物(realitas)ではあるが、真なるもの(veritas)ではない

それが本来あると言っているところのものがないのである


プラトン(427 BC-347 BC)やアリストテレス(384 BC-322 BC)によれば、全ての自然物は本質的に生成の過程にある

自身の形相にあるものを身に付けようとするが成功しない

第2の意味から言えば、全ての自然にある物は real ではないのである

それは単なる見かけでも幻想でもなく、それ自身に成ることに成功していないものである

ヘーゲルはこのプラトンとアリストテレスの自然観を受け入れる










2022年11月27日日曜日

コリングウッドによる自然(49): ヘーゲル(4)



















ヘーゲル(1770-1831)の哲学観は、主観的観念論のバークリー(1685-1753)やカント(1724-1804)に共通するところがある

主観的観念論という言葉はヘーゲルが作ったのかどうか分からないが、一般には彼に由来するとされる

ヘーゲルによれば、これは観念や概念が一人の主体にだけ存在する、あるいは「観念がその人の頭の中にだけある」とする錯覚のことである

彼はこの錯覚を、デカルト(1596-1650)の心身二元論の遺産と見ている

心身二元論は物質的でないものは何でも精神的なものだと考える癖を付け、概念を思考の前提とするのではなく、単なる思考法、思考の癖にしてしまった

この点で、主観的観念論は自分の精神以外は存在しないとする独我論とは区別しなければならない

ただ、独我論も主観的観念論の一形態と考えられるが、それはバークリーやカントの考えとは異なっていた


ヘーゲルの哲学は三部から成る体系である

第一部は論理学で、観念の理論である

第二部は自然の理論で、第三部は精神の理論である

これらが哲学的科学の百科事典を構成し、あらゆる哲学の論題や教義はこの枠組みのどこかに収まる

ここではその全体を説明しようとするのではなく、彼の自然の概念の概略を述べ、それが観念や精神とどのように対するのかを示したい







2022年11月26日土曜日

コリングウッドによる自然(48): ヘーゲル(3)




ヘーゲル(1770-1831)が一括して観念(the Idea)と呼ぶこのダイナミックな形相の世界は、自然の直接的創造者であり、自然を介して精神の源泉になるものである

従って、ヘーゲルは自身が言うところのバークリー(1685-1753)やカント(1724-1804)の「主観的観念論」を排除する

この考えによれば、精神は自然の創造者あるいは自然の前提として存在しているからである

つまり、ヘーゲルはこの考えを逆転させ、精神の源泉としての自然を唯物論的に見ることを好んだのである

彼には、この考えの唯一の間違いが自然を絶対的で自己創造的で自明なものにしたこととして映った

しかし実のところ、彼はプラトン(427 BC-347 BC)やアリストテレス(384 BC-322 BC)のように「主観的観念論」は、自然を創造され、何かに由来し、何か他のものに依存しているとしている点で、正しいと考えていた

ただ、その何かが彼にとっては精神ではなく、観念であったということである

ヘーゲルは、次の点でプラトンに完全に同意する

それは、観念を、精神の状態、精神の活動、あるいは精神の創造という主観的なものではなく、自らを満たし自立した存在の世界――それは精神の適切な対象となるものである――として見ることである

これをヘーゲルは、カントの「主観的観念論」に対して「客観的観念論」あるいは「絶対的観念論」と呼んだのである

なぜなら観念を、それ自体で実在するもの、それを考えている精神には全く依存しないものとして捉えていたからである











2022年11月25日金曜日

コリングウッドによる自然(47): ヘーゲル(2)



































ヘーゲル(1770-1831)はこの出発点から、彼が論理の科学と呼ぶものの中で詳しく説明する概念の体系を発展させる

この概念の体系は、非物質的で、理解可能で、有機的に構築されている点で、プラトン(427 BC-347 BC)の形相の世界に似ている

ヘーゲルとプラトンの世界の違いは、プラトンの形相の世界が変化や生成のない静的な世界なのに対し、ヘーゲルの場合は過程が浸透しており、動的なのである

ヘーゲルの世界は、一つの概念が論理的必然により別の概念に導かれる生成の中に現れる

これは、プラトンの形相が静的であるため、自然界の変化や過程の起源を説明できないというアリストテレス(384 BC-322 BC)の異論に答えるものである

ヘーゲルのにとっての自然の変化、自然の起源は、概念の世界における過程の論理的帰結である

つまり、論理的優先性が時間的優先性の基盤なのである

従って、アリストテレスとは異なり、ヘーゲルは彼の宇宙論の初めに、第一原因として思惟者あるいは精神を置く必要がない

彼は神を論理の科学が研究する対象として記述するが、神は彼にとって精神ではない

それは誤った擬人法で神を考えていることになる

神とは自己創造し自己存続する世界あるいは純粋な概念の有機体である

精神は、神が自己創造の過程――それは世界を創造する過程でもあるのだが――において獲得した決定の一つに過ぎないのである

ここに、バークリー(1685-1753)は未解決のままにし、カントは解決不能とした神の精神と人間の精神の関係に対するヘーゲルの回答がある

世界における人間の重要性は、まさしく人間が精神の運び手になっているからである

世界の過程が神の自己創造の過程と同一のものとして捉えられている点で、これは汎神論に似ている

しかし、汎神論と違うのは、純粋に創造的概念としての神自身は物質的世界に先立ち、その原因として超越している点である












2022年11月24日木曜日

コリングウッドによる自然(46): ヘーゲル(1)































久し振りにコリングウッド(1889-1943)に戻ることにしたい

この前まではカント(1724-1804)について見てきたが、これからヘーゲル(1770-1831)に進むことになる

カントは、我々が物自体について考えることはできるかもしれないとは認めたが、それをどのようにやるのかを発見する仕事は後継者に委ねることにした

全ての宇宙理論を自らの出発点にしたのは、ヘーゲルであった

彼は、科学知だけが知識に値するというエクスクルーシブな主張、従って物自体は知り得ないものとする考えを捨て、物自体こそ最も容易に知ることができるとしたのである

それは、質・量、時・空、物質・精神というような決まりのない純粋な存在である

それが知り得ないように見える唯一の理由は、その中に特に知るべきものがないからであり、他のものと区別すべき特徴がないからである

従って、我々がそれを記述しようとする時失敗するのは、その性質の神秘を理解できないからではなく、そこには記述すべきものがないことをよく理解しているからである

存在一般は特別なものが何もないのである

従ってヘーゲルによれば、純粋な存在という概念は無の概念になる

一つの概念から別の概念への論理的な移行は、我々の思考の主観的、心理学的な移行ではない

それは客観的移行であり、一つの概念が別の概念から論理的に進化した真の過程である

これは生成、発展、過程の観念であり、根本的な形態において「論理的に成る」ことである

時間にある過程、空間における動き、あるいは心や思考過程の変化ではなく、概念に内在する論理的な動き、概念の過程である

このように、ヘーゲルは如何にして物自体が創造的であり得るのか、それ以外のものの源泉になり得るのかという問いに答えたのである

その活動は我々が「論理的必然性」と言うものと同じである

一つの概念が別の概念――それは新鮮な概念で、それ自体新しい形であるのだが――を産み出す内在的な力なのである

概念は有機体のように成長する

未分化な出発点とは異質な新たな決定を芽生えさせることにより、可能態から現実態へと移行していくのである


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ヘーゲルの考えに殆ど初めて触れるわけだが、「科学知だけが知識に値するというエクスクルーシブな主張、従って物自体は知り得ないものとする考えを捨て、物自体こそ最も容易に知ることができる」というところなど、なかなかよい

それから「概念の移行」と言っているところも、自分で経験していることと関係がありそうで非常に興味深い

それは論理的な必然性を伴うもので、従って主観的ではなく客観的だと言っている

わたしの経験では、論理を突き詰めて行けばそこにしか行きようがないという点が見えてくるという感覚である

そしてこの移行が創造的なものを産み出すのである

自らの歩みに概念的な形を与えてくれるような力強い言葉であった

明日以降も期待したい