2020年3月16日月曜日
徳認識論と信念倫理(1)
懐疑主義者から見れば、我々の信念は要求性の高い認識論的正当化の基準を満たすことはできない
彼らは、我々が認識論的正当化において概してだらしないと考えている
認識論における不満はそこに由来する
そのスローガンは、次のようなものである
「私が知っているすべては、私は何も知らないことである」
「クセジュ?(私は何を知っているのか)」
デカルト、ロック、カントのような基礎付け主義者は、認識論的正当化の基準を出すことができたと主張する
デカルトは思考の明晰さと洗練、ロックは証拠と信念の度合いとの釣り合い、カントは実証的立証性を提示した
基礎付け主義者は、懐疑主義者に答えようとするのである
ところで、それは可能だろうか
現代哲学者の認識論的プロジェは、我々の信念の認識論的価値を検討することと一体化する
これはラッセルまでとそれ以降のことだが、1980年代から新しい哲学者が現れる
彼らは正当な信念の規範や知識の基盤の問題に関する研究と縁を切るのである
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基礎付け主義(fondationnalisme; foundationalism)とは、信念や判断の構造に関する立場であり、哲学のさまざまな分野に存在する。
• 認識論においては、信念が正当化されるのは基本的な信念によって基礎付けられることによってであるという考え方を指す。
• 倫理学においては、倫理的判断が正当化されるのは基礎的な倫理判断によって基礎付けられている場合であるという考え方を指す。
反基礎付け主義とは、知識を基礎付ける 確実な基盤の存在を認める基礎付け主義を批判し、反対する主張。
リチャード・ローティに代表される。
フランス現代思想のポスト構造主義、ポストモダンも反基礎付け主義的傾向をもつ。
真理・理性といったロゴス中心主義を批判し、総じて相対主義的な傾向を持つ。
(Wiki より)
(つづく)
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