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2022年11月12日土曜日

ヴァレリー・アファナシエフの演奏論と「科学の形而上学化」

























今朝、この方の言葉に久し振りに出会った



そこにあった「創造された作品の再-創造」という見出しに何かを察したのである

早速読んでいた

彼の話には哲学者がよく顔を出す

ここでは、ガダマー(1900-2002)の『真理と方法』を引用している

「あるものが『正しい提示』なのかどうかを決定する規範は高度に柔軟なものであり、相対的なものである。しかし、表象が元の作品に拘束されるという事実の意義は、この拘束が確固たる規範を持たないという事実によって減じられるものではない」

 

オリジナルを恣意的な演奏のための犠牲にすることはできない

あくまでもオリジナルに何らかの拘束は受けるということである

アファナシエフはこうも言っている

「ある意味において、実演とはおそらく再-創造である。しかしながら、それは創造行為の再-創造ではなく、創造された作品の再-創造なのであり、実演者が作品の裡に見出した意味と一致するかたちでの提示に至らなければならない」


これを読んで浮かんできたのが、現在取り掛かっている免疫のエッセイのことであった

それは「科学の形而上学化」という方法を免疫に当て嵌めようとする試みになる

そこでの考え方も、アファナシエフの演奏論と繋がることがあるように感じた

つまり、この方法はあくまでも科学の成果に基づき、その事実から触発される見方や考えを展開するというものである

アファナシエフの言葉を借りれば、「科学によって明らかにされた自然を再創造する試み」と言えるかもしれない

創造する行為なのだと明確に意識できると、これから先の道行が違ったものになりそうである

そんな考えを弄んだ土曜の朝であった



因みに、このブログに2度ほどアファナシエフの名前が出てくる


そして、最初のブログと2番目のブログにもその名を発見



こうしてみると、長い間の顔見知りということになる








2021年11月13日土曜日

「科学の形而上学化」を文化に、そして今なぜ改めて「科学精神」なのか
















「医学のあゆみ」誌に連載中のエッセイ『パリから見えるこの世界』の第103回が出ました

 

「科学の形而上学化」を文化に、そして今なぜ改めて「科学精神」なのか

 医学のあゆみ(2021.11.13)279(7): 759-763, 2021 


現代を取り巻く根本的な問題についても触れています

ご一読いただければ幸いです

 





2021年6月14日月曜日

半年ぶりの一段落か















今日も素晴らしい快晴

朝のセッションで、長期プロジェの一塊を何とか作ることができた

当初の予定からは大幅に遅れている

これから見直しをすることになるが、それが終われば最後の一塊に向かうことになる

それがどれくらいかかるのかは始めてみないと分からないところがある

道を歩いていると、予想もしないものが現れ、道草をしたくなるからである

一体、どんな道行になるのだろうか

苦しみのなかにも悦びがあることを願っている






2021年4月16日金曜日

コロナの後は形而上学のパンデミックを















昨日の経験から積極的に歩く時間を作ることにした

一番いいのは朝だろう

そう考えた初日だったが、残念ながら雨

ということで簡単に諦め、近くまで用事を足すために歩くに止まった

明日以降に期待したい


ところで、日本の科学技術は優れていると言われていたが、コロナのワクチンを作ることもできないという声を聞いた

他の分野同様、日本の技術力も低下しているのではないかという見方である

これは個人的な印象でしかないが、個別の技術は十分にあるように見える

ただ、ワクチン製造のような場合には、手を動かす前に構想を立て、領域間の調整をするなど多くのことが求められる

そのような大きな絵を描くことができなくなっているのではないか

簡単に言えば、思考する力、構想力が貧弱になっている疑いである

 

勿論、国家主義的な企てに抵抗を示す人がいるのも理解できる

そのことも含めて議論があってもよいのではないか

真剣な議論も起らなくなっている

「もの・こと」を深く考えなくなっているのである

その底には、人間が持つ活力の低下があるのかもしれない


ところで、日本でも有名なマルクス・ガブリエルはこんなことを言っているという

コロナの後は形而上学のパンデミックが広がることを望む

18世紀以来科学技術が発展するようになり、人間は考えなくなってきた

その状態を変えなければコロナより危険なことになるとでも言いたいのではないだろうか 

一人ひとりが思考することにエネルギーを放出しなければならないのである

その心は「科学の形而上学化」が科学を超えて重要になるというわたしの主張とも重なるところがある






2021年4月11日日曜日

ハンス・ヨナスによるダーウィニズム



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハンス・ヨナスがダーウィン主義の哲学的側面について書いているエッセイがある

ダーウィンがどんな哲学を持っていたのかというよりは、進化論が齎した考え方の変化についてのものだ

まだ途中だが、その中に次のような言葉があった

進化論はプラトン主義に抗するものであり、唯名論実在論に対する勝利であった

中世の普遍論争において、普遍的な概念、形相は実在するのか否かが争われた

その問いに対して、実在論者はイエスと答え、唯名論者は存在するのは具体的な個別のものであるとした

そして進化論もこの問いに大きな影響を与えたというのである

その結果、プラトンが唱えた形相・イデアという非物理的なものは存在せず、存在するのは物理的なものであるとされた

唯名論の勝利は、本質についての問いを外に置き、どのように「もの・こと」が動いているのかを問う方向に導いた

現代の科学が本質についての問いを出さず、メカニズムの分析に精を出すようになった理由がここにある

 

このような見方は今では一般的だと想像している

しかし、歴史的な背景を理解していなければ、何も考えずにそれが科学の進む道であると錯覚することになる

形而上学の領域に入るだろうが、科学が本質について問うことを止める必要はないという考えだって成り立つ

思想史の側面から科学を見直すと、こういう考え方だって生まれる余地がある

ずっと広い世界が先に見えてくるように感じる

普遍論争の言葉で表現すれば、わたしは唯名論だけではダメだと考えている普遍実在論者ということになりそうである

それは「科学の形而上学化」の精神の別の表現とも言えるものである


実在論と反実在論についてのかなり詳しい議論は、昨年プイヴェさんの『現代哲学』を読んだ時にも出てきていた

何のために読んでいるのか分からなかったのだが、こんな繋がりも生まれる可能性がある

何事も無駄ではないということか

暇になったら読んでみたい

 

実在論と反実在論(2020.1.30-2.6)

実在論の擁護(2020.2.7-17)

 

 

 

 

 

2021年3月14日日曜日

吉満義彦、あるいは精神の中の場所








 

 

 

 

 

 

 

 

昨日はうん十年ぶりに市電に乗り、記憶の彼方に沈んでいた懐かしい駅名を聞いた

いろいろな感情を抱きながらその沿線で過ごした半世紀前が蘇ってきた

現場に入ることにより浮かび上がってくる記憶だ

それらの出来事も他の出来事と同じように時間軸を超えてそのあたりに転がっている

感傷を覚えることはなく、単に自分の中にあるかけがえのないその場所を確認する時間となった

 

そして図書館に寄り、吉満義彦全集に目を通す

殆どが貸し出されていて、残っていたのは1冊だけであった

この哲学者についてはよく知らないが、読まれているのだろうか

昨年、科学と形而上学の関係を殆どの現代人が考えるようには考えていないことを知り、興味を覚えた

彼が目指していたところが、わたしの考えていた科学と形而上学の関係に似ているように見えたからだろう

彼はこんなことを考えていたようである

例えば、「科学的探究の精神と形而上学的知性を如何に結び付けるのかという問題がある」

あるいは、「科学的精神は形而上学的精神と一であるべきだ」など

それで、もう少し知りたいと思ったのである


昨日湧いてきた感情をさらに振り返る

昔いた場所に身を置いても気分の高揚は全くなかった

人間はその時に自分の全世界としているものがあり、そこから一旦離れて戻っても以前の充実感は湧いてこない

これは10年ほど前にニューヨークを再訪した時にも感じたことである

それでは、今のわたしの全体はどこにあるのだろうか

どこに身を置けば高鳴る感情が湧いてくるのだろうか

あるいは、精神の中にその場所を確保したので、物理的な場所は関係なくなっているのだろうか





2021年2月8日月曜日

「2021・2・4フォルミュール」再考


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



2月4日に「『科学の形而上学化』は『真に知る』ための有効な手段となる」というフォルミュールを考えた

科学の形而上学化は、ある対象について科学が明らかにした知から共通のテーマを抽出するところから始める

そして、そのテーマに関連する形而上学の知を選び出し、科学の知との間を行き来しながら対象について説明する

この場合、特定の対象について「真に知る」、あるいはその本質に近づくことは可能かもしれない

科学に止まっている時に得られない新しい視界が開ける可能性がある

ただ、プラトンが問題にした「知そのものが何を言うのか」という問いに対しては、まだ開かれたままのように見える

その解を得るにはいろいろな対象について「科学の形而上学化」を繰り返しても駄目だろう

この過程自体を形而上学化することで解に近づくことができるのだろうか

まだまだ先が見えてこない





2021年2月4日木曜日

「科学の形而上学化」は「真に知る」ための有効な手段となる


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、エッセイを書いているが、小さいが重要な発見に結び付いた

それをフォルミュールにしたのが、今日のタイトルである

我々は何気なく「知っている」という表現を使う

言うまでもなく、我々の日常はそんな「何気なく」で溢れている

ここで「知る」を「真に知る」とさらに要求水準を上げてその意味するところを考えてみたい

そうすると、そこには哲学が必要になることが分かる

プラトンによれば、「真に知る」では個別の事柄ではなく、知るということ自体が問題になるからだ

つまり、知るということの本質が問われるのである

 

昨年、免疫の本質について「科学の形而上学化」を用いて明らかにした 

そこで分かったのは、この方法が「こと」の本質を規定する際に有効な方法になり得るということであった

真に知ることと本質が結び付いているのであれば、こう言うこともできるだろう

<「科学の形而上学化」は「もの・こと」を「真に知る」ための有効な手段になる>

これはプラトンの問いに対する一つの解になるということはないだろうか

そんな考えが巡っていた

変な話だが、それはトイレの中でのことであった

 

 




2020年11月15日日曜日

「科学の形而上学化」とは何であったのか

 















昨日、新しいエッセイを紹介した

  Yakura, H. Immunity in light of Spinoza and CanguilhemPhilosophies 5: , 2020


このエッセイでは「科学の形而上学化」を改めて定義してから省察を始めている

新しい定義では、これまでの思索を振り返り、3段階から成るとした

第1段階では、ある現象について科学が明らかにしたことを集め、そこから最少あるいは基本的な特徴を抽出する 

第2段階では、それらの特徴から考えられる哲学的・形而上学的な概念を探し、そこから再び科学の成果を考え直す

つまり、科学的論理と形而上学的省察を組み合わせることである

これは同時に、科学と哲学のあるべき関係についてのわたしなりの回答として捉えることもできる


このような思考は、科学の領域に限らず、あらゆる「もの・こと」を考える際に有効になると考えている 

現在の社会を取り巻く惨憺たる状況は、この認識がないことが大きな理由ではないかと想像している

そのため、この思考の重要性を科学や哲学を超えて認識することが不可欠になる

そこで第3段階として加えたのが、この認識の重要性を広く伝えることである 

すぐに思いつくのは、個々の形而上学化の成果を発表し、その重要性を社会の広い層と共に語り考えることなどである

そのやり方には各自の工夫や創造性が求められるだろう


改めて定義した中身を見直すと、ここ10年来わたしが実践してきたことと重なることが見えてくる

期せずして、理論と実践が噛み合った歩みをしていたことになる

別物だと思っていた「科学の形而上学化」が、実はわたしの「生き方としての哲学」と通底していたのである 

これは驚きの発見であった 


実践から見れば、サイファイ研ISHEの活動に参加された皆様との共同作業だったとも言えるだろう

これまで催し物に参加された皆様に改めて感謝したい

今回、英語で公表したことにより、この過程から生まれた成果が広く議論される切っ掛けになれば望外の喜びである

そして、今後ともサイファイ研の活動にご理解、ご協力をいただければ幸いである






2020年11月14日土曜日

スピノザとカンギレムに照らされた免疫

 

 

 

 

 

















長い思索の結果を一つの塊に纏め、公表することができた

免疫の本質に迫るべく、スピノザカンギレムの哲学を参照しながら免疫を考え直したものである

微に入り細を穿つクリティークに対応した後に受理されたのは幸運なことであった


このエッセイでは、これまで何度も触れている「科学の形而上学化」を改めて定義してから「こと」を始めている

そして、免疫の中に規範性を伴う心的性質を見るところで終わっている

お読みいただき、ご批判をいただければ幸いである

  
  Yakura, H. Immunity in light of Spinoza and Canguilhem. Philosophies 5: 38, 2020

 




 


2020年10月24日土曜日

免疫の新しいパースペクティブ: 科学から形而上学へ


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑誌 Philosophies が免疫に関する特集を組むことになり、ゲストエディターを依頼されました

"New Perspectives of Immunity: From Science to Metaphysics"

詳細は上のリンクにありますが、呼びかけの言葉を以下に貼り付けておきます

免疫に関する新しい見方をお持ちの方の投稿をお待ちしております

2021年5月末日まで受け付けております

よろしくお願いいたします


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Dear Colleagues,

Recent advances in immunology are transforming our view of the immune system and the phenomenon of immunity. For example, the specificity of antigen recognition and the existence of various forms of immunological memory blurs the boundary between adaptive immunity and innate immunity. It has been clarified that the immune system is closely associated, more than ever, with other systems in an organism, such as the nervous system, the endocrine system, and the metabolic system, such that the immune system appears to be coterminous with the organismal whole. Research that traces the phylogenetic tree also provides us food for thought regarding how to interpret the essential feature of the immune system. The current state with this unprecedented new information can be called a “philosophical situation.” We must face these facts anew and re-question the fundamental issues, such as specificity, cellular activation and regulation, self-recognition, innate and adaptive immunity, immunological memory, homeostatic regulation of biological polarity, and the psychoneuroendocrinoimmune network, and how to consider the immune system and the essential feature of immunity. Furthermore, the omnipresence of immunity in the living realm provides an opportunity to think about organisms and life from the perspective of immunity. To advance these processes, both synchronic and diachronic analysis is indispensable. In this special issue of “immunophilosophy,” we aim to review the current state of our scientific understanding of immunity and deepen analyses of individual phenomena within it or immunity in its totality from the perspectives of science, philosophy, history, and metaphysics. In doing so, we hope to stimulate transdisciplinary discussions and set the stage for establishing a new paradigm, which will serve as a guidepost for future research. We welcome the contributions of papers in this direction or from other promising perspectives.

Dr. Hidetaka Yakura
Guest Editor

 

 

 

 

2020年9月23日水曜日

また一歩踏み出す


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

休み明けの気分で、ご無沙汰していたサイファイ研ISHEのサイトを見直し、手を加えた

今年の前半、毎日のように訳して本ブログに掲載していた『現代哲学』を新しいページに纏めた

改めて全体を眺めると、よくやったものだという感慨が湧いてくる

こなれていない日本語も満載なのだが、、

 

また、長期プロジェを謳っている免疫についてのページは10か月もご無沙汰していた

それだけ進展が見られないということだろうか

最近の植物免疫の論文について簡単に触れた

 

それから昨日触れたお誘いにはポジティブに返答した

一歩踏み出すという感覚である

これから頭を絞らなければならなくなる

この過程で新しい景色が見えてくるとよいのだが、、


 

 

 

 

2020年9月20日日曜日

久し振りに長期プロジェと向き合う























今日も気持ちの良い朝を迎えている

薄紫の花だが、気のせいか昨日よりもさらに目立つようになっている

嬉しいことである


このところ短期のプロジェに追われていた

少し遅れたが、やっと長期プロジェに向き合う精神的余裕が生まれた

朝の庭を味わった後、終日お付き合いすることにしたい

免疫という大きなテーマなので、終わりがないというのが率直なところである

最後はどこで切り上げるのかという決断の問題になるのだろう

つまり、終わりとしたものは本人の都合によるものなので、その後も続くということになりそうである







2020年9月18日金曜日

「植物免疫における認識と記憶機能」のご紹介


 













 

この夏、植物の熱を感じたからではないが、植物の免疫に関するエッセイを書いてみた

科学雑誌向けだったが、哲学的考察というセクションを設け、「形而上学化」を実践したものである

ささやかではあるが、論文形式のものとしては初めての試みになる

 

レビュワーの中には、こういうコメントをする方がいた

「科学者はこのような省察をもっとしなければならない。しかし、これは科学の雑誌で適切とは思えない」

しかし、やり取りをする中で、前段にもあるように思慮深い方であることが分かり、建設的な助言もいただいた

そして、最終的にはわたしのやり方を認めてくれたようである 

 

Yakura, H. Cognitive and memory functions in plant immunity. Vaccines 8:541, 2020

 

 興味をお持ちの方はお読みいただき、ご批判をいただければ幸いです