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2022年12月25日日曜日

コリングウッドによる自然(70): 現代の自然観(12)新しい物質論(1)



















現代物理学は、困難なことはあるにせよ、これらの問題を除くために少なくとも何かはやってきた

最後の問題を最初に持ってくるとすれば、化学と物理学との論争は電子理論によって落ち着いた

この理論によれば、原子は究極の粒子ではなく電子の集合なので、一揃えの化学的特徴を持つ原子は、一つの電子をそこから蹴り出すことにより、別の特徴を持つ原子になる

従って我々は、一つの物理的単位である電子に戻る

また、原子の単なる量的側面(原子の重さ)に依存するのではなく、原子を構成する電子のパターンに依存する化学的性質という新しい概念を手に入れるのである

このパターンは静的ではなく動的で、常に一定の律動で変化している

これは丁度、音響学においてピタゴラス学派が発見したリズミカルなパターンのようである

量と質を結ぶものとしてのリズミカルなパターンというこの考えは、現代の自然理論において重要である

それは単にそれまで別々にあった概念を結び付けるだけではなく、さらに重要なのは、時間の概念の新しい意義を明らかにしたからである

もし水素原子が水素の特徴を持つのは、一定数の電子を持ち一定の配列をしているからではなくなく、一定のリズミで運動しているからだとすれば、ある瞬間において原子はその特徴を全く持っていないことになる

リズミカルな運動ができるようになる時間の広がりの中でだけ、原子はその特徴を持つのである

もちろん、ある瞬間には存在せず、時間の広がりの中でだけ存在するものがあることは知られていた

運動が最も明白な例である

一瞬を取れば、動いている身体と静止している身体に違いはない

生命も同様である

生きている物体と死んでいる物体を分けるものは、生きている動物ではリズミカルな過程と変化が進行していることである

従って、生命は運動と同様、瞬間には存在せず、時間が掛かるものだということになる

アリストテレス(384 BC-322 BC)は、同じことが道徳的性質についても言えることを示した

例えば幸福だが、一生の間その人に属している場合にかぎりその人のものなので、心的状態を一瞬だけ見ても彼が幸福かどうかは分からない

それは丁度、写真を見てもその動物が生きているのか死んでいるのか分からないのと同じである

現代物理学の出現以前には、運動とは物体に起こる事故のようなもので、それによって物体の性質は変わらないと理解されていた

原子を運動する電子パターンとして捉えるこの新しい理論は、この理解を完全に変えてしまった

それだけではなく、時間が関与するという意味で、物質の化学的性質を精神の道徳的質あるいは有機体の生命に関する性質と類似のものとしたのである

それ以降、倫理学において人間が在ることと人間がすることを分けられず、生物学において有機体が存在することと有機体がすることを分けられないのと同様、物理学においても物質があることと物質がすることを分離できなくなったのである

これを分離することは、古典物理学の礎石であった

それは、運動を外から物体に加えられたものと捉え、物質界の写真がその全性質を明かにすると信じる世界であった







2022年10月18日火曜日

コリングウッドによる自然(25): ルネサンス期の自然観(1)

























これから暫くは、16、17世紀の流れを振り返ることになる

第1回は、反アリストテレス主義について

古代ギリシアに次いで宇宙論に大きな動きがあったのは、16、17世紀である

この動きは、部分的にはアリストテレス(384 BC-322 BC)により、また幾分かはキリスト教により触発された中世の思想に対するネガティブなものとして捉えることができる

攻撃の標的は、目的論、目的因に対する理論、まだ存在しない形相を実現しようとする努力が浸透しているものとしての自然であった

フランシス・ベーコン(1561-1626)は、アリストテレス主義者がある結果を説明するために、その原因がその結果を生み出す傾向を持っていたと言うのは、説明したことにならないと批判

それは、科学本来の課題である原因の構造ないし性質の発見を遠ざけるものである

目的論に対して、作用因により自然を説明するよう主張した

この説明は、変化の起源において、既に存在している物質の活動によるものであった

近代経験主義の先駆者とも言われるベルナルディーノ・テレジオ(1509-1588)は、次のような見方を採っていた

自然は形相を模倣するように外部の何かによって誘導されるのではなく、それ自身の固有の活動性により運動を生じ、自然界の構造を生み出す

ルネサンス期の自然主義哲学は、自然を神的で自己創造的なものと考えていた

そして、存在物としての所産的自然Natura naturata)と、それらに生命を与える内在的な力としての能産的自然Natura naturans)とに区別された

この構想は、アリストテレスよりはプラトン(427 BC-347 BC)に近い宇宙論であった

プラトンは自然的事物の行動様式を、数学的構造の結果として説明した

それに対してアリストテレスは、神的自然の模倣の精巧な連鎖によって説明しようとした

近代科学の真の父であるガリレイ(1564-1642)に至るまで、ルネサンス期の哲学者はプラトンに従った

ガリレイは、自然は神によって数学の言語で書かれた書物であると宣言することにより、プラトンの教説、より厳密にはピタゴラス(582 BC-496 BC)の教説を立脚点にしたのである









2022年10月17日月曜日

コリングウッドによる自然(24): アリストテレス(6)物質
































アリストテレス(384 BC-322 BC)を去る前に、彼の物質概念について一言残しておきたい

しかし、それは非常に難しいことである

なぜなら、『形而上学』の用語辞典においても何の説明もないからである

神あるいは精神は思惟するものであろうと、永遠なる対象である形相としても物質を含まない

感性は物質の中に具体化された形相だけを感覚するので、アリストテレスの物質概念なるものを期待できない


現代科学が物質論と呼ぶ原子、電子、放射能などは、構造や律動運動の類型を記述したものである

従って、ギリシア的に言えば、これらは形相についての理論ではあるが、物質の理論ではない

アリストテレスにとっての物質は無規定なもので、しばしば可能態(デュナミス)と同一視される

『形而上学』には、物質を次のように否定的に定義しているところがある(1029a20-)
物質(質料)という言葉でわたしが意味するものは、存在を決定する質とか量とかその他の属性を何一つその内に含まないものである

自然においてはすべてが常に発展しつつあり、可能態であったものが現実態(エネルゲイア)へと生成している

物質とは、可能態の無規定性に他ならないのである

可能態にあるものは、形相に向かう衝動が存在する

しかし、それを妨げる何らかの力も存在している

これこそ、アリストテレスの物質なのである

つまり物質とは、いまだ実現していない可能態のことを意味している

物質が完全に消失するのは、形相が実現し、可能態が現実態の中に解消するときだけである

そのため、純粋な現実態は全く物質を含まないのである

ところで、神であり得るが神でないものは存在しない

 神は純粋な現実態であり、物質を全く含まないのである



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アリストテレスによれば、エネルゲイアに在る時には物質がなくなっているという

エネルゲイアの状態を感じることが多くなっている日常だが、それは物質が消え、精神だけになっているということなのか

あるいは、精神だけにならなければエネルゲイアには至らないということなのか

そう考えるとよく理解できる

それは形相が実現している状態である

あるいはまた、神に近づいている状態と言えるのだろうか

いずれにせよ、そこで感じているのは永遠である

それは純粋な形相の世界と言えるのかもしれない

想像だにしなかった何とも恐るべき展開である








2022年10月16日日曜日

コリングウッドによる自然(23): アリストテレス(5)不動の動者の複数性





免疫学者のパリ心景』を読んだという方からコメントが送られてきた

そのポイントを以下に書き出してみたい

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定年後の第二の人生をいかに生きるかという大命題に真摯に立ち向かった経緯を知り、感嘆した

「すごい」と思ったのは、単身でパリに乗り込んで、修士から博士課程を修了して学位を取られたのちポスドクを経験されたこと

それから、その時その時に的確な指導者を見つけ出せたことで、運の強い人だと思った

大学卒業してすぐに哲学の世界に入ってもうまく行ったのではないか

今、第二の人生の前半を終了され、これからの後半をどのように考えて、何をされるのかという点に興味が湧いている

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わたしの歩みに感嘆されたとのことだが、わたしの中では最も自然なことだったので特別な感情は湧いてこない

ただ、この本が第二の人生の歩み方という視点から読まれる可能性があることが分かり、その点からは存在価値がありそうだ

一方、多面的に読むことができる本だとも思っているので、他の視点が指摘されることも願っている

また、最初から哲学に入っても問題なかったのではないかという指摘もあったが、これに関しては科学を終えたからでよかったと思っている

18歳くらいで哲学に入ってもエネルギーはあるが、考える材料も経験もないと思われるので、かえって大変だったのではないかと想像している

これはロッテルダム大学の哲学教授と話した時にも指摘されていたことである



この話題はこれくらいにして、コリングウッド(1889-1943)アリストテレス(1889-1943)に入ることにしたい

アリストテレスの神は、我々を愛するものではなく、我々が愛するものであった

それでは、神への愛によって作りだされた自然の過程は、どのように説明されるのであろうか

タレス(624 BC-546 BC)は、磁石も虫も水に過ぎないと言った

しかし、磁石がそのように行動し、虫がそのように行動するのはなぜなのかについては答えられなかった

アリストテレスが、すべてのものは神の生命を模倣しようとしていると言っても、多様な存在を説明しきれない

存在者には階層が存在し、それぞれの階層がそれ自身の目的を持っているとしか考えられない

そのためアリストテレスは、不動の動者の数は複数であるとしたのである

その一つは第一の動者=神である

その非物質的な動因の絶対的・自足的・自己依存的な活動(純粋な自己認識)は、物質的動因の活動(運動)によって模倣される

このように、第一の動者の魂は、神の愛によって発動され、可能な限り神の生命に似た方法で自身の物体を動かす


この活動は2つの方法で模倣される

1つは物体によって、もう1つは物質の中に具現しない精神あるいは叡智(ヌース)によってである

ギリシアにおける物体とは、魂を与えられた生きた物体で、努力とか欲望、愛によって発動させられる有機体のことである

神は自らを思惟・観想し、その他の叡智的存在者は神を思惟・観想する

つまり、その他の叡智的存在者は神的本性を分有するが、それは部分的であり、不完全な分有である

アリストテレスによれば、第一の動者の斉一な円環運動は、神の不動なる活動を再現する努力を表している

この円環運動は、神の活動を物体との関わりの中で直接模倣したものである

これに対して、惑星という叡智的存在者の思惟は、理性との関わりの中で神の活動を直接模したものである

叡智的存在者の完全な社会は、非物質的な永遠の手本から成り、宇宙的運動の複合態はそれを手本としている

これは『ティマイオス』をアリストテレス流に言い直したことになる

神は物質的・時間的世界を創造する際、永遠なる非物質的形相の世界を手本とした

重要なことは、自然界に存在する多様な活動の分化は、永遠なる実在の世界に存在し、論理的に先行する分化過程に依存するということである










2022年10月15日土曜日

コリングウッドによる自然(22): アリストテレス(4)その神学


























今朝テレビを付け、さて今日の日美は何かなぁなどと思いながらチャンネルを変えた

しかし、違う番組をやっている

暫くして、今日は土曜だったと気が付いた

かなり前から感じていることだが、時の流れが悠々としているのだ

先日のカフェ/フォーラム・ウィークなどは、ひと月ほどに感じられた

これは非常にうれしい感覚であるが、その理由は分からない

想像にしか過ぎないが、FPSSで聞いた変性意識(瞑想による)の中に長い間いるせいかもしれない

ところでこの変性意識、英語では "altered state of consciousness" となる

この言葉であれば、40年以上前からわたしの中にあった

マンハッタンに住んでいた1980年、Altered States という映画を観ていたからだ

こちらは幻覚剤などを使っての変性意識ではあったのだが、、

今朝は思わぬところから過去と繋がってくれた



さて今日も、コリングウッド(1889-1943)によるアリストテレス(384 BC-322 BC)である

プラトン(427 BC-347 BC)は『ティマイオス』において、永遠の思惟者、主体、精神としての神と、永遠の非物質的な形相を区別した

プラトンの神は形相を思惟する

アリストテレスによれば、神と形相は一つのものである

形相とは神が思惟するための方法であり、神の思想の明確な表現である

プラトンにおいては、精神活動から分離された純粋な客観物として形相を捉えているが、それに対する議論がある

しかし、アリストテレスによる思惟する神と形相の同一化は、この問題を回避する

『ティマイオス』のプラトンは、神をその創造的な意志の行為によって自然の作用因とし、形相をその静的な完全性のために目的因とした

これに対し、アリストテレスは神と形相を同一視したので、自らを認識する自足的活動を持つ不動の動者(unmoved mover or prime mover)を想定する

その活動は、それ自身の思惟の範疇である形相を思惟することで、最高にして最上のものであり、全てのものにそこに向けての願望と努力を吹き込むものである


アリストテレスの神は世界を愛さず、むしろ世界が神を愛する

世界を動かす愛は、我々に対する神の愛でも、我々相互の愛でもない

一方的な神に対する愛なのである

アリストテレスの愛は「エロス」であり、プラトンの『饗宴』で論じられたところである

すなわち「エロス」とは、不完全なものがそれ自身の完全性を求める憧憬を意味している

より優れたものに対して、より劣っているものが感じる上向きの志向を持った愛なのである

これに対して、キリスト教徒の愛は優れたものがより劣ったものに感じる下向き、あるいは恩恵的な愛である「アガペー」である

つまり、アリストテレスは神が世界を愛さないとすることによって、神はすでに完全で、より善きものへ向かう志向を持たないことを言おうとしたのである


さらにアリストテレスは、神が世界を認識することを否定し、神が意志をもって世界を創造したとか、摂理を持っているというようなことを否定する

そうすることにより、神は見守るものであり、許すもの、さらに責め立てるものと考える必要がなくなる

しかし、神は世界の生命を見守り、歴史の過程を支持し、最終的には彼自身との一体化に至ると考えることも可能で、それなしには神というものを考えることもできない

アリストテレス神学における神の自己認識が神の理性(ヌース)の認識を意味し、それは形相という構造を持っている

我々も理性的存在であり、ヌースに関与しているかぎり、我々の自己認識や形相認識は神の生命に関わることで、我々を神の自己認識の圏内に導くものである









2022年10月14日金曜日

コリングウッドによる自然(21): アリストテレス(3)その認識論





























今日は、アリストテレス(384 BC-322 BC)の認識論について解説している

非常に興味深く、心を整える上でも参考になるところ大である

生きることに直接関係してくるのである

早速始めたい


アリストテレス以前のギリシア人は、聴覚の本質をすでに発見していた

音というものは、物体によって掻き立てられ、空気を伝わって聴覚に達するリズミカルな振動であるというものである

このようなリズミカルな振動を我々の中で再生することと音を聞くことは同義であった

しかし、例えば鈴を構成している銅は我々の中には入って来ず、来るのは振動の律動だけである

この律動は、ピタゴラス(582 BC-496 BC)あるいはプラトン(427 BC-347 BC)的形相であり、非物質的なもの、あるいはアリストテレスのロゴスである

つまり、鈴の音を聞くことは、自分の中で鳴っている鈴のロゴスをヒュレー(質料)抜きで受け取ることである

ある対象物を感覚するとは、我々自身の中にその形相を再生することであり、物質は我々の外に在る


この見方は、感覚の表象説あるいは模写説と同じではない

これらの説は、我々の頭の中で鳴っている音は、鈴の音と似たものだと言う

しかしアリストテレスは、それはロゴス=律動そのものだと言うからである

外で鳴っているものと同じ音であり、形相なのである

それでは、感覚では捉えられない形相の場合はどうなるであろうか

例えば、善の形相が存在するとしてみよう

その形相は、思惟によって我々の心に受け入れることによってしか把握できない

その時、我々の心をそれに合わせて整える方法として経験する

聴覚の場合、音を出す物体は我々の外に在るが、善の場合、物質は存在せず、形相があるだけである

善の写しではなく、それ自身が我々の叡智の中で再生されるのである

つまり、物体が存在しないような対象を相手にする場合、認識するものと認識されるものは同一なのである









2022年10月13日木曜日

コリングウッドによる自然(20): アリストテレス(2)自ら動くものとしての自然



前回見たように、アリストテレス(384 BC-322 BC)にとっての自然は、イオニア学派プラトン(427 BC-347 BC)と同様、自ら動く事物の世界である

この動きは、17世紀的な慣性によるものではなく、自発的運動による

ある変化が次の変化に繋がるが、それぞれの変化が次の形態の可能態(デュナミス)になる

ただ、これは進化を意味しない

なぜならアリストテレスは、自然の世界の変化は永遠に繰り返す循環的な構造を持っていると考えていたからである


自然が自ら動くものだとすれば、自然の外に作用因を求めることは理に適わない

ただ、自然が存在する以前に時間が存在したとすれば、そのような作用因も想定できるが、アリストテレスはそうは考えない

プラトンの『ティマイオス』と同じ考え方である

すなわち、この世界は自ら原因となり、自ら存在するものである


この考え方は、アリストテレスを唯物論者の仲間に入れるように見える

しかし、『形而上学』では全く新しい議論により「神」が再び宇宙論に導入される

物体は運動の内に在り、何らかの方法で運動するものでなければならない

その方法を自然法則と呼んでいる

それは方法の大体の性格を表現するもので、法則の制定者を考えることにはならない

しかしギリシア人にとっての自然は、熱意とか衝動とか傾向という特徴を持っていた

種子は芽を出し、若い動物は成長、発達し、大人の大きさと形になる

可能態とは、それが現実態(エネルゲイア)に向かう時に力となる衝動の存するところである

この衝動という概念は、自然の過程が目指す目的を想起させる(目的論的含意と持つ)ため、近代科学からは擬人的だとして排除された

種子の衝動を意識的な意志と同一視すれば擬人的だが、無意識にそうしようとしている可能性は否定できない


発達という概念は唯物論には致命的である

なぜなら、発達とは非物質的な原因を内に含むからである

種子が植物へと発達するのは物質的ではない何か、すなわち植物の形相のためであり、植物のプラトン的イデアである

それは形相因であると同時に目的因でもある

ここでアリストテレスはプラトンを超える

イデアに導かれる力を、イデアによって呼び起こされるのではなく、イデアとは独立に存在しているとしたのである

この力が生まれるのは作用因による

また目的因は、それが支配する力の向きを定めるだけではなく、それを引き起こすものと考えている

目的因は同時に作用因なのだが、それは非物質的なものである


種子は植物になることを「欲する」が故に成長する

「欲する」などという言葉を使うことができるのは、植物が知性や心は持っていないものの、魂、プシュケーを持ち、目的を認識してはいないが欲望や願望を持っているからである

形相とは、このような願望の対象である

願望の対象であることによって、他の事物に運動を引き起こすものである

この願望は、事物自身を形相に一致させ、できる限り形相を模倣したいという性質を持っている

形相とは、自らは動かずに自然の世界を最初に動かすものなのである






2022年10月12日水曜日

コリングウッドによる自然(19): アリストテレス(1)ピュシスの意味

























今朝は気持ちよく晴れ上がってくれた

嵐の後には、ススキの穂も萎れていたのだが、今朝は日の光を浴びて綿毛のように輝いている

植物の強さに感心すると同時に、もう少し秋を味わえる喜びがある

庭先にはトンボも寄ってきて、日向ぼっこなのだろうか、近づいても全く動かない

わたしも動かないことにして、ぼんやりと次回のカフェ/フォーラム・シリーズのことを思い描いていた

これまでは、自分の中に蓄積したテーマをあまり関連性を考えずに飛び回っていたような感がある

今回、FPSSで繋がりを持った話を始めることにしたが、他の会もどこかで繋がるようなテーマを選んで進めるのも面白いのではないかという考えが浮かんできた

勿論、それに縛られることはないのだが、、

いずれにせよ、具体化し次第、お知らせする予定である



さて、本日もコリングウッド(1889-1943)で、新らたにアリストテレス(384 BC-322 BC)を論じている

具体的には、『形而上学』の第12巻に展開される宇宙論を論じることになるようだ

この部分については、プラトン(427 BC-347 BC)の影響下に書かれた初期の作品とする意見と、後期の文体と成熟した発展の痕跡が見られるとする見方があるようだ

今日のテーマは、ピュシス(φύσις)の意味である

アリストテレスは、一つの言葉がいくつかの意味を持つことに注目し、だからと言って曖昧とは限らないと考えていた

そして、それらの意味は相互に繋がっているが、その中の一つだけが最も深く真なる意味であるとした

彼は、ピュシスの意味を次の7つに区別する

1)起源、あるいは生まれ

現実のギリシアの文献にこのような意味を持つことはないという指摘があり、コリングウッドも同意する

2)事物がそこから成長する種子

これも文献には出て来ない意味である

3)自然的物体の運動ないし変化の根拠

例えば、石が自然に落ちるなどと言う時の意味で、普通のギリシア語の用法である

4)事物がそこから作られる始原的物質

これはイオニア学派によって強調された意味である

紀元前6世紀の哲学において、事物の本質ないし本性を意味していたが、イオニア学派は事物の本性を事物が構成されている構成要素に関連付けて説明しようとした

5)自然的事物の本質ないし形相

紀元前5世紀の哲学の著作においても普通の用法においても、ピュシスはこの意味で使われていた

しかし、自然を自然的事物の本質と定義することは、自然的事物の定義がないところではトートロジーになる

6)一般に本質ないし形相

アリストテレスは、自然的事物を「自らの内に運動の根拠を持つ事物」と定義することによりトートロジーを回避している

7)自らの内に運動の根拠を持つ事物の本質

これこそ、アリストテレスが真の根源的意味としたものである

それ自身の権限で成長したり組織したり運動したりする原理を持っていることが事物のピュシス(自然)という意味であるとしたのである








2020年4月20日月曜日

精神と魂と身体(9)





ご無沙汰してしまったが、再び『現代哲学』に戻ってみたい(前回はこちらから)


アリストテレスの帰還

同じ前提を共有している二元論者と反二元論者は、世界最高の好敵手である
両者は共に、根本的な問題は精神(心的特性)と身体(物理的特性)の関係であると考えている
彼らは二つの特性が全くの別物であるとするか、同一性から付随性に至る関係を確立しようとする
それを完全な還元可能性なしに行ったが、その間には不完全な還元可能性を持つ異なる形がある

精神が占める位置はどんなものなのか
純粋な精神的実在なのか
単なる錯覚、あるいはこころの科学が最終的に根絶するという「通俗的な」語り方に過ぎないのか

しかし、あらゆるジャンルにおける二元論者と唯物論者に共通するこれらの前提を拒否することができる
アリストテレスにとって、精神と身体の関係は問題ではなかった
彼は二元論者でも反二元論者でもなく、「四元(素)論者」だったのである

彼は思考と知覚の性質に関連する問題を検討した
精神と物質というぶつかり合うカテゴリーの中でではなく、四つの構成要素を含む大きな枠組みの中で
四つの構成要素とは、自然の物質、生き物、知覚する動物、理性的動物である

アリストテレスとトマス・アクィナスは、存在の物差しの特定のレベルを占める動物として人間を考えていた
動物は物理的身体が特別な種類の動物である
下のレベルが常に必要条件を構成しているとしても、それぞれのレベルは質的に還元不能である
魂は生き物を生き物たらしめているもので、人間の魂はある存在を人間にしているものである

この意味で、アリストテレスとアクィナスにはこころの哲学はないが、知覚する動物と人間に特有の生の説明がある
人間の生とはどのようなものなのか
これはよい問いになるだろう

しかしそれは、デカルトが我々に教えたことのすべてに戻ることにならないだろうか
わたしは考えるものである
今日では「主体」であって理性的動物でないと言われるものである
それ故、私の思考が私の身体とどのように相互反応できるのかを知ろうとする問題が出されるのである
ロックのように、物質がどのようにして考え始めることができるようになるのかを問うこともできるだろう

しかし、デカルトが魂と身体の関係を省察し、この問題を適切に問うたことが問題にされているとしてみよう
また、哲学の主要な問題は主体や主体の批判であるとは考えられていないと仮定してみよう
その場合、アリストテレスの「四元論」の意味が見えてくるかもしれない
このようにして、20世紀後半、アリストテレスやアクィナスの伝統が再び現れたのである

アリストテレスやアクィナスを特に読んだわけではない哲学者から衝撃が来た
その哲学者はウィトゲンシュタインである
彼がこころの哲学について独自の省察を行うことによりその根源的な側面を発見したように事は進行した
より正確には、アリストテレス・アクィナスの伝統に特有の「魂」の哲学についての省察である
少なくともすべてのイギリスの哲学者たちは、ウィトゲンシュタインをそのように理解したのである















2019年8月17日土曜日

チャールズ・サンダース・パースというアメリカの哲学者

   チャールズ・サンダース・パース


本日は朝から雨模様
一段と涼しくなってきた

昨日、メールで届いた情報からこの哲学者が蘇ってきた
チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)
記号論(semiotics)について調べていたのは7-8年前になるので、それ以来である
今日は彼の人生をざっと振り返ってみたい

彼は1839年にマサチューセッツ州ケンブリッジに生まれている
父親ベンジャミンはハーバード大学の天文学と数学の教授
10代後半から神経性の症状に苦しみ、その影響で社会との関係がうまく取れなくなる

子供のころから論理学の本を読み、終生論理の進め方に興味を持つようになった
ハーバード大学ではウィリアム・ジェームズと親交を結ぶ
ただ、40年間ハーバードの学長の椅子に座ることになる人物がパースを評価せず
大学での正規の採用が難しくなった
父親の影響もあり、1859年から1891年まで米国沿岸測量局での職は維持したようだ

1869年から1872年まで、ハーバードの天文台の助手
1879年、ジョンズ・ホプキンスの論理学の講師に採用
1884年、女性問題で大学を解雇される(これが唯一の大学での職となった)
この後も測量は続けながら、哲学、論理学、科学についての研究に打ち込む
1909年までの15年ほどの期間が最もプロダクティブだったようである

1887年、親からの遺産でペンシルベニア州ミルフォードに2,000エーカーの土地を買う
そこに引き籠り、「アリズビー」(Arisbe)と名付けた家を建てて執筆を続けた
1914年、その家で74年の人生を閉じた
800以上の発表論文(12,000ページ)の他、手書きの未発表原稿が10万ページ以上あるとされる

今ではアメリカの最も独創性に富む思想家とも言われているパース
彼に会ったホワイトヘッドは、パースのことを「アメリカのアリストテレス」と言ったという
因みに、ヨーロッパの知性が見たアメリカのプラトンは、ウィリアム・ジェームズとのこと