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2023年1月11日水曜日

「徳認識論と科学の形而上学化」再び


























今日は『免疫学者のパリ心景』の若い読者から嬉しい便りが届いた

読了後、特に印象に残ったのは、第5章にある「徳認識論と科学の形而上学化」についての節(318~323ページ)だったとのこと

エッセイで言えば、第101回(2021.7.10)に当たる

徳認識論と科学の形而上学化が結びつくという観察は「わたしの発見」であった

これなどは、さらに深めるべきテーマになるだろう

少しズレるが、科学から今の領域に入った当初、この領域における発見とは何を言うのかという疑問を抱えていた

しかし次第に、このような観察を発見と言っていいのだと考えるようになり、発見を求めるようになった

そして、そこに至った時には深い悦びを感じることも経験してきた

さて、『パリ心景』の感想に戻ると、総括として「パワーに溢れる書に感謝」というような言葉があった

これまでパワフルという形容はいただいていなかったのではないだろうか

こちらにも活力が伝わってくるようであった









2023年1月7日土曜日

『免疫学者のパリ心景』の第一印象が届く



















昨年刊行した『免疫学者のパリ心景』についてのツイートを検索しており、偶に覗くことがある

昨日、そこに懐かしい方の以下のようなツイートを発見し、驚く

研究所の図書室から帰ろうとした時、出入り口に立てかけてあった新刊に目がとまった。『免疫学者のパリ心景』。もしやと手に取ったら、昔私が在籍していた研究所におられた免疫学の研究者の著書。当時の颯爽とした風情で、今もパリを闊歩されているご様子のようだ。

15年振りくらいなので早速反応したところ、A氏から丁重なメールが届いた

ツイートにあるように、図書室で白地に青の何か他と違う気配を感じて思わず手に取ってみたところ、拙著だったという

その場で少しだけ読んだ時の感想が書かれてあった

まず、文章が読みやすいこと

活字ばかりのページでも、すっと読み進めてゆける不思議な感覚を持った

本でそのような感覚を得たのは、岡本太郎(1911-1996)の『今日の芸術』(こちらの方は平易な文章だが)を読んだ時以来である

これから購入してお読みいただけるとのこと、有難い


実は、A氏からは以前にもコメントをいただいたことがある

退職時に小冊子を作り、研究所の皆様に配布した

その中に以下のコラム(プチ・エッセイ)を載せた

ダニエル・バレンボイム vs スペシャリスト(2005.3.10)

われ観察す 故にわれあり(2005.8.31)

フランス語資格試験を受験して(2005.11.13)

太陽のもと新しきもの ・・・(2005.12.30)

イメージ、時間、現象学(2006.4.28)

今なぜ「科学精神」なのか(2006.9.26)

時空を超えたやり取り(2006.10.14)

科学すること、賢くなること(2006.12.15)

パスカルによる「私」の定義(2007.1.29)

過去の自分を現在に引き戻す(2007.1.30)

全的に考える(2007.2.12)

そしてこれから(2007.6.30)


そして、その読後感が送られてきた

印象に残っているのは、次の2つである

まず、日頃の印象とは違っていたのか、わたしの中身はすべてが芸術なのですね、ということ

それから、なぜかル・コルビュジエ(1887-1965)を想起させたとあり、驚いたのである

それ以来のコメントであった







2022年11月21日月曜日

大阪で4年振りの旧交を温める















今日は大阪まで足を延ばした

コロナの前、クリルスキーさんの『免疫の科学論』を出した時以来の関西になる

日中は免疫のエッセイの校正に追われていたが、夜、4年振りにY氏との会食が実現した

それ以前には、パリでご夫妻と食事をする機会があった

現役時代、東京では仕事場が近くだったのでお世話になり、大阪に移られてからも大学の講義によく呼んでいただいた

コロナの間は意識から消えていた関西だが、少なくとも今はそれはなくなっている

少しは前に進んだ状態に入っているのだろう


大阪大学を終え、大学を一つ経た後は一切仕事は止められたとのことで、悠々自適の生活とお見受けした

地元の?おいしい料理を酒の友としながら話が弾んだ

少々お酒が進んだようで、話の中身はすぐには思い浮かばない

一つは、コロナ直前に訪れたエジプトが良かったとのお話で、強く勧められた

フランスにいると、いろいろなところが近いのだが、不思議なもので日本から世界を見ている感じがあり、イギリスも遠くの国という印象であったことを思い出した

機会ができれば再び動き回りたいものである


それからわたしのエッセイ本『免疫学者のパリ心景』についても話題に出ていた

まず、タイトルの『パリ心景』が素晴らしいが、一体どこから出てきたのかとのお言葉

編集者のアイディアで、九鬼周造(1888-1941)のことも伝えた

表紙のことはこれまで何度も聞いていたので驚かなかったが、1ページの印刷のされ方が非常に良い感じだったとのこと

これはわたしにはピンとこなかったのだが、余白の取り方(バランス)が違い、読みやすかったようである

そして、これまでのエッセイが恰もこの本を作るために書かれていたかのように、流れるような構成になっていて驚いたとの評であった

そんな考えを持つこともなく、只管書き進めてきたエッセイなので、それは偶然の成せる業と言えるだろう

いずれにせよ非常に好評で、弟子の教授にも贈ってくれたようである


自由な時間をお持ちのようであったので、いずれわたしの潜伏先にもお出ましいただけるかもしれない

お互い長生きしようね、というのが最後の挨拶になる年頃になってきたようである




















2022年10月31日月曜日

10月を振り返って




今月も纏めの時期となった

何をやっていたのか、早速振り返ってみたい


1)まず、月初めに3年ぶりにカフェ/フォーラムを再開したが、一昨日の札幌の会で無事に終えることができた

再開に当たっては心身の立ち上げが大変であったが、終わった今、開催してよかったと思っている

一つには、参加者の皆様との交換により、わたし自身に新たなエネルギーが注入されたように感じていることがある

二つ目として、カフェ/フォーラムが少しずつ変容を始め、有機体としての生命を持ちつつあるように感じられることである

更に進化することを願いたいものである

改めて参加者の皆様に感謝しながら、それぞれの会を振り返っておきたい


  第6回ベルクソン・カフェ+ 第8回カフェフィロPAWL(2022.9.28)

   テーマ: アラン・バディウ: 『真の幸福の形而上学』を読む


   矢倉英隆: シリーズ・科学と哲学 ①「ソクラテス以前の哲学者」
   渡邊正孝: 変性意識と無意識
   岩永勇二: 『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション!


   テーマ: パスツールのやったことを振り返る


   テーマ: 『免疫学者のパリ心景』を語り合う


ところで、これまで年2回の開催だったが、来年は年3回の開催とすることとした

最初のシリーズは、以下の日程で行う予定である


 ● 第9回サイファイ・カフェSHE札幌 2023年2月25日(土) 15:10~17:20

 ● 第7回ベルクソン・カフェ+第9回カフェフィロPAWL 2023年3月1日(水) 18:00~20:30

 ● 第8回サイファイ・フォーラムFPSS 2023年3月4日(土) 13:10~17:00

 ● 第16回サイファイ・カフェSHE 2023年3月8日(水) 18:00~20:30


それぞれのテーマについては、決まり次第お知らせしたい


2)免疫に関するエッセイの校正が始まった

4月には書き終えていたので、半年間寝かせておいたことになる

編集者のコメントとともに読み返しながら、言いたいところをより明快に表現しようとしているところである

それと、先日も触れたが、文献の扱いを考えなければならない

ディジタル本であれば、そのまま使えるのだろうが、紙の場合にはそうもいかない

これからの課題である


3)今月もコリングウッド(1889-1943)による「自然」の分析を読んでいた

また、その中に出てきたプラトン(427 BC-347 BC)の『ティマイオス』にも目を通し、貴重な時間となった

コリングウッドに関しては、これからも続ける予定である





2022年10月19日水曜日

『免疫学者のパリ心景』に見るメッセージ





















免疫学者のパリ心景』の最終章は「『現代の超克』のためのメモランダム」となっている

そのエッセンスは、エピグラフとした2つの文章の中に凝縮されている

1つは、ヘーゲル(1770-1831)の次の言葉である
「真理は知識の中にある。しかし我々は思考(ナハデンケン)するかぎりでのみ真なるものについて知るのであって、我々が歩いたり、立っていたりするかぎにおいて、そうなのではない。真理は直接的な知覚や直観においては認識されない。それは外面的感性的直観においても、また知的直観においても同様である。・・・ただ思惟の努力によってのみ真理は認識される」(武市健人訳)
真なるものを知るためには、日常生活の中にいるだけでは駄目で、思惟しなければならないと言っている

もう1つは、ハイデッガー(1889-1976)の言葉である
「このように、それぞれが正当で不可欠な計算する思考瞑想する思考という2種類の思考がある。しかし、人間が思考から逃げていると言う時に我々が見ているのは、この2番目の思考である。・・・瞑想する思考は時に大変な努力を要し、常に長い訓練が必要になるのである」
このように、ハイデッガーは2つの異なる思考があることを指摘した

1つは、科学の中で行う思考で、彼は「計算する思考」と言っている

もう1つは、「瞑想する思考」である


これらの対比に反応したのは、わたしが「意識の3層構造」に気が付いたからである

復習すれば、第1層は日常生活の意識の層、第2層は仕事(科学)で使われる事実を確認するだけで終わる層、そして第3層が領域を超えた瞑想的思索が行われる層である

その上で、第3層まで入らなければ真に考えたことにならず、真理にも辿り着けないと結論した

これは先達の思索の跡とよく重なり、わたしの真理を超えてより普遍的な真理になると考えている

わたしにこの章を書かせたものは、現代に生きる我々にこの思考が著しく欠如しているという観察であった

つまり、「現代の超克」のための重要なヒントは、真理に至るために思惟しなければならず、そのためにはやり方があるということである

その成否は、日常生活、職業生活から離れた時間をどれだけ確保できるのかにかかっている

この問題について考えていただきたいというのが、この章の大きなメッセージであった



ところで、免疫から生の哲学に向かうエッセイの校正作業が始まった

春から眠っていたものなので、新鮮に感じる

さらに明快なものになるよう努めたいものである










2022年10月16日日曜日

コリングウッドによる自然(23): アリストテレス(5)不動の動者の複数性





免疫学者のパリ心景』を読んだという方からコメントが送られてきた

そのポイントを以下に書き出してみたい

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定年後の第二の人生をいかに生きるかという大命題に真摯に立ち向かった経緯を知り、感嘆した

「すごい」と思ったのは、単身でパリに乗り込んで、修士から博士課程を修了して学位を取られたのちポスドクを経験されたこと

それから、その時その時に的確な指導者を見つけ出せたことで、運の強い人だと思った

大学卒業してすぐに哲学の世界に入ってもうまく行ったのではないか

今、第二の人生の前半を終了され、これからの後半をどのように考えて、何をされるのかという点に興味が湧いている

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わたしの歩みに感嘆されたとのことだが、わたしの中では最も自然なことだったので特別な感情は湧いてこない

ただ、この本が第二の人生の歩み方という視点から読まれる可能性があることが分かり、その点からは存在価値がありそうだ

一方、多面的に読むことができる本だとも思っているので、他の視点が指摘されることも願っている

また、最初から哲学に入っても問題なかったのではないかという指摘もあったが、これに関しては科学を終えたからでよかったと思っている

18歳くらいで哲学に入ってもエネルギーはあるが、考える材料も経験もないと思われるので、かえって大変だったのではないかと想像している

これはロッテルダム大学の哲学教授と話した時にも指摘されていたことである



この話題はこれくらいにして、コリングウッド(1889-1943)アリストテレス(1889-1943)に入ることにしたい

アリストテレスの神は、我々を愛するものではなく、我々が愛するものであった

それでは、神への愛によって作りだされた自然の過程は、どのように説明されるのであろうか

タレス(624 BC-546 BC)は、磁石も虫も水に過ぎないと言った

しかし、磁石がそのように行動し、虫がそのように行動するのはなぜなのかについては答えられなかった

アリストテレスが、すべてのものは神の生命を模倣しようとしていると言っても、多様な存在を説明しきれない

存在者には階層が存在し、それぞれの階層がそれ自身の目的を持っているとしか考えられない

そのためアリストテレスは、不動の動者の数は複数であるとしたのである

その一つは第一の動者=神である

その非物質的な動因の絶対的・自足的・自己依存的な活動(純粋な自己認識)は、物質的動因の活動(運動)によって模倣される

このように、第一の動者の魂は、神の愛によって発動され、可能な限り神の生命に似た方法で自身の物体を動かす


この活動は2つの方法で模倣される

1つは物体によって、もう1つは物質の中に具現しない精神あるいは叡智(ヌース)によってである

ギリシアにおける物体とは、魂を与えられた生きた物体で、努力とか欲望、愛によって発動させられる有機体のことである

神は自らを思惟・観想し、その他の叡智的存在者は神を思惟・観想する

つまり、その他の叡智的存在者は神的本性を分有するが、それは部分的であり、不完全な分有である

アリストテレスによれば、第一の動者の斉一な円環運動は、神の不動なる活動を再現する努力を表している

この円環運動は、神の活動を物体との関わりの中で直接模倣したものである

これに対して、惑星という叡智的存在者の思惟は、理性との関わりの中で神の活動を直接模したものである

叡智的存在者の完全な社会は、非物質的な永遠の手本から成り、宇宙的運動の複合態はそれを手本としている

これは『ティマイオス』をアリストテレス流に言い直したことになる

神は物質的・時間的世界を創造する際、永遠なる非物質的形相の世界を手本とした

重要なことは、自然界に存在する多様な活動の分化は、永遠なる実在の世界に存在し、論理的に先行する分化過程に依存するということである










2022年9月27日火曜日

『免疫学者のパリ心景』、書評のご紹介


























拙著『免疫学者のパリ心景』の書評がいくつか出ましたので紹介いたします


 ● 深津 亮(埼玉医科大学)北大医学部同窓会新聞(8月26日号)

 ● 木村彰方(東京医科歯科大学)「これまでと違った自分を見つめなおす書」


 ● 武田 昭(国際医療福祉大学&聖路加国際病院)「読者の人生に大きなインパクトを与える叡智の書」



書評を書いていただいた皆様には改めて感謝いたします

書評をお読みいただき、実際に本書を手に取っていただければ幸いです

よろしくお願いいたします









2022年8月26日金曜日

リマインダー: 秋のカフェとフォーラムのご案内



サイファイ研究所 ISHE の秋の催し物を改めて紹介いたします


1)第6回ベルクソン・カフェ第8回カフェフィロ PAWL

日時: 2022年9月28日(水)18:00~20:30

場所: 恵比寿カルフール B会議室

テーマ: アラン・バディウの『幸福論』を読む

テクスト: Alain Badiou, Métaphysique du bonheur réel (PUF, 2015)

 参加予定者には、予めテクストをお送りします

 議論は日本語で行いますので、フランス語の知識は参加のための必須条件とはなりません








日時: 2022年10月1日(土) 13:20~17:00

会場: 恵比寿カルフール C会議室

プログラム: 

(1)13:20~14:00 矢倉英隆  シリーズ「科学と哲学」 ① イントロダクション

(2)14:00~15:30 渡邊正孝  変性意識と無意識

(3)15:30~17:00 岩永勇二  『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション!




日時: 2022年10月5日(水)18:00~20:00

場所: 恵比寿カルフール B会議室

テーマ: パスツールのやったことを振り返る

 パスツール(1822-1895)の生誕200年に当たり、意外に知らないその足跡を振り返ることにしました

 科学での仕事を振り返った後に哲学的な側面にも触れることができればと考えています

ポスター


日時:2022年10月29日(土)15:10~17:20

場所: フルーツ会議室 / 札幌駅前

テーマ: 『免疫学者のパリ心景』について語り合う

 拙著で取り上げた話題を肴に、科学、哲学、人生について語り合う予定です




興味をお持ちの方は、矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)までご連絡いただければ幸いです

よろしくお願いいたします







2022年7月19日火曜日

根拠のない楽観に身を任せて

























今日は銀行に用事があり、街に出た

北の町とは言え、歩いていると結構暑い

先日の東京でもそうだったが、本当にぐったり、げんなりする

時の経過は如何ともし難い


街を歩いていると、若き日の心景が蘇ってくる

なぜあれほど根拠のない楽観に身を任せていることができたのか

未だに分からない

冷静に振り返ると、今まで生き延びてきたことが奇跡にしか見えない

そして、その楽観がこの歳まで続いているというのだから、驚きを通り越して呆れてしまう


さて、銀行では嬉しい言葉を聞くことができた

担当の若い行員さんが『パリ心景』を注文、すでに読了されたというのだ

感想を聞いてみたところ、非常に読みやすく、普段触れることのない世界が開けたように感じたとのこと

もともと哲学や科学には興味があったようで、免疫に関する本にも食指が延びそうな感じであった


これまでの大雑把な印象だが、科学に打ち込み、それ以外に注意が向かわないような方は、この本がなかなか入ってこないという感想を持たれるようだ

語彙や文型の影響かもしれないし、そもそも思考が全く違っているという印象なのだろうか

文系の人、あるいは文化に開かれている科学者の場合には、そんなことはないようである

これからの問題は、この本が人の目に触れるかどうかに掛かっているような気がしてきた

触れる機会があれば、何かが広がる可能性も出てくるだろう



時間があったので、紀伊國屋と丸善・ジュンク堂を巡ってみた

いずれにも『パリ心景』はしっかりと並んでいた

やはりいずれにも、懐かしいクリルスキーさんの『免疫の科学論』(みすず書房、2018)が陳列されていた

しかし、これらは膨大な書籍の海の一滴にしか過ぎないのである

それが掬い取られることは、ほとんど奇跡に近い



































2022年7月13日水曜日

ゲーテの言葉から(21)































昨日、『パリ心景』についての感想にあった「楽しそうな語り口」という言葉がどこかに残っていたのだろう

今朝目覚める時、それ以前にいただいた「心や思考がダイナミックに躍動している」という感想と繋がった

もしそういうものがあったとすればであるが、別の人がそれを見て「楽しそう」だと思ったのではないか

そこにある実態は一つだが、それをどう見るのかは人によって異なってくる

という、ありふれたことになるのだが、第三者の言葉は多くのことを教えてくれる


さて、今日もゲーテ(1749-1832)である

まず、霊魂の不滅についての考えが開陳される

これは『パリ心景』でも触れたテーマである

彼の考えを聞いてみたい


1829.2.4(水)

ヘーゲル(1770-1831)と同じように、彼(クリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト、1739-1791)もキリスト教を哲学の領域へ引きずりこもうとしているが、そんなことをやってみたところで毒にも薬にもならないよ。キリスト教は、それ自体強力なものであり、むしろ時には落ちぶれたり、悩んだりする人類は、いつも、キリスト教によってみずからを立ち直らせてきた。キリスト教にこうした働きのあることを認める以上、それはあらゆる哲学を超越したものであり、哲学の力を借りる必要など毛頭ないわけだ。同様に、哲学者の方も、ある種の説、たとえば霊魂不滅説のようなものを証明するために、宗教の名声に頼る必要などないのだ。人間は、不死を信じていいのであり、人間は、そうする権利をもっているし、それが、人間の本性にかなっているのであり、宗教の約束するものを期待していいのだよ。だが、哲学者がわれわれの霊魂の不滅を、伝説を用いて証明しようとしたら、それはじつに説得力がとぼしく、たいして意味のないことになる。私にとっては、われわれの霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくるのだ。なぜなら、私が人生の終焉まで休むことなく活動して、私の精神が現在の生存の形式ではもはや持ちこたえられない時には、自然はかならず私に別の生存の形式を与えてくれる筈だからね」


それから嬉しいことに、17世紀オランダの画家オスターデ(1610-1685)について語っているではないか

もう13年前になるが、この画家を発見した時の悦びが蘇ってきた

この記事にあるいくつかの絵をご覧いただきたい

兎に角、素晴らしいのである

ゲーテはこんなことを言っている

「それは、感性に訴えてくる魅力だ。いかなる芸術も、この感性的魅力を欠くわけにはいかないが、この種の題材では、それが充溢している。これと反対に、芸術家がいっそう高い目標を描こうとして観念的なものに入っていくと、十分な感性をかねそなえることが難しくて、無味乾燥になりやすいのだ」


(山下肇訳)








2022年7月6日水曜日

ゲーテの言葉から(15)































今日は不在者投票に出かけた

兎に角、頭の中が濁ったままの政治ではどうしようもないので、変化を求める方向で投票した

日本の政治は本質的には変わらないというのが基本的な見立てだが、せめて表層のところだけでもスッキリさせないと精神衛生によろしくない

それが天空からの眺めである


昨日、その昔お世話になった先生から『パリ心景』についての感想が送られてきた

まず、これまでエッセイを一遍一遍読んできた時の印象と全く違うことに驚いたとあった

今回の本では、それらがある流れで繋がっているためか、著者の心や思考がダイナミックに躍動している様子が見て取れるという

嬉しいコメントであった

そして、装丁の素晴らしさが永久保存に相応しいとも書かれてあった

さらに、表紙のイラストが一体何を意味しているのかに興味を駆り立てられたという

先日のランデブーで出ていたのは、例えば、ドン・キホーテや Knight-errant、あるいはケンタウロスなどなど

しかし、正解には至っていなかった

これは、次回お会いする時までのお楽しみということにしたい

さて、本日もゲーテ(1749-1832)である



1827.4.11(水)

ルーベンス(1577-1640)の風景画について

「これほど完ぺきな光景は、自然の中ではとうてい見られるものではなく、この構図は画家の詩的精神の産物なのだ。しかし、偉大なルーベンスは、なみなみならぬ記憶力にめぐまれていたので、自然を全部頭の中に入れておき、いつでも自然の細部を思う存分使いこなせたのだ。そこから全体や細部のこの迫真性は来ているわけで、それで、われわれは、すべてが自然そのままの模写だと思いこんでしまうのだよ。今日では、こういった風景画は、もうまるっきり描かれなくなった。こういう感じ方や、自然の見方が完全になくなってしまったのだ。現代の画家には詩が欠けている」


「君たちも私と同じように、五十年来教会史を研究してきたのでなければ、こういったすべてのことのつながりはつかめないだろう。ところが、マホメット教徒がその宗教教育をはじめるとき、どんな教えを用いるかというと、これがきわめて変わっているのだ。人間は、一切のものを導く神によって前から定められた運命以外のものに遭遇することが決してない、という確信を、かれらはまず若者にたたきこんで、宗教の基礎としている。このようにして彼らは安心立命し、それ以上のものをほとんど必要としないわけだ」

「私はこの教えが正しいか、それともまちがっているか、有益であるかそれとも有害であるかといった点を、せんさくしようとは思わない。しかしながら、実のところこういう信仰は、教えをうけたことがないにしても、いくらかはやはり、われわれみんなの心の中に巣くっているものなのだよ。戦場の兵士は、自分の名を書きこまれていない弾丸など、自分には当たらない、というが、もしこのような確信をもたなければ、いつふりかかるかもわからない危険のただなかで、どうして兵士は勇気と明るさをもちつづけられよう!」

「それから哲学の教育では、マホメット教徒は、どんなことでもその反対がいえないようなことは存在しない、ということを最初に教える。いかなる主張が出されても、反対の意見を見つけて発表させることを若者たちの課題にすることで、その精神を鍛えあげるのだ。こうすれば、考えることにも、話すことにも、十分熟達を見るにきまっているからだ」

「ところが、提出されたそれぞれの命題についてその反対が主張されたあとには、いったい二つのうちのどちらが本当に真実なのか、という疑いが生ずる。しかしいつまでも疑いつづけるわけにはいかないので、疑いは精神をはげましてさらに詳しい研究と吟味に向かわせ、これが完全な方法でなされると、そこから確信が生まれるのであり、このことが目的なのであって、そこにおいて人間は完全な安心の境地を見出すのだ」

「この教えには何一つ欠点がないということ、われわれの有するあらゆる体系をもってしてもこれ以上のことは望みえず、またどんな人もこれ以上に達しえないということが、君もわかっただろう」


カント(1724-1804)が最もすぐれている、まちがいなくね。彼はまたその学説の影響が今日にいたるまでやまないことを証明され、現代ドイツ文化の一番奥ふかく滲透した人なのだからね」

「いや、カントは全く私に注意を向けようとはしなかったよ。私は自分の本性から、彼と似たような道をたどるにはたどったのだが。私が『植物の変態』を書いたのは、カントのものを知る以前のことだったが、それにもかかわらず、これが全く彼の学説の精神で書いているのだな。主観と客観との区別、さらには、全ての被造物は、それ自身のために存在し、たとえば、コルクの木は、われわれの壜の栓に使うために生えているのではないという見方、これはカントとわたしに共通のものだったし、この点で彼と一致したのは嬉しかった」


(山下肇訳)








2022年7月5日火曜日

ゲーテの言葉から(14)























 船越 佳(1951- )『私は街を飛ぶ』(2022)



1週間程度のオフであったが、敢えて言えば1ヵ月ほどに感じられる

実際には永遠の中にいたという感覚で、それはまさに至福の中なのだ

これも今に集中するエネルゲイアの効果だろうか

その中で人と言葉を交わすということが加わると、その感覚をさらに増強させる

昨日ご一緒した方からも、至福の時だったというメールが届いていた

またの機会に期待したいものである


さて、すでに大昔に感じられるゲーテの言葉に耳を傾ける試みを再開したい

現代から一気に2 世紀を遡るといったところだろうか

それでは、始めたい


1827.2.1(木)

「私は、自然科学をかなり多面的に研究してきた。しかし、私の研究の方向は、いつもこの地上にあって私のすぐ周りに存在し、私が感覚でじかに知覚できるような対象にだけ向かっていた。だからまた私は、天文学には決して手をつけなかった。天文学では、感覚ではもはや役立たず、そればかりかこの分野ではきっと器具や計算や力学の世話にならなければだめだが、これは、優にそれだけのための一生を必要とするもので、わたしの本分ではなかったからだよ」


1827.2.16(金)

ヨハン・ヴィンケルマン(1717–1768)の『ギリシャ芸術の模倣について』について
「ときどき、彼が一種の手さぐりをしている箇所にぶつかるだろう。しかし偉大な点は、彼の手さぐりがいつでも何かを暗示していることにあるのだ。彼はちょうど、まだ新世界を発見してはいないが、すでにその存在を心の中で予感していたころのコロンブス(c. 1451-1506)に似ているよ。彼のものを読むと、何も学ぶことはないが、何かにはなる」

「さて、マイヤー(1760–1832)はさらに一歩進んで、芸術についての知見の頂点に達した。彼の『美術史』は不朽の作品だ。しかし、もし彼が青年時代にヴィンケルマンによって開眼し、この道を進まなかったならば、とてもこのようにはならなかっただろうね。だから、偉大な先駆者がどんなことを行うか、またこうした人をしかるべく利用することがどれほど意味をもつか、あらためてわかるだろう」


1827.4.11(水)

「私は大気につつまれた地球を、ちょうどたえまなく息を吸い、息を吐いている大きな生きもののように考えている。地球が息を吸いこむと、大気は地球にひきよせられる。そのため大気は地球の表面近くに集まってきて、固まって雲となり、雨となる。この状態を、私は水の肯定と名づけている。この状態が無際限につづけば、地球は水びたしになるだろう。しかし、地球はいつまでもそうさせてはおかない。地球はまた息を吐き出しはじめ、水蒸気を上の方へおいあげる。すると、水蒸気は上層の大気圏のすみずみにひろがって、希薄になるから、太陽の光がさしこんでくるばかりでなく、はてしない空間の永遠の闇までが澄んだ青色にすいて見えるのだ。この大気の状態を、私は水の否定と名づけている。なぜなら、逆の場合には、大量の水が上の方から下降してくるだけでなく、地球上の湿気も蒸発せず、乾燥もしないのに、この状態では、湿気が上の方から下降しないだけでなく、地球上の水分までが放散して上昇していくから。これが無際限につづけば、地球は、太陽に照らされなくとも、乾燥して干からびてしまうおそれがあるからなのだよ」


「君が生涯の信念としてもてることを教えてあげよう。自然の世界には、われわれが近づきうるものと近づきえないものがあるということだ。これを区別し、十分考慮し、それを尊重することだ。この二つの内の一方がどこで終わり、もう一つの方がどこで始まるかを知るのは、たしかにいつも困難なことではあるが、ともかく、そういう区別があることを知るだけでも、必ずわれわれの助けになる。これがわからない人は、おそらく一生涯、近づきえないものに取りくんで苦労し、結局、真理に近づくこともできないだろうよ。ところが、これを知る賢い人は、近づきうるものだけをよりどころにするだろう。そして、この領域内で、あらゆる方向に進んでいき、自分の考えを確立すれば、この道をたどっても、近づきえないものから何ものかをつかむこともできるだろう。むろんこの場合でも、結局は、多くの事柄にはある程度までしか近づくことができないし、自然は、つねにその背後に何かしら間接的なものをひそめていて、それを究めることは人間の能力ではとうてい及ばないということを、認めることになるだろうが」


(山下肇訳)



▣ 最後の件などは、『パリ心景』でも取り上げているエピクテトス(c. 50–c. 135)の哲学を想起させる。













2022年7月4日月曜日

学友とのランデブー

























本日は久し振りに雨が降り、凌ぎやすかった

緑が際立ち、どこか静かな空気が流れる湿った道を歩くというのは、気分を鎮めてくれる

そんな中、これも恒例になった「旧交を温める」会に出向いた

同期生の深津、池田の両先生との会食である


今回はわたしの本の出版を祝すという気持ちもあったようだ

早速その本を出し、表紙が素晴らしいということになった

絵の意図を図りかねていたようだが、簡単な説明をすると納得していた

すでにエッセイで読んでいる話なので、ピンとくるのに時間はかからなかった

そう言えば、深津氏は、わたしの最後はその絵の主人公と同じだ(少なくとも外形的には)と言ったご本人であった

池田氏はあまりにも読みやすいので(想定外のお言葉)、すでに読了したとのことで驚いた


今の日本で、この手の本を欲する層がどれだけいるのか分からないとの声も聞こえた

確かに、知のレベル(種類の違い)にはいろいろあり(それは本書のテーマでもある)、どのレベルを求める人が多いのかは想像できる

ただ、ゲーテが指摘していたように、わたしが求めるレベルを欲する人は確実にいると信じたいものである


お二人の著者評は、読者のことは気にせず、自分の言いたいことを言うタイプとのことなので、当世厄介ではある

また、表紙のアイディアを考えた人は、そのあたりのことをよく知っている人ではないのかとの診断

おそらく、誤診ではないのだろう









































2022年7月2日土曜日

仙台で旧交を温める
































本日も拷問のような暑さの中、仙台まで足を延ばした

毎年の恒例行事のようになってきた「旧交を温める」ためである

この地も負けず劣らずの暑さで、がっくり、ぐったりである

昨日撮った写真に写っていた我が身を見て、これは相当やられているな、という印象を持った


昔、同じ研究領域で研究を共にした田村眞理先生との会食があった

もうお一方、島礼先生は訪問医療の現場を担うお仕事を始めたばかりとのことで、お忙しく都合がつかなかったようだ

飲み歩いているわたしとはだいぶ違う人生を歩まれている

小堀鷗一郎(1938- )先生の選択を思い出させる


今回も面白い話を伺うことができた

まず、身構えて『パリ心景』を読み始めたが、これまでのところは意外にすんなり入ってくるので驚いているとのこと

文章の流れが自然だという評価であった

フランスに至る過程やフランスでの生活を読んだ感想は、出会いに恵まれているということであった

その通りだと思う

フランス文化、あるいはヨーロッパの面白さについての話がしばらく続いた

わたしも初心者ではあるが、このような話ができる悦びを感じていた


研究分野の流れも大きく変わっているようで、例えば創薬に結び付くような研究でなければ意味がないというのが分野の考えになってきているという

科学は役に立ってなんぼというところに来ているようだ

今の世に生まれていたとすれば、果たして科学に入っていたかどうか分からないと思わせる展開である

感じるのは時の流れである

つい最近まで若手研究者と思われていた人たちも次々に定年を迎えている

研究生活、さらに言えば、人生はあっという間の出来事であることを改めて確認していた


田村先生はまだ週4日は仕事をされているとのこと

頭が下がる

ご趣味は、極上の文章と音楽を味わうことだという

こちらもあやかりたいものである

またの機会が巡ってくることを願っている












2022年7月1日金曜日

人生の指南書としての『免疫学者のパリ心景』
































相変わらずの酷暑

少し歩くと体の芯から熱くなるので危ない

熱中症が大変だというのがよく分かる

今日は、熱中症ではないかと自己診断して、イタリア語講座をキャンセルされた方とのランデブーとなった

大変な時にお時間を割いていただき、感謝である

次第に調子を取り戻されたとのことで安心した


我々の年代になると自分自身だけではなく、連れ合いや周りの人が病に侵されるので大変だというお話

現在だけでなく、将来を考えるだけで気が滅入るということだろうか

話を聞きながら、わたしはある悟りに達しているのではないかと自己診断していた

これは『パリ心景』にもあるテーマになるが、次のようなことである


我々は死すべき運命にある生物である

あっという間に地球上から影も形もなくなる

そのことを明確に、厳粛に、理解できるかどうかがカギになる

それができると生き方は変わらざるを得ない

そこで重要な役割を果たすのが哲学である

これこそが哲学の根源的な役割である

科学ではどうしようもないのである


ほとんどの人間は何らかの病気で亡くなる

それは決まっているのだから、病気になる前にやるべきことをやっておくことだろう

病気になってからでは遅いのである

生きるということは、それまでに何をどのようにやるのかを考えることではないのか

何ものにも囚われることなく

そんな考えが浮かんでいた


さらに、生物のこの有限性から離れる道があるという考えも根強い

肉体が滅びることは論を俟たないが、魂の永遠についての議論である

パリ心景』で取り上げているのは、プラトン(427 BC-347 BC)やトルストイ(1828-1910)の考えなどで、いずれもわたしにとって興味深い議論を展開している

こうしてみると、この本は人生の指南書としても読めるということになる

タイトルの背後に思わぬ世界が広がっている










2022年6月30日木曜日

ボワソナード・タワーでのランデブー























           ジュリア・ヨングさんと山崎友紀さん



今日も猛暑の中、法政大学ボワソナード・タワーに向かった

10年前にパリでお会いした山崎さんにお話を伺うためである

ご一緒されたのは、やはり法政大学で教鞭を執られているヨングさん

アメリカのご出身だが、日本に20年(?)とのことで、日本語はもちろん、感性も日本人に近くなっているようにお見受けした

それからヨーロッパ、特にフランスでのご経験が豊富で、日本語はフランスで習得されたとのこと

数年で日本語をマスターされたようなので、無為に10年以上もフランスにいてさっぱりなわが身を振り返ることしきり

ご専門の一つは薬史学とのことで、日本薬史学会や日仏薬史学会を通してご活躍中である


山崎さんのご専門は化学で、所属は経済学部とのこと

このような想定を超えた組合せに見られるように(?)、科学を超えた社会とのコミュニケーションや科学教育に興味をお持ちとのこと

エネルギッシュに立ち向かっている様子が伝わってきた

また、わたしのように自分が書きたいように書くのではなく、ターゲットを明確にして書くことに注意されているようなので、アマとプロの違いを見るようであった

嬉しいことに、届いたばかりだという『パリ心景』をお持ちいただいた

日本の現状に対する認識やこれからの方向性なども話題になったが、それらは『パリ心景』でも論じられているので、感想をいただければ幸いである

これからアメリカでのサバティカルが待っているとのお話であった

アメリカでのご活躍も願っている






























2022年6月29日水曜日

「自然と人のダイアローグ」展、そして丸善の芸術的配置

























本当に暑い

街を歩いているだけでゆでだこ状態、消耗する

頭の中は普段にも増してボーっとしている

お年寄りはさぞ大変だろう

そんな中、今日は久しぶりに西洋美術館を目指した

























一つのテーマは「自然と人のダイアローグ

すでに観たことがある作者のものがかなりあった

ただ、全体に作品数が少ないという印象を拭えなかった

これは全くの個人的な感覚なのだが、フランスで感じた館内の濃密で(?)時になまめかしい(?)雰囲気――まだ言葉にできていないのだが――を感じることができない

どこか健全なのである
























ゲルハルト・リヒター(1932- )『雲』(1970)



「自然と人のダイアローグ」は芸術だけではなく、いろいろな分野でこれからの大きなテーマになるものだろう

今回の展示からは思想性はあまり感じられなかったが、わたし自身も考えていきたいテーマになりそうである

リヒターの『雲』だが、10年前のポンピドゥーセンターでのレトロスペクティブで観ている可能性がある

雲はフランスで一番多く見たものなので、今回の展覧会に出ていたいろいろな雲もすべてわたしの辞書の中にあるという感じであった
























さて、本日の本屋巡りである

まず、昨日閉まっていた新宿紀伊國屋に向かった

医学書全般のところに置かれていた他、中央の展示棚にもこのように真ん中に並べられていた

よく売れていそうな本の横にあるので、目を引く可能性がある

表紙のデザインに関わった皆様のお陰と言えるだろう




























今度はその足で、東京駅近のオアゾ内丸善へ

こちらは芸術的な雰囲気が溢れていた

思わず手に取りたくなるような、なかなかいい配置であった

昨日のお茶の水店にも「絶妙の」配置と心遣いを感じた

今回初めて、著者の立場から書店を見るというということをやったことになる

まだほんの一部しか見ていないが、今のところ、丸善の評価が少し上がったように感じている

あとは、拙著が静かに広がることを願うばかりである









2022年6月28日火曜日

日本パスツール財団訪問、そして心温まるディスプレイ






















日本パスツール財団の皆様と



いやぁー、とにかく暑い

もう人間の住むところではなくなりつつあるのではないか

そんな中、久し振りに長いお付き合いになる日本パスツール財団を表敬訪問した

今年はパスツール(1822.12.27-1895.9.28)の生誕200年に当たるが、それに合わせた記念行事をこの秋に計画されているとのこと

元パスツール研究所長のフィリップ・クリルスキー(1942- )さんも来日されるようだ

博士の『免疫の科学論』を訳したことも今や懐かしい思い出になっている

機会があれば、記念の行事に何らかの形で関わることができれば幸いである

財団の現状についてもお話を伺ったが、更なる発展を願うばかりである
































今日は暇な時間に拙著の様子を眺めるため、書店を巡ってみた

有楽町の三省堂にはまだ入っていなかった

新宿の紀伊國屋はなぜか閉まっていた

明日以降、トライしてみたい


上の写真は御茶ノ水の丸善で、適切にも「医学一般 医学読み物」という棚に並べられていた

そして次の瞬間、心の中でニンマリ

「とてつもない」ものの横にあったからだ

店員さんがどのように考えたのかは想像できないが、拙著に関するかぎり、心が温かくなるディスプレイになっていた

店員さんには改めて感謝したい







2022年6月23日木曜日

ゲーテの言葉から(9)


























パリ心景』を手に取られた方から、次のようなメッセージが届いた

 「これは過去20年余りの思索の纏めなのでしょうが、わたしはこれからの序章として読みたい」

そのような意味合いも込められているので、全く問題はないだろう

以前にも触れたが、まさにいろいろな読まれ方があることを確認する朝となった



今日もゲーテ(1749-1832)である


1826.1.29(日)

「彼(オスカル・ルートヴィヒ・ベルンハルト・ヴォルフ、1799-1851)がすばらしい才能を持ちあわせていることは疑うべくもないが、しかし、主観主義という現代病におかされている。私はそれを治してやりたい。・・・ヴォルフのような即興詩人が、ローマやナポリやヴィーンやハンブルクやロンドンなどといった大都会の生活を迫真的に描き、読者が自分の目で見ているのではないかと錯覚するほど生きいきと描き出せたら、みんなを喜ばせ、熱狂させるにちがいない。彼が、殻をやぶって客観的なものに通じれば、救われるさ。彼は想像力がないわけではないから、それだけの素質はあるのだ。ただ、すみやかに意を決して、それをやりとげる勇気だけが必要なのだよ」


「僅かばかりの主観的な感情を吐露しているかぎりは、まだ詩人などといえたものではない。しかし、世界を自分のものにして表現できるようになれば、もうその人は文句なしに詩人だ。そうなれば、彼は、行き詰まることもなく、いつまでも新鮮さを失わないでいられる。それに対して、主観的な性質の人は、僅かばかりの内面をすぐに吐き出してしまって、結局マンネリズムにおちいって自滅してしまう」


「後退と解体の過程にある時代というものはすべていつも主観的なものだ。が、逆に、前進しつつある時代はつねに客観的な方向を目指している。現代はどう見ても後退の時代だ。というのも、現代は主観的だからさ。このことは、文学だけでなく、絵画や他の分野においても見られるのだ。それに対して、有意義な努力というものは、すべて偉大な時期ならどの時期にも見られるように、内面から出発して世界へ向かう。そういう時代は、現実に努力と前進をつづけて、すべて客観的な性格を備えていたのだよ」


「それにまた、今どきの若い娘たちは劇場へ行って何をしようというのだろう? 劇場は若い娘などの行くべきところじゃない。修道院にでも行けばいいのさ。劇場の入口は、人生の機微に通じた男や女のためにだけ開かれているのだ。モリエール(1622-1673)が書いていた当時は、娘たちは修道院にいた。そこで、モリエールは娘たちのことなどまったく顧慮する必要がなかった。・・・しかし、今ではあの若い娘たちを追い出すことも難しいし、上演をやめるわけにはいかないとなれば、やはり、娘たちにはお誂え向きの弱々しい作品ばかり見せつけられることになるから、もっと利口になって、私の流儀を真似して、そんなものには見向きもしないことだ」


(山下肇訳)















2022年6月22日水曜日

ゲーテの言葉から(8)
















今日は当初予定されていた『免疫学者のパリ心景』の発売日である

何か新しい情報がないかとサーフしている時、驚きの発見をした

紀伊國屋書店の「教育と研究の未来」サイトに6月の新刊として取り上げられ、紹介文が続いていた 

それを読むと何か大変なことになっていて、この本の著者は一体どんな人なのかという感じになった

もしその人を知らなければ、わたしも手に取りたくなるような "enticing" で過分な紹介文であった


さて、本日もゲーテ(1749-1832)である

昨日ゲーテは、学ぼうとする人との相性が重要だと言っていた

これまでのところ、ゲーテとの相性は極めて良好のようである

それでは、始めたい


1825.6.11(土)

「詩人は特殊なものを理解すべきだが、それが健全なものであるかぎり、そこに普遍的なものを表現することができる。イギリスの歴史は、文学的な表現にはお誂え向きだ。それが、たくましく、健康で、したがって普遍的で、反復してあらわれるからだ。それと反対に、フランスの歴史となると、文学には向かない。くり返しのきかない生の一時期をあらわしているからだ。だから、この民族の文学は、そうした時期に根拠をもちつづけるかぎり、一つの特殊なものとして存在し、時代とともに老衰してしまうだろうね」

「やたらに定義したところで何になるものか! 状況に対する生きいきした感情と、それを表現する能力こそ、まさに詩人をつくるのだよ」


1825.10.15(水)

「研究者や作家の一人ひとりに性格の欠けていることが、わが国の最近の文学の諸悪の根源だ。とくに批評においては、この欠点が世間にいちじるしい害毒を流している。真実なもののかわりにまちがったものをふりまいたり、あるいはみすぼらしい真実のおかげで、われわれにとっていっそう役立つ偉大なものを奪いとってしまうからなのだよ」

「たいていの人間にとっては学問というものは飯の種になる限りにおいて意味があるのであって、彼らの生きていくのに都合のよいことでさえあれば、誤謬さえも神聖なものになってしまうということだったよ」

レッシング(1729-1781)のような男が、われわれには必要なのだ。彼が偉大なのは、その性格や意志の強固さによるもので、それ以外に何がある! あれくらい賢明で、あれくらい教養のある人物なら、他にもたくさんいるが、あれくらいの性格がどこにある!

じつに才たけて知識も豊かな人は大勢いるが、同時に、虚栄心も強い。近視眼的な大衆から才気のある人とほめられたい一心で、恥も外聞もなくしてしまう。彼らにとっては、神聖なものなど全く存在しないのだ」


1825.12.25(日)

シェークスピア(1564-1616)について、何か言える資格のある人はいない。何を言っても、言い足りないのだ。私は『ヴィルヘルム・マイスター』の中で、彼にちょっとだけふれてはみたが、それはたいして言うほどのこともない。彼は、劇場の詩人などではないのだよ。舞台のことなど念頭になかった。舞台なんか、彼の偉大な精神にとっては、あまりに狭すぎたのさ。それどころか、この目に見える全世界すらも、彼には狭すぎるくらいだったのだ」


(山下肇訳)