2020年3月23日月曜日
徳認識論と信念倫理(5)
最近の新たな方向付けについて懐疑的になるかもしれないが、エピステモロジーはこの領域の我々の期待を再定義する
ここまでのエピステモロジーは、知識、理性、正当化、認識論的規範の理論を提示することを狙っていた
ドイツ語で言えば、「知の理論」はカントの精神を持つ Wissenschaftslehre となるだろう
それは、常に多くの哲学者にとっての知の哲学である
しかし、新しい概念においてはアリストテレスの影響がある
ただ、アリストテレスのテクストを厳密に参照するというよりは、いくつかの考えを参考にすることである
それは、徳の重要性、それから理性、知識の実践における自己の完成や人間性の充実した発育の重要性である
つまり、エピステモロジーは認識論的価値を持つ知的態度を記述することである
なぜなら、エピステモロジーは我々の知的成熟や完全な理性の実現を促進する可能性があるからである
もし人間を理性的動物であると定義すると、理性的能力の完全な成熟は人間性の実現を意味している
なぜ我々は知るようにしなければならないのか、なぜ真理を欲しなければならないのかという問いが主要になる
換言すれば、重要なことは価値としての知識と理解である
重要な概念となるのは、認知に関する範疇としての、そして理解の仕方としての感情である
これは「知の理論」の枠組みの中では想像できなかったことだろう
ある意味で、これは知識の哲学に切り込んでいた多くのポストモダンの哲学者が興味を持った問題である
しかし、ポストモダン哲学者には次のような傾向があった
それは、知る意欲や真理の欲求を我々の形而上学的錯覚の徴、そして支配や権力欲の表れと捉える傾向である
徳認識論においては、全く逆である
認識論的徳とは、我々の性質の完全な成熟、認知的と同時に道徳的な我々の完成に不可欠な条件である
この意味で、エピステモロジーと人間性の形而上学は相互浸透するのである
それはまた、形而上学の現代におけるルネサンスが取っている形態の一つでもある
2020年3月22日日曜日
徳認識論と信念倫理(4)
徳認識論は、徳倫理学における道徳的生活をモデルにして認識論的生活を考える
重要なことは、それを尊重することにより信念の正当化が保証される認識論的規範ではない
徳倫理を生きる人にとって良い道徳的生活とは、我々の中にある最良のもの、我々の道徳的徳の実践である
この実践が我々の人間性を実現し、可能な最良の生活を保証するのである
同様に、良い認識論的生活とは、認識論的徳の実践を通して理性的人間性を実現することだろう
認識論的徳とは、例えば、精神を開くこと、知性的勇気、知的活動に相応しい節度のようなものである
シェフィールド大学のクリストファー・フックウェイは、次のように言っている
「徳認識論は、認識論的評価の実践を記述し、知識や正当化に中心的役割を与えることなく、その基本的な語彙を明確にできる」なぜなら、第一の役割は人間が行う徳に帰属しているからである
このように、現在の認識論は20世紀のある時期そうであったものとは異なるものになっている
我々を知識と正当化に焦点を合わせた認識論に導いたと思われる行き詰まりは、克服できるだろう
特に、認識論はデカルト以来そうであったような懐疑主義の挑戦に対する回答だけではなくなっている
認識論は最早、認識論的正当化の理論ではない
そうではなく、良き認識論的生活を送っているという主張を保証する特徴の質の探究である
重要になるのは知識の定義ではない
寧ろ、それによって人間性を実現する認識論的生活の望ましい在り方を記述することである
2020年3月19日木曜日
徳認識論と信念倫理(3)
知的生活にとって、徳認識論は1960年代に誕生して以来、徳倫理学と並行するものである
それは、エリザベス・アンスコム、ピーター・ギーチ、アラスデア・マッキンタイアらの仕事の中で生まれた
徳倫理は規則による倫理とは対立する
後者においては、一つの行動が道徳的かどうかは規則や命令に依存しているかどうかで決まる
カントにとって、この命令は定言的である
すなわち、如何なる経験上の条件にも煩わされることがない
例えば、嘘を決してついてはいけない、なぜならそれは普遍化できない行為だからである、となる
優れた道徳的規範は、行動を縛る原則が普遍的法則に高められるように行動することである
規則による倫理は、すべての人間の行動の道徳的規範を成す規則は何なのかを決めることに関わっている
それに対する徳倫理は、行動ではなく動作主あるいは行動する人間を対象とする
行動の道徳性を生むのは、その人間の道徳性である
そして、人間の道徳性は、正義、勇気、節制などの性格の特性に由来する
正しい道徳的問いは「私はどのような行いをすべきか」ではなく、「私はどのような類の人間であるべきか」である
優先される概念は、務め、義務、命令の概念ではなく、徳、卓越、善、信頼のそれである
嘘が禁じられるのは、それが普遍化できないからではなく、嘘をつく人の堕落した特徴を物語るからなのである
(つづく)
2020年3月18日水曜日
徳認識論と信念倫理(2)
正当化された我々の信念、あるいは信念をもって何かを信じている我々
この二つは同じではない
徳認識論は、信念ではなくそれを信じている人に重点を置くという変化から生まれた
この考え方は、正当化された信念の特徴より、知っている人の特徴に興味が向かう
思考の正当性や信憑性を成すものを問うことと、何かを信じている人の信頼性を検討することは別である
我々の信念が保証されるためには、我々はどのような類の人間でなければならないのか
認識論における最も根本的なこととしてこの疑問を持つことが、現代哲学者の認識論の理解の仕方を変えることになる
エピステモロジーは信念(心情)倫理として捉えることができるだろう
つまり、あることを信じる資格があるのかどうかの問いに対する答えである
例えば、この本の読者がそこで読んだことを信じる資格はあるのか
21世紀に生きていることを信じる資格を持っているのか
しかし、我々の資格に関する議論は形だけのものに過ぎないかもしれない
上で見られた議論のやり方を交換しましょう
しかし、それはフー・ファイターズの最新アルバムが素晴らしいことを信じることに関するものなのか
神の存在を信じることに関するものなのか
今回は議論がより激しくなる恐れがある
ある人は、「しかしそれは『下品なロック』で何の美的価値もないし、素晴らしくもない」と言うだろう
「神?でも君はその存在を信じていない。そんなのは馬鹿げているだけではなく、無責任だ。なぜなら、宗教的狂信がどれだけの不幸の直接原因ではないのかと言えるからだ」
徳認識論から見れば、重要なことは、例えば、神の存在を信じることが受け入れ可能かどうかを知ることではない
そうではなく、神の存在を信じている人が承認しがたい認識論的態度を採っているかどうかを知ることなのである
信念倫理は、最早信念の特徴には向かわない
むしろ、態度、やり方、習慣、悪癖と徳について強調しながら倫理に近づくのである
(つづく)
2020年3月16日月曜日
徳認識論と信念倫理(1)
懐疑主義者から見れば、我々の信念は要求性の高い認識論的正当化の基準を満たすことはできない
彼らは、我々が認識論的正当化において概してだらしないと考えている
認識論における不満はそこに由来する
そのスローガンは、次のようなものである
「私が知っているすべては、私は何も知らないことである」
「クセジュ?(私は何を知っているのか)」
デカルト、ロック、カントのような基礎付け主義者は、認識論的正当化の基準を出すことができたと主張する
デカルトは思考の明晰さと洗練、ロックは証拠と信念の度合いとの釣り合い、カントは実証的立証性を提示した
基礎付け主義者は、懐疑主義者に答えようとするのである
ところで、それは可能だろうか
現代哲学者の認識論的プロジェは、我々の信念の認識論的価値を検討することと一体化する
これはラッセルまでとそれ以降のことだが、1980年代から新しい哲学者が現れる
彼らは正当な信念の規範や知識の基盤の問題に関する研究と縁を切るのである
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基礎付け主義(fondationnalisme; foundationalism)とは、信念や判断の構造に関する立場であり、哲学のさまざまな分野に存在する。
• 認識論においては、信念が正当化されるのは基本的な信念によって基礎付けられることによってであるという考え方を指す。
• 倫理学においては、倫理的判断が正当化されるのは基礎的な倫理判断によって基礎付けられている場合であるという考え方を指す。
反基礎付け主義とは、知識を基礎付ける 確実な基盤の存在を認める基礎付け主義を批判し、反対する主張。
リチャード・ローティに代表される。
フランス現代思想のポスト構造主義、ポストモダンも反基礎付け主義的傾向をもつ。
真理・理性といったロゴス中心主義を批判し、総じて相対主義的な傾向を持つ。
(Wiki より)
(つづく)
2020年3月15日日曜日
エピステモロジー(15)+ アメリカ大統領民主党予備選
信頼性主義(4)
しかし、我々は信頼のおける目利きであり、抜け目ない天才の騙しの犠牲者にもなり得ることはないのか
T が今歯を磨いていると想像し、実際にそれは彼がしていることだが、それを信じる理由が何もない場合
わたしは信頼のおける目利きなのだろうか
知識を獲得する信頼性ある過程でないことを見つけるにはどうしたらよいのか
例えば、わたしがある朝、A が電車を降りるのを見たとしよう
わたしの信念が形成される過程はどれだろうか
(1)知覚、(2)目による知覚、(3)朝の目による知覚、(4)駅での朝の目による知覚、そしてこんなのもありだろう。(5)A が帽子を被っている時の駅での朝の目による知覚(1)から(5)の中で、わたしの信念を正当化する適切な過程はどれだろうか
それが厳密で狭義のものであれば、この過程の信頼性は完璧になるだろう
しかし、(1)のように一般的なものであれば、同じ過程から生まれた二つの信念の一方しか正当化されないこともある
この違いはどう説明されるのだろうか
このような反論の議論が生まれるところが、信頼性主義を生きたオプションにしているのである
なぜなら、それに答える可能性がおそらくあるからである
例えば、先に挙げた信頼性主義のゴールドマン流の定義の(2)がある
S の信念が形成された過程の他に、それに従ったとしても S が p を信じることにはならないような信頼性ある、あるいは条件付きで信頼性ある過程がない場合これが上のような反論に答えることを可能にすることはないのだろうか
読者はここで、それを考え、いろいろな例を見つけたり想像したりするのがよいだろう
エピステモロジーとはこのように気晴らしになる楽しいことなのである
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アメリカ大統領民主党予備選
head-to-head の討論会を明日に控え、気になるニュースを目にした
バイデンの認知能力低下を取り上げるものである
サンダースは78歳であることは知っていたが、バイデンも77歳である
この問題は前から燻ぶっていたようだが、大々的には取り上げられて来なかったようだ
前半の戦いでは殆ど死んでいたので、注目する人が少なかったからではないかと思われる
ただ、ここに来て最有力候補となり、選挙戦での言い間違いが無視できなくなったということだろう
例えば、自分は上院議員に立候補していると言ったり、演説中に文章を作り終えることができない
あるいは、いつ大統領になるのか、今どの町に来ているのかも答えられないこともあるという
この世界のどこに自分がいるのか分からなくなっているというのだ
民主党の中枢はバイデンをできるだけ表に出さないようにしようとしているという
しかし、この状態で民主党の候補になったとしてもトランプとの討論会を乗り切ることができるのか
もちろん、バイデン個人に対する批判ではない
たとえ彼が大統領になったとしても職責を全うできるのかという問題だという論調である
サンダースはこの点への言及を避けている
いずれにせよ、明日の討論会がどのように展開するのか、注目したい
2020年3月13日金曜日
エピステモロジー(14)
暫くご無沙汰していたが、信頼性主義について続けることにしたい
信頼性主義(3)
少しでも信念が信頼性ある認識過程に由来するとすれば、S の信念は正当化されると言うのは不十分である
なぜなら、S はこの信念を正当な理由で弱める可能性があるものを考慮しなければならないからである
もし S が5歳の時に赤い自転車を持っていたことを思い出すとすると、彼の信念においてはそのことが正当化される
それを信じることを妨げる信頼性ある過程があれば別であるが
例えば、S は子供時代の記憶の信頼性を疑う心理学者(そして大部分の人間)の証言を無視すべきではない
従って、次のようなフォルミュール(ゴールドマンを改変)に辿り着くだろう
S の p に関する信念が正当化されるのは、次の二つの条件が満たされた時だけである。(1)それが信頼性ある認知過程によって生まれたものである場合、そして(2)S の信念が形成された過程の他に、それに従ったとしても S が p を信じることにはならないような信頼性ある、あるいは条件付きで信頼性ある過程がない場合。このように、信頼性主義の単純さ(我々の信念は信頼性ある過程によって正当化されるとする)は幾分失われる
ゴールドマンはこのフォルミュールに問題がないわけではないことを認めている
本質的なことは、知識の定義から認識論的正当化の条件を作るのは止めるというのが妥当だということである
信頼性主義は、知識であるべきもののアプリオリの基準を提案するのではなく、知識の事実から出発する
知識の形成のされ方を記述し、それに影響を与える枠を明確にしようとするのである
(つづく)
2020年3月7日土曜日
エピステモロジー(13)
信頼性主義(2)
欠陥のある過程は何か共通のものがある
それは、「信頼性の欠如」を共有し、殆どいつも間違いを生み出す傾向があるということである
反対に正当化を付与する過程は、「信頼性」という一つの特徴を共有している
それは、一般的に正しい信念を生み出す
ある信念の正当化の状態は、信念の原因となる過程の信頼性と関連する
その信頼性が、間違いではなく正しい信念を生み出す過程の傾向から成るという限りにおいて
従って、正当化は S がその信念について持たなければならないメタ認知的信念の問題ではない
例えば、デカルトの場合のように、無謬性、反証不可能性、確実性などの基準を満たすというような
そうだとすれば、子供(や動物)の信念の正当化をすべて禁じることになるだろう
我々の信念が信頼できる過程によって正当化されるためには、その過程が完全に無謬性である必要もない
すべての機能不全に対して保証されていなくても信頼できる過程として受け入れる
条件付きで信頼できるもの、すなわち、一般的に正しい信念に導くものでさえあればであるが
(つづく)
2020年3月5日木曜日
エピステモロジー(12)
信頼性主義(1)
ここで再び、懐疑主義の挑戦に戻ってみたい
それは、最も深く根付いている我々の直観の一つに突き当たる
すなわち、我々は多くのことを知っているというものである
個人的に振り返っても、人間は本当に多くのことを知っているということに日々驚いている
懐疑主義の挑戦に答えるということは、普通の規範とは異なる認識論的正当化の規範を処方することである
この規範を適用することで懐疑主義を回避できる
認識論的正当化は、ある信念が正当かどうかを決めることを可能にするメタ認知的信念に基づいている
それを軽んじることは、認識論的に間違っており、無責任であることになる
しかし、懐疑主義者は策を弄すること巧みである
要求水準を上げ、規範は満たすことが不可能になる
もう一つは、我々の確実な直観を考慮に入れるやり方である
つまり、普通の規範が最終的には十分に満足のいくものであることを説明することである
アルヴィン・ゴールドマンは、ある信念はそれを正当化する過程や特性から正当化された状態を引き出すとした
従って、信念を正当化する過程がなければならない
しかし、主体が理由を持ち、それがその信念を持つことを正当化することを意味しない
アメリカ大統領民主党予備選
スーパーチューズデーを終わった段階での代議員獲得数は、大体以下の通りとなった
ジョー・バイデン 467
バーニー・サンダース 392
サンダース包囲網が効いたのか、取ると思われていた大票田のテキサスなどを落とした
やはり優勢が伝えられていたカリフォルニアも落とすことになると難しいと思っていた
しかし、そこは踏み止まったようである
代議員の過半数に当たる1,991にどちらが到達するのか
これからも折に触れて覗くことになりそうである
(つづく)
2020年3月1日日曜日
エピステモロジー(11)
認識論的正当化(5)
問(2):認識論的正当化に対する回答は知識の定義を経るのか
この問に対するポジティブな反応の一つの前提は、ピーター・ギーチが「ソクラテス的詭弁」と呼んだものである
プラトンの対話篇で、ソクラテスはある「もの・こと」を定義できなければ、それを知ったことにはならないと主張
つまり、何が美しいものなのかを知るためには、美とは何であるのかを知らなければならない
同様に、正しいことを知るためには正義を、信心深い行動を知るためには信仰心を定義しなければならない
多くの哲学者は、それが彼らに立派な役割を与えるという理由で、簡単に信じてしまった
知っていると主張する人に何も知らないことを示し、定義の専門家を自称するのである
しかし、子供はどちらも定義できないのに、父親とぬいぐるみの熊を明らかに識別している
その子供に、指さすだけでは不十分で、ぬいぐるみの熊とは何であるかを言わなければならないと訊いてみる
そうすることは、子供を苦労せずにソクラテスにすることでもあるだろう
犬でさえ、定義することなしに食べ物と入れ物を区別する
犬は入れ物でなく食べ物を食べる
定義には全く依存しない知識のケースである
医師は目の前の患者がその病気であるか知らなくても、病気であるための必要十分条件(定義)を知っている
X の定義は X の一例を同定する能力とは一致しない
しかし、それは知識としては有用である
ゲティア問題は知識の古典的な定義が不十分であることを示すものであった
間違った考えを排除することは、決して時間の無駄ではない
エピステモロジーの進歩、一般的には哲学の進歩というものは、おそらくそういうものだろう
ゲティア問題に関連する論争が巻き起こした知的興奮は、次のようなことに関するものであったと言えるだろう
それは、ある特定の場合に S が p を信じることが正当化されるか否かを知るという問題を省察することであった
ゲティア問題が議論の余地のない解決を見ることはなかった
しかし少なくとも、p を知ることと p の正当化された真の信念とは同じものではないことを知ることになった
それは、数百の論文の著者の努力のお陰である
エピステモロジー(10)
認識論的正当化(4)
大陸哲学者の中には、実存的、政治・文化・歴史的問題を無視して哲学するやり方に軽蔑しか示さなかった者がいる
フレッド・ドレツキにとって、知覚、証言、証拠、記憶、情報などは我々の知が形成されるされ方である
しかし、知覚、証言、証拠、記憶は「演繹の下に閉包」されていない
(1)もし S が p と、p が q を導くことを知覚しているとすれば、S は q を知覚することになる
(2)もし S が証言により p と、p が q を導くことを知ったとすれば、S は証言により q を知ったことになる
(3)もし S が p と、p が q を導くことを証明したとすれば、S は証言により q を証明したことになる
(4)もし S が p と、p が q を導くことを覚えていれば、S は q を覚えていることになる
しかし、ドレツキによれば、(1)ー(4)は間違っている
ただ、知り方の失敗は認識的閉包性の原則が間違っていることを意味しないと答える人がいる
それは単に、我々が知っているものの先にあるものを我々は知ることにはならないことを示しているだけである
すべて問題は、次のフォルミュールが正しいかどうかである
(5)もし S が知覚、証言、証拠、記憶により p と、p が q に導くことを知れば、S は q を知っていることになる
しかし、「演繹的閉包性の原則」が間違ってなくても(5)は間違っているかもしれない
ゲティアの論文からこのような些末で形式的な議論を展開する営みを考える時、基本的な前提に気付く
それは、エピステモロジーは最終的には知識を必要十分条件において定義しようとするものだということである
ここで、二つの問いを出すことができるだろう
(1)知識の定義に至ることは可能なのか
(2)認識論的正当化に対する回答は、知識の定義を出してからなのか
問(1) は、知識のような概念を定義するとはどういうことなのかについて自問するところに導く
哲学者の中には、一般的な概念(知識、芸術、宗教など)は必要十分条件では定義できないと考える人がいる
そのような定義は、本質主義的な定義と言われる
寧ろ、同じファミリーの人間が持つとされる型の類似性を持つものとして理解する方がよいと考えるのである
ウィトゲンシュタインによれば、ゲームの必要十分条件は存在しない
しかし、そうだと我々に知らせるファミリーの類似性がゲームの間にはある
本質主義的定義を拒否することがすべての定義の試みを禁じることになるとは必ずしも言えないだろう
さらに、問(1)に対するポジティブな回答が問(2)に対するポジティブな回答を意味しないこともある
知識の適切な定義をすることはできるかもしれないが、それが認識論的正当化の問題解決にはならないだろう
(つづく)
2020年2月28日金曜日
エピステモロジー(9)
認識論的正当化(3)
ウィラード・クワインが「ゲティア問題」を説明するために出した例は、単純明快である
1918年11月7日、大新聞が間違って休戦を宣言した。しかし同日、二人のスポーツマンが小さな帆船でバミューダ諸島に集まるためボストンの海にいた。船にはその日の新聞はあったが、ラジオはなかった。4日後、戦争が終わっていると思いながら目的地に着いた。丁度戦争は終わったところだったので、彼らが知っていることは正確であった。しかし、彼らの信念は知識とは言えない。なぜなら、その基礎になっていたことが間違っていたからである。p = 戦争は終わった、とする
ヨットマンがバミューダ諸島に着いた時、
(1)p は正しい、(2)ヨットマンは p を信じている、(3)彼らは正当な理由でそれを信じている
我々は多くのことを正当な理由から信じている
自分の名前、自分が生まれたところ、知っている大部分のことは証拠を基にしている
さらに終戦を知ったのは証拠によってであり、それ以外では知り得ない
自分が休戦に調印したのであれば別であるが、
クワインが描いた状況において、どうして彼らが終戦を知っていると言うことができるのだろうか
ゲッティア問題とは、知識の定義(信念、真実、正当化の三条件を満たす)が知識には導かないことを示すことである
1963年以降のエピステモロジーのかなりの部分は、この問題を論じることであった
ゲティア問題について出されたすべての反論や解答を検討するのは、長くうんざりするものだろう
それがどんなものであったのかを示すための例がここにある
演繹的閉包性(deductive closure)の原理はゲッティア問題の間違った前提であると言った人がいる
この原理については既に触れている
S が p であること、p が q に導くことの信念が正当化され、S が p から q を演繹するとする
その場合、S は q であることを信じることが正当化される
事実、ヨットマンは新聞が休戦を宣言したという p から q を演繹して戦争は終わったと信じたようである
しかし、演繹的閉包性の原理は正しいのだろうか
この問題に関して、分析哲学者たちは重箱の隅をつつくような解析をした
(つづく)
2020年2月26日水曜日
エピステモロジー(8)
認識論的正当化(2)
1963年、エドマンド・ゲティアはAnalysis誌に「正当化された真の信念は知識か」という論文を発表した
3ページの論文ではあったが、知識の分析哲学に影響を与えた
先に掲げた知識の定義から出発しよう
それに対する反例を見つけることができる
ゲッティアは論文でいくつかの例を挙げているが、その一例について見てみよう
スミスとジョーンズは、ある会社の採用面接にきた
スミスは「ジョーンズが採用され、彼のポケットには硬貨が10枚入っている」(a)という証拠を持っているとする
スミスはこの事実から「採用されるのは、硬貨が10枚ポケットに入っている者である」(b)との命題を信じている
しかしスミスは知らないが、実際に採用されるのはスミスであり、スミスも10枚の硬貨を持っていると想像してみよう
その場合、「採用されるのは硬貨が10枚ポケットに入っている者である」という命題(b)は正しい
しかし「ジョーンズが採用され、彼のポケットに硬貨が10枚入っている」(a)という命題は間違っている
つまり、
①(b)は正しい
②スミスは(b)を正しいと信じた
③スミスが(b)を正しいと信じたことは正当化される
しかし、スミスは(b)が正しいことは知らなかった
なぜなら、スミスは自分のポケットにある硬貨の数は知らず、ジョーンズの硬貨の数による信念だったからである
従って、先の知識の定義は間違いである
(つづく)
2020年2月24日月曜日
エピステモロジー(7)
認識論的正当化(1)
例えば、知識とは正しい信念、正当化された信念であるとする
その場合、信念を構成しているものと正しいということが意味するものを説明しなければならないだろう
しかし、この根本的な問題を脇に置き、正当化の条件について集中してみよう
正しいのか間違っているのか、信念は現実的な理由のために正当化され得る
A が真実を語っていると友人の B が信じるのは、A が嘘をついていると考えることが悍ましいからである
B の正当化は現実的なものであり、感情的なものでさえある
しかし、それは認識論的正当化ではない
我々は欲求、感情、利益に依存することなく、そのもののために真理を求めることができる
我々は必ずしも満足することがないとしても真実に辿り着くことで喜びを感じることができるのである
ポストモダンの哲学者の中には、これに異議を唱える者もいる
しかし、本当に異議申し立ては可能なのだろうか
(つづく)
2020年2月23日日曜日
エピステモロジー(6)
懐疑主義の挑戦(5)
懐疑主義の挑戦においては、知る人の知の活動を問題にする
つまり、それが何であれ、どのようにしてそれを知ったと主張できるのかを自問するのである
それに対する歴史的エピステモロジーでは、社会全体の現象としての知識の形成と発展を問題にする
同様に、宗教、芸術、文化、スポーツなどについても語るが、それは個人や個別の対象についてではない
懐疑主義の挑戦における知は、次のように定義される
S が p であることを知るのは、次の場合で、次の場合だけである
1.p は真である(真実の条件)
2.S は p を信じている(信念の条件)
3.S には p を信じるのに十分な理由がある(正当化の条件)
まず、「S が p であることを知る」という命題知がある
「S がパリを知る」という直接知でも「S が自転車の乗り方を知る」というやり方を知るのでもない
懐疑主義の挑戦をする哲学者が検討するのは、特にその正当化の条件についてである
歴史的エピステモロジーの側は、知の歴史性、社会的・政治的条件を捨象してはその検討はできないと言うだろう
S の知は、歴史的発展のある時点における知識を定義するものに対応している
それは我々の間で同意された規範以外の何物でもない合理性についても当てはまる
こちら側の哲学者は、知識は実践であり、社会的規範によって有効とされる認識行動であると言う
知が形成され、発展し、議論される社会的・政治的実践の部分を引き離すことはできない
すでに出来上がった現実や合理性や真理は存在しない
彼らにとって、知識は社会的産物なのである
(つづく)
2020年2月22日土曜日
エピステモロジー(5)
懐疑主義の挑戦(4)
『科学的精神の形成』のバシュラール、『科学革命の構造』のクーン、『方法への挑戦』のファイヤアーベント
彼らは知識についての省察を科学史における科学理論の研究と結び付けた
これらの理論の形成のされ方や歴史における異議申し立てと取り替えられ方について自問したのである
彼らはまた、そこから引き出される教訓についても検討した
クーンにとっての科学的進歩は、科学革命と呼ばれる断絶により区切られるものである
一つの科学分野は安定期にパラダイムに応じて発展する
パラダイムとは科学のコミュニティがその時点で受け入れている理論的枠組みのことである
例えば、16世紀前半のコペルニクス天文学は2世紀のプトレマイオスのパラダイムと断裂する科学革命になる
つまり、天動説から新しいパラダイムである地動説への大転換であった
科学史において重要な問題になるが、この変動の複雑な様相である
どのように、なぜ根本的な概念の意味が変わるのかについて検討されるのである
20世紀初頭にはアインシュタインの相対性理論により根本的な変化が新たに起こった
このような歴史的・社会学的視点から見ると、知識の概念は懐疑主義の挑戦における意味と同じではない
懐疑主義の挑戦において、S が p を知っているかどうかを知ることが問題であるが、S とは誰なのか
取り敢えず、それを知る人としておこう
その S の特徴としての知識に興味が持たれるのである
反対に、歴史的エピステモロジーの知識は、知る人に特徴的なことではない
それは、ある時点での知、科学的実践や体制、社会生活への影響などを包むすべての歴史的現実を指している
ここで本質的なことは、社会的な現実としての知の状態や危機を通り抜ける活力を記述することである
異なる流れの間の闘いや科学知の社会的・政治的意味などを
(つづく)
2020年2月21日金曜日
エピステモロジー(4)
懐疑主義の挑戦(3)
懐疑主義の挑戦は、我々が何かを知ると信じる理由を確認することである
現代の哲学者(特に英米の哲学者)には、この問題を真剣に受け止める人たちがいた
彼らは知識が成り立つ条件を示すことで、この問いに答えようとしてきた
ジョージ・E・ムーアやバートランド・ラッセルなどは、その例になる
これに比べ、大陸の哲学者はこの問題に興味を示さなかったことを認めなければならない
ハイデッガー、メルロー・ポンティ、サルトル、ドゥルーズ、デリダなどは、この問題を真に検討していない
彼らは古典的な哲学のやり方を受け入れているようである
大陸哲学者は、今日の哲学的検討は別の形を採ると判断する傾向がある
昔の哲学者は哲学的思想の発展により乗り越えられるというものである
知識が可能であるかを知ることより、この領域の問いを解決するという哲学者の主張を解釈することが問題になる
彼らは懐疑主義の挑戦における詳細な解析より、知識についての政治的、科学的省察に興味を示す
特に、知識の制度化に関する歴史的、社会学的省察に惹き付けられる
制度化が採る社会的形態やその政治的、社会的体制との関連を解析する
この問題を医学の分野で提示したのが、ジョルジュ・カンギレムの『正常と病理』になるだろう
ミシェル・フーコーの著作の大部分はこの方向性のものである
知識の哲学をするということは、S が p を知る条件を理解することではない
そうではなく、科学知の全現象を社会・政治史の発展の中に置き直し、権力の問題点を理解することである
(つづく)
2020年2月20日木曜日
エピステモロジー(3)
懐疑主義の挑戦(2)
デカルトが『省察』の中で行ったように、私と私の信念、そして悪い霊しかないと想像してみよう
もし世界が私が信じるように存在し、あらゆる外的なもので満たされていれば、悪い霊は私の信念の原因になる
この懐疑的仮説をアップデートしてみよう
信念を持つ「私」を容器の中に入った脳とその心的状態に、悪い霊をニューロン刺激を制御するコンピュータに換える
p を「冷蔵庫に牛乳がある」というような普通の信念であるとすると、このように推論できる
1.もし S が p を知っていれば、p は疑いようがない
2.懐疑的仮説が p は確かではないことを示す
3.その場合、S は p を知らない
懐疑主義の挑戦は、経験に基づくいかなる命題も疑いから逃れることはできないとするものである
命題 p が疑わしくなることがある
他の命題 q があり、S がそれを否定する有効な理由を持っていない場合である
例えば、S が容器に入った脳であったり、q が「S は悪い霊に騙された」であったりする場合
命題 q は、p に一致するという信用を完全に破壊するか、明らかに弱めるのである
これを「認識価値」(epistemic value)とか「保証」と言う
そうすると、S は p の信念における正当性を失い、p を知っているとは言えなくなるだろう
S が懐疑的仮説は真面目に取り上げるべきではないとする正当な理由を持っていないとする
その場合、懐疑主義の挑戦が知に関するすべての思い上がりと最も一般的な我々の信念の認識価値を叩くのである
(つづく)
2020年2月19日水曜日
エピステモロジー(2)
懐疑主義の挑戦(1)
懐疑主義とは、我々は自分が思っているよりずっと少ないことしか知らないという考え方である
部分的には、我々はある問題(将来のことなど)について知っていることは少ないということ
一般的には、我々は思っているよりも知っていることは少ないとなる
懐疑主義を突き詰めれば、我々は何も知らないということになる
あるいはモンテーニュのように、「クセジュ」(わたしは何を知っているのか)と問うものである
なぜなら、知らないということを認めることは、さらに知ることはできないということになるからである
従って、我々を取り囲むすべての未知のものの異様さが不安にさせる
あるいは反対に、認識に関するバカげた自惚れを放棄することに導く懐疑主義の心地よい平静に満たされるのである
懐疑主義は非常に古い哲学的態度である
古代ギリシア人(ピュロン主義やアカデメイア派など)がこの言葉を残してくれたのである
中世においてはあまり広がらなかったが、知られていなかったわけではない
16-17世紀には、宗教的信仰についての論争においてよく顔を出すようになった
どのようにして間違ったものから宗教的な真の知を識別するのかといった問題においてである
宗教改革と対抗宗教改革の論争におけるエラスムスとカルヴァンの対立において、懐疑主義の議論がよく使われた
懐疑主義はモンテーニュの思想の中心を成している
それはデカルトによって洗練され、反駁された
しかし、デカルト自身はピエール・ガッサンディ、トマス・ホッブス、マラン・メルセンヌにより批判された
この考え方は、ピエール・ベールにより百科事典に取り上げられた
懐疑主義を現在の形にしたのは、デイヴィッド・ヒュームである
トマス・リードは常識を擁護し、カントは知識の可能性を擁護した
しかし、懐疑主義の挑戦を退けるには十分ではなく、懐疑主義は現代哲学に蘇っている
(つづく)
エピステモロジー(1)
知識の哲学はエピステモロジー(認識論)と呼ばれている
フランスでは20世紀初め、英語と同様に知識の哲学とされたが、後に「科学の哲学」になった
この変化は、レオン・ブランシュヴィック、ガストン・バシュラール、ジョルジュ・カンギレムの影響による
フランスだけその意味が異なるのである
フランス流エピステモロジーは科学的概念や理論の歴史的発展の研究、言わば科学の哲学的な歴史研究である
ただ、これから扱うのは、一般的な知識の問題で、科学に限定された知識ではない
エピステモロジーという言葉をごく普通に使われている意味で用いる
A: パリ行きの始発は何時に出るか知っていますか
B: はい、6時15分に出ます
どのようにAは知ることができるのか
どのような条件があれば、AはBがそれを知っていると考えることができるのか
この二つの疑問は簡単そうに見える
哲学者はそこに問題点を探してきたし、認識論研究者は今も答えを出そうとしている
今日の哲学者たちは先人の議論を取り上げてきた
時にプラトンやアリストテレスにまで遡ったり、独創的な見方を提示したり
あるいは、知識の可能性、正当性、広がりの問題を改めて再考したりして
(つづく)
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