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2021年7月25日日曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(13)
































Milan, 10 septembre 1958

わたしが試みようとしていることは、現象学でイタリアの哲学と文化に影響を与えることである

わたしの現象学は関係主義的で、実存主義を超えることにより現象学の思想史全体を考慮に入れたい

主要なポイントは、フッサールが1904-05年に理解したような時間と、『第5省察』と『危機』に表れた関係である

時間に関するフッサールのいくつかの未発表作品は、『存在と時間』に対する回答である

これからは、我々はもうこの回答なしにはやっていけない

実存主義は関係主義として理解される現象学に変容するのである











2021年7月13日火曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(12)


























Bellaria, 12 août 1958

現象学は感じ、生き、そして人生において真理を発見する一つのやり方である。それは人生における真理の、そして真理における人生の持続的な経験である。科学と技術が生まれるのは、芸術、倫理性、文化一般の形が生まれるのと同じように、この「図式的」で歴史的自然の経験からである。

フッサールが語る厳密さは、本質的なものとしての図式的なものの発見と密接に結び付いている。それは生きた知の基礎としてのプラトン主義のルネサンスである。存在は身体性であり生活世界である。統合、図式は自然と歴史の具体性である。それはプラトンが『パルメニデス』の第三の仮説の中で探求したものである。従って現象学は、技術的で最終的なもので体系的なものという意味における厳密な科学として哲学を発見することはない。フッサール自身、このように偶像化することを恐れていた。

現象学は真理への運動として、持続的な発見と再発見として、知覚しないものの無限の闇と真理の有限の光の間に位置する人生を経験することである。 












2021年7月12日月曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(11)





















 

Milan, 7 juillet 1958
午後、ルクレティウスの『物の本質について』とエンペドクレスの影響についてのいくつかの考えが浮かぶ。エロスはルクレティウスにおける主要なテーマである。それはまさしく、この詩を科学の叙事詩的高揚から曖昧さの劇的な認識に変容させる第VI巻である。人間の文明史はまた、曖昧さのお清めの歴史でもある。

アテネのペストはトゥキディデスと医者との関係について考えさせる。病気としての、そして治癒としての自然(それをヴェルナー・イェーガーは「ヒポクラテスの公理」と呼んだ。すなわち、自然は自分自身を癒すのである)。 ルクレティウスは病気と文明、そしておそらく、狂気と文明との間にある秘密の関係を見抜いていた。その非常識さの神話は詩と密接に結び付いている。ルクレティウスにおいては、ヒトと自然、憎悪と愛情の間にあるエンペドクレス的矛盾が反映している。そして最終的には、エンペドクレスの影響がエピクロスのものより強くなっていることが明らかになる。

ルクレティウスとカトゥルス。カトゥルス同様、ルクレティウスには一つの宗教性があり、『物の本質について』の第VI巻に見られるエロスはアッティスを想起させる。

 




 

2021年7月9日金曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(10)


























3 juillet 1958

我々が考えている時に我々の中で起こることを記述すること? 記述するとは、動きの中にある思考の形、我々の中で考えられている宇宙、そして我々の中で行われる明確にされるための、光の下に来るための闘いを見ることなのか? 自伝ではなく、我々が考える時に我々の中で起こることの歴史。 哲学的体系とはおそらく、我々の体、世界、無限に開かれた運動の中から出現するより深い真理のダイナミズムが意図的に静的にされた人工的な休止ではないか。





 



2021年7月8日木曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(9)

































11 juin 1958

現象学は真であるもの、生きているもの(真理と生命)に近づこうとする傾向がある。

生命と真理の意図的な収斂はおそらく、フッサールの志向性の最も深い意味である。わたしが現在の実際的な些細なことの中に模範的なもの、典型的なもの、本質的なもの、真実が具現化したものを発見するのは、本質の中で自己の限界を乗り越えることによってのみである。

それを実現しようとして我々の生を生きること、その中に真なるもの、本質的なものの経験を発見しながら生きること。これは時間に基づく一つの生き方である。この生を探求することは、プルーストにとって失われた時の探究に見えたのである。 









2021年7月7日水曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(8)















4 juin 1958

フッサールがデカルトのコギトを現象学の方法の中心に置いた事実を過小評価すべきではない。しかし、このことの意味を間違えてはいけない。哲学がコギトから出発しなければならないという事実は、哲学の領野を分析・数学的方法に還元することではない。コギトから始めるとすれば、その哲学者、そしてその人間は自分自身の中だけに、自身特有の個人の経験の中に、明白な現実の中でそれ自体として提示される生を発見することである。ここでもまた明白なことはとりわけ、我々の生のすべての内容(意味、感情、記憶、想像、見方)を議論の余地のない方法で、我々に直接的で全的に提示することであることにすぐに気付かなければならない。

すなわち、間接的に我々に提示されるものと、我々が直接的に生きているものとの間に最初から区別があるのである。


「我々の人生の意味」(le sens de notre vie) という表現から明らかなように、人生における「意味」とは「方向」(le sens)のことなのである。間接的な人生から直接的な人生へ、あまり実現されていない人生からより実現される人生へ、あまり我々のものでない人生からより我々のものである人生へ、あまり現前していない人生からより現前される人生へ、より限定された人生からより限定されていない人生へ、・・・

つまり、漸進的とでも言える人生の方向がある。より少ないからより多くへ、間接から直接へ、形だけの参加から「生きている現在」(lebendige Gegemwart)が精神的交感であり関係である実質的な参加へと進むように見える方向である。 


 

 


2021年7月2日金曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(7)















18 novembre 1957

現象学、関係主義、道徳問題。あらゆる知覚において一つの典型、一つの本質を見ることが可能であるという事実の重要性。本質は常に関係の中にあり、「社会的」である。独我論に関するフッサールの言説の新しい側面。それはまさしく、わたしを他者と結び付けている本質的構造をわたしが発見するのは独我論の中である。知るということは、個人の中にモデル、典型、規範を発見することを意味している。


25 mars 1958

現象学的態度は、時に我々を考えさせ、時に哲学を生きさせる。しかし、それは我々を書く気にさせたり、我々の考えを固めさせたりしない。その意味では、現象学的態度はソクラテス的なのである。 


28 mars 1958

『危機』(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)の視点から、わたしは再考する。地域の存在論、あるいは形相的、視覚的であると同時に超越的な知の未だ定義されたことのない概要について。プラトン主義、理想的な目的としての理性の明晰さの価値、そして文明と歴史の意味を新しい形の下に生まれ変わらせる形相的直観の再評価。有機的な知、常に新しい見方を開く志向性の視点は、「生活世界」(Lebenswelt)の絶えざる奪還と相関している。まさに、新しい地平を我々に開き、経験の具体性の中で我々を生きさせるための判断の中断(épochisation)。経験と理性的な視点は、過去や未来がそうであるように無限である。無限は可能性と曖昧さを持つ何かのように我々を包んでいるが、それは我々の有限の時間の具体性の中に生きている。フッサールに由来するこの示唆は有機的であり、方向付けされている。この視点から見ると、ホワイトヘッドの哲学的観点との相同性を免れるものではない。今日、何年か前にどのようにホワイトヘッドについて書くべきだったのかを知る。

ホワイトヘッドの言う「感情」(feeling)は生活世界」(Lebenswelt)である。「感情」において、宇宙は出来上がった理論の中に閉じ込められ終わることはない。そうではなく、ある過程の中、異なる生活の歴史の中、時間の中での出来事のあらゆる関係性の中で更新されるのである。「もの・こと」は、過去と未来の中で、他の無限のモナドと結び付けられている開かれたモナドになる。まさにこれらのモナドは時空の中心であり、閉じたモナドではないため、互いに交差し出会うのである。時空の中で他の出来事の集合と関係を持つ出来事の集合、出来事の社会性。フッサールの志向性はホワイトヘッドの「美的」感覚と類似している。


 

 




2021年6月28日月曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(6)



 

Segni, 4 août 1957

現象学的態度には、哲学的省察と以下のものとの絶え間ない対話がある。日常生活、身体生活、意思の疎通、生きている経験を考える視角の更新、ばらばらにし再び結び直す過去。時間の中における哲学的省察の深く意図された内在性。


Milan, 15 septembre 1957

このようにして、自然との接触の中で、フッサールの「ものそのもの」を具体的な人間の生活、日常の仕事として見出す。飾り気のない生活の意味、謙虚さの価値を見出し、生き直すのである。ホワイトヘッドは「歴史的な真の生活は小路や田舎町の穏やかな人間の本物の個人的感情の中にある」と言った(Essays in Science and Philosophy, New York, Philosophical Library, 1948, pp.17-18)。

 

20 octobre 1957

ヴァレリーは『レオナルドと哲学者たち』で「レオナルドにとって描くということは、すべての知とほとんどすべての技術を要する作業である。・・・彼はある意味で対象の外観から始める」と言っている。「外観」はフッサールの現象であり、よってレオナルドの態度は現象学的なのである。

描くということは現象を見ることである。絵画的見方、普通は見えないものを見ることは知にとって貴重である。つまり、現象を見ることと科学との間、技術によって見ることを実現する行為と知の間には一種の相互性がある。ヴァレリーはさらに言う。「制作と知の間の驚くべき相互性ーーそれは前者が後者を保証しているのだがーーはレオナルドを特徴付け、言葉だけの科学に対している。そしてこの相互性が行動なき言葉、不完全なものとしての哲学にとっては大きな不利になるのだが、現代を支配することになった」。従って、視覚によって哲学的な無駄話を矯正することが可能になる。言葉が行動になるのである。実際には、能動的な語りは自然の技術であり、技術の中の自然を延長するものである。 

 






2021年6月23日水曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(5)















30 mai 1957

名声には何の意味もない。権力には何の意味もない、君の個人的な成功には何の意味もない。虚栄。フッサールが常に闘ったこの虚栄。彼は誠実であった。彼はこころから真理を愛し、真理のために生きた。名声は世俗のもので、生の意味は世俗を否定する中でだけ、世俗の奴隷になっていない世界で行動する中でだけ姿を現す。これはわたしが固く信じていることである。

それは世界の中で行動し生きることを放棄することではない。それは真理の意味を持つ行動の欲求である。それができなければならない。そのように生きたいと思わなければならない。そのように生きようとしなければならない。


22 juillet 1957

バンフィが今日亡くなった。突然電話がかかってきた。病院では他の友人を見付けた。わたしは我々すべてに思いを馳せた。この死に向き合っている我々すべてに。この死を理解するのは難しいものになるだろう。彼のすべての著作はこれから意味が変わり、新しい評価が必要になるように感じる。・・・彼が引用した最後の人は、ガリレイ、フッサール、ジンメルだった。これらすべてが彼の共産主義に行き着いたのだ。彼の態度によって最後まで言いたかったことは、生は死よりも重要だということであった。フッサールは「生がなければ死はない」(Ohne Leben kein Tod)と言った。

*アントニオ・バンフィ(1886-1957):哲学者、ミラノ大学哲学史教授で、パーチさんの指導教授だった。

 

31 juillet 1957

わたしはバンフィ自身に、彼がガリレイについて書いたことを報告する。「これがガリレイの活気に満ちた性質である。現実の具体的なすべての問題に対する好奇心、快適で自由な生活への渇望、建設的な精神、柔軟で普遍的な人間性・・・」。ガリレイの眼鏡は単に科学の道具ではなく、新しい哲学的方向付けと「主観性と相対性に関するすべての哲学的主張にも拘わらず」共通の経験を擁護する象徴である。鋭敏さを勝ち取った目は、経験の中に新しい要素と構造の無限を発見する。





2021年6月22日火曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(4)



















本日もエンツォさんの言葉を少々


Milan, 22 septembre 1956

省察。省察は時の中に生き、自分の前に映し出される。省察は常に自分を超える何かを意図する。省察が発見するものは、真理である。わたしの中にあるものの、眠り忘れられていた真理である。未来に投影される視線は、過去を呼び覚まし、今の現実の意味を発見する視線と同じである。 


30 avril 1957

サン・テクジュペリ。自己分析ではなく自己実現を欲した男。彼が挑戦を必要としたことの危険性。生きていることを見出す喜びのために、彼は命を危険に晒した。それは『戦う操縦士』で明らかだ。


21 mai 1957

ギリシアにおけるロゴスの発見。しかし真のロゴスになるためには、このロゴスはギリシア的なだけでは駄目である。自分自身を捨てることはできないが、自分自身であるためにはこれまでに知らない他者性の中で感じなければならない。・・・

アフリカ文明があり、アフリカの思想がある。インド文明があり、インドの思想がある。中国文明があり、中国の思想がある。そして我々のギリシアの思想は、それ自身であるためには、他の思想の中で自らを発見しなければならない。 






 

2021年6月21日月曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(3)















今日もパーチさんの思索から


4 mai 1956

ヴァレリーは「我々の精神は無秩序から出来上がっている。と言うより、秩序立てる必要があるのだ」と言った。無秩序、闇、忘却、偶像化、不公正、悪、理解不能との闘い。宇宙には、目覚めに抵抗するように見える何かがある。深い眠り。覚醒した意識、真実への志向性、常にそれ自身を超える理性を保持すること。しかし、理性は一つの言葉であったり、一連の無意識の機械的な操作ではない。理性は生そのものであり、ロゴスなのだ。志向性とは生きているロゴスである。抽象的ではない意味で、志向性とは論理である。定型化、論理主義の中で、論理の生を殺してしまう危険。生の継続としてのロゴス。すべてを超えて、すべてにもかかわらず。ヴァレリーを再び。「何かを続け、追い求めること。それはすべてに抗して闘うことだ。終わりにするという嘆かわしい考えを食い止めるために、宇宙はできることすべてをしている」。

 

 


 

2021年6月20日日曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(2)








 

 

 

 

 

 


今日の早朝には比較的しっかり雨が降っていてやや寒さを感じたが、暫くして雨は収まった

昨日は家の周りの修復工事があり、最初から最後まで2時間ほど工程を眺めていた

この間、5-6人が一言も言葉を交わさず、流れるように工事が進む様を見て、ある種の感動を覚えた

彼らにしてみると当たり前なのかもしれないが、プロの仕事を見たように思った

今朝そこを通る時、少し気分が違うように感じられた

 

今日も恒例になりつつあるパーチさんの日記から印象に残った言葉を拾い集めてみたい


13 avril 1956

我々は一瞬一瞬、新しい生である我々の生を消費しているのを感じている。我々は一瞬一瞬を生きているからだが、それは知性にとっては一つの逆説である。しかし、我々がこのことを感じているまさにそれゆえに、古生代の森が固められて出来上がった石炭のように、我々が消費している過去は一つの現実でなければならない。これらの森は現実でなければならなかった。これらの森の前には、最終的に石炭に変化させるために、森を形成し、出現させ、消費し、死ぬ過去が現実でなければならなかった。そして現実に、我々が感じているのはまさにこの現実である。今日わたしを暖めている熱を感じることは、わたしの前ーー人類が地上に現れるおよそ3億年前ーーに生きていたこれらの森の実在を感じることでもある。

・・・わたしの前、人類が生まれる前、地球や太陽系や銀河系が存在する前の他の存在。おそらくそのために、わたしは今日、わたし以外の存在をわたしのもののように感じることができるのである。








2021年6月19日土曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(1)










 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日から折に触れて、エンツォ・パーチさんの日記を読むことにしたい


Pavie, 14 mars 1956

これは本当だ。孤立しているそれそれの事実、それぞれのものは、すべてのもの、すべての他の事実と結び付いていることが明らかになる。時とともに、自然と歴史の時の流れの中で。

 

個人は唯一固有のものだが、それは全体でもある。この一人の固有の存在が自身の中に、他のすべてと本質的で典型的な関係を結んでいることを発見する時、哲学が始まる。

 

人間にとっての根源的な変容。それまで一度もなかったような人間に成るための。


Milan, 12 avril 1956

明白な存在としての我々のすべての生は、目覚めであり、過去を明確にすることである。すなわちそれは、『見出された時』(le temps retrouvé)なのである。眠っていた真理が変容して典型的な真理になり、本質的な形になる。

 

 

 

 

 

 


2021年6月18日金曜日

エンツォ・パーチさんの『現象学的日記』届く





 



 










イタリアの哲学者エンツォ・パーチ(Enzo Paci, 1911–1976)さんの本がフランスから届いた

Journal phénoménologique de Enzo Paci(2021; publication originale, 1961)


先日、初めてになるイタリア人が「現象学的」と名づけて書いた日記の仏訳が出たというニュースを見た

以前のブログやエッセイでも触れたように、「現象学」はわたしにとってのマジックワードになっている

わたしの中に現象学的な見方があるという指摘を受けたことがあるからである

早速注文したところ、意外に早く手元に届いた


パーチさんによれば、現象学という言葉はヨハン・ハインリヒ・ランベルト(1728–1777)によって最初に使われた

1764年のことである

現象学とは「ものそのもの」に回帰すること

表れている現象を見る前に判断することなく、そのものとして見、忠実に記述できるもの

それは主体、コギトに回帰するもので、人工的な主体ではなく真の主体に戻るものである

これをするためには、経験をする前にすべての知、すべての判断を一旦保留しなければならない

古代ギリシアの懐疑派が「エポケー」と言ったものである


パーチさんによれば、現象学は瞑想ではなく、鍛錬(exercice)を通して完璧を目指す禁欲主義だという

社会の変容に関わるものだという

日記とは、危機を生きる、弁証法の道を見付ける個人的なやり方である

コミュニティの批判であるが、それはそれぞれの個人の批判である


これからどんな省察が現れるのか、楽しみである