2020年4月24日金曜日
精神と魂と身体(13)
性向と人間の魂(2)
しかし、「現代の」哲学は何に関わっているのだろうか
アリストテレスと共に、古代哲学に関わるのだろうか
神経科学の時代にいる現在、アリストテレスのモデルが少しでも意味があるとどのように信じるのだろうか
確認したいのは、アリストテレス・モデルの貢献に異議を差し挟むものではないことである
ただ、アリストテレスの伝統は今なお存在している
機能主義において何かを思考にするものは、欲求や苦痛、あるいは如何なる心的状態も内的な構成には依存しない
依存するのはその機能であり、認知システムにおける役割だけである
それは最終的には、アリストテレスの教義から遠く離れるものなのだろうか
現代のこころの哲学者の中には、アリストテレスの伝統を明確に主張し、理性的魂に現実味を与える者がいる
人間における生の原理は、成長、繁殖したり、動き、知覚するだけでは駄目で、理解し考えなければならない
こころの研究は、人間の理性的性向の研究でなければならない
その性向は、人間に他の動物との特異的な違い(理性)を付与することなしには理解できない活動や振る舞いに表れる
その視点から見れば、感情は認知的であるというテーゼは、こころの哲学の一つのやり方を示している
それは、心身の違いを基にして議論するやり方とは異なるものである
感情は、ある状況を理解し、しばしば道徳的に適切に反応する人間に特有なやり方である
人間を理解するということは、魂と身体で構成される存在、全体性に興味を持つことである
その存在は、他者と共にいる世界、社会生活の中、自然物と人工的なものの中にいる
どんなやり方であれ、その全体を断片化する時、人間的現実から離れる危険を冒すことになる
「こころの哲学」という表現は、デカルトのパラダイムの中にある理論を特徴付けるために取っておくことができる
それは心身の関係に関する議論になる
対する「魂の哲学」は、我々を全く違う伝統の中に置く
そこでは、人間の研究がその潜在性を基に存在の種類を区別する形而上学と結び付いている
従って、心的状態について調べるよりは、道徳的な反応や芸術的、宗教的な活動を研究して人間について学ぶのである
2020年4月23日木曜日
精神と魂と身体(12)
性向と人間の魂(1)
二元論者も反二元論者も人間に心的状態と物理的状態があると見做し、両者が結ぶ関係について自問する
新アリストテレス主義の見方によれば、それが物理的なものであるかどうかは別にして、人間に性向が与えられる
性向は、ある条件(実行するための社会的なものも含む)と能力を前提としている
ポーランド語を話すためには、話す能力と、その言語を子供のころ家族の中で、あるいは後に学んだ能力が要求される
遊ぶ、話す、フルートを演奏する、哲学をやるなどの理性的な性向は、人間に特有のものである
性向とは特性である
しかし、何の?
理性的性向の場合(大学に行きたい、試験を受けたい、受かりたいなど)、それは人間であることの特性である
意図を持ち、欲し、望み、愛する人は一人の人間であり、その精神でも身体でもない
二元論者や反二元論者は、意図や欲求や感情を付与する際、カテゴリーの間違いを犯す
ただ一人の人間だけが意図や欲求や感情を持つことができるのである
心的現象を理解するとは、心的状態を記述することではない
そうではなく、社会的状況に置かれた人間が語り、することを解釈することである
「魂」という言葉に、不死性と直接結びつく宗教的意味合いを伴う精神と同じ意味を与えるという習慣があった
しかしアリストテレス主義者にとって、魂は身体の形である
それは丁度、家の形相がそれを作っているレンガやモルタルに構造を与えているのと同じ意味において
形相の存在がレンガやモルタルを家にするのであって、壁や窯ではない
アリストテレスにとって、レンガやモルタルは潜在的に家なのである
それらが家として適切な形を実現するまで
この場合、形相と材料が一緒になって家を現実に作っているのである
アリストテレスの言葉に肖れば、形相は家の現実性である
形相の存在が、なぜある特定の量の材料が他のものではなく家になるのかを説明している
同様に魂の存在が、なぜある材料が他のものとは区別される人間になるのかを説明している
人間の魂は、人間という特定の生物の特殊性を説明している
クリストフを鯉や猿ではなく人間にしている原因は、クリストフの現実性と分けて考えられないのである
2020年4月22日水曜日
精神と魂と身体(11)

生活形式としての思考(2)
「もの・こと」を別の方向から検討することも可能である
考えるとは、例えば、集め、組み立て、分解し、一番しっくりくる何かを探す人のように、することである
苛立ちや満足を示す音を出すことも含めて
人間のようなロボット、あるいはロボットのような人間の可能性はその意味を失う
もし「なぜその人はその動きや身振りをし、その音を出すのか」という問いに答えなければならないとしたら
それではうまくいかない、こうやるのがよい、やり方を見つけたなどと彼は考えたと言わなければならないだろう
この考え方は、人間は物質的存在であるという見方(唯物論になるが)に何ら反するものではない
なぜなら、人間に意図や願いや信念を付与することは、人間を非物質な存在であると考えることを意味しないからだ
しかしそれは、すべての心的状態が物理的状態に還元できるということではない
そうではなく、物理的なものは一つの「生き方」を持つことができることを意味している
それはそのものに特有で、人間ではない他のいかなる物理的なものもその生き方を持つことはできない
思考を、意志を持つ、信じる、欲する、想像する、心配する、待つ、望むなどのことであるとする
現代哲学に広まっているかもしれないが、思考とは内的状態や内的出来事であるという主張は当然なことではない
フロイトに倣って付け加えるとすれば、これらの状態や出来事は部分的に無意識である
まずそれは、我々が意志を持ち、欲し、望みむなどのことをする場合の心的状態ではない
そうではなく、それは我々が採用する態度の多様性である
ウィトゲンシュタインは「生活形式」(Lebensform)ということを言う
アリストテレスに照らして再解釈すれば、これは人間に特有の生の形態のことである
それは人間的なものとして人間を特徴付ける
そして、すべての挙動は社会的に構成された実践の中で現れ、そこでは我々の言語能力がしばしば構成的役割を演じる
一般的に、動物は移動や摂食の仕方、生活の場、社会的構成などを考慮して記述することができる
ある動物は、意図や信念や願望などを考慮して特徴付けることができる
そうでなければ、彼らがやっていることを十分には記述できないだろう
ウィトゲンシュタインはこう言った
「命令し、質問し、駄弁るなどのすべては、歩き、食べ、飲み、遊ぶのと同様に我々の自然史の一部を成している」
多様なやり方で言語を使うこと(「言語ゲーム」;Sprachspiel) は、人間の自然史に属している
それは丁度、木の中で生きることがサルの自然史に属しているように
言語ゲームは言語のみならず行動も含み、「生活形式」の中に組み込まれているのである
2020年4月21日火曜日
精神と魂と身体(10)
生活形式としての思考(1)
そもそも考えるということは何から成っているのか
我々は、本質的に考えるものである我々のことを最もよく知っているのだろうか
ベルクソンが言っているように、多くの哲学者は、我々は「われわれ自身の中に入る」能力を持っていると主張する
その能力は、我々の内的眼差しを自由に使う内的生活が何から成っているのかを検討するために使われる
これは、『デカルト的省察』で「意識の純粋な生」の研究を提唱したフッサールに見られる概念である
一般的に現象学は、後に「志向的生」と呼ばれる精神生活へのアクセスの可能性に依拠している
こころの科学の進歩のお陰で、脳内の物理的過程はどんどん記述が可能になっている
多くの認識を専門とする心理学者や神経心理学者は、思考はその対極にあると考えているように見える
ウィトゲンシュタインは、志向性の状態、心的状態に関わる思考の中身は何から成っているのかを自問する
それが物理的状態に還元されるか否かは別にして
わたしは、次の週末にパリに行くのはよいことであると考えるができる
さらに、サン・ミシェル通りのイメージをこころに浮かべることもできる
しかし、そのイメージがなくてもそう考えることができたであろう
そして、そのイメージはわたしが思い描くことのできると主張する唯一のものに見える
我々は、我々自身で内部を観察することにより、考えるとは何であるのかを知ることができない
ウィトゲンシュタインにとって、考えるとは「彼の中に多くの生の表現を集める概念」である
彼は次のような場面を描いている
ある人が建築部品と道具一式で何かを作る
その人は、これを取り、あれを捨て、集め、分解し、再び組み立て、一番しっくりくる何かを探す
すべての過程を映像に収める
その人は「うー」とか「あー」という音を発するが、話はしない
音は録音される
その映像を観て、わたしはその人の見振りと発する音に対応する内なる独り言を想像することはできる
わたしは彼に「ちぇっ、この部品は長すぎる」、「これから何をしようか」、「これだ」と言わせることはできる
その人は、その身振りをし、その音を出しながら考えたことだったと確認することはできるだろう
仕事中、彼は何も言わず、これらの言葉に対応することを思い描いたこともなかった
我々は映像が示す見振りや録音された音に何か(内的な過程)が伴っているはずだと考えがちである
おそらく、二元論者の影響であり、心理学者の問いの出し方の影響もあるのだろう
思考とは、この例のように、動きと音、より一般的には行動と言葉に伴うものだろう
そこから、同時並行での思考がないところに行動や言葉は可能なのか否かの問いが現れる
ロボットやゾンビは我々が感じることは感ぜず、我々のように行動しないのではないだろうか
(つづく)
2020年4月20日月曜日
精神と魂と身体(9)
ご無沙汰してしまったが、再び『現代哲学』に戻ってみたい(前回はこちらから)
アリストテレスの帰還
同じ前提を共有している二元論者と反二元論者は、世界最高の好敵手である
両者は共に、根本的な問題は精神(心的特性)と身体(物理的特性)の関係であると考えている
彼らは二つの特性が全くの別物であるとするか、同一性から付随性に至る関係を確立しようとする
それを完全な還元可能性なしに行ったが、その間には不完全な還元可能性を持つ異なる形がある
精神が占める位置はどんなものなのか
純粋な精神的実在なのか
単なる錯覚、あるいはこころの科学が最終的に根絶するという「通俗的な」語り方に過ぎないのか
しかし、あらゆるジャンルにおける二元論者と唯物論者に共通するこれらの前提を拒否することができる
アリストテレスにとって、精神と身体の関係は問題ではなかった
彼は二元論者でも反二元論者でもなく、「四元(素)論者」だったのである
彼は思考と知覚の性質に関連する問題を検討した
精神と物質というぶつかり合うカテゴリーの中でではなく、四つの構成要素を含む大きな枠組みの中で
四つの構成要素とは、自然の物質、生き物、知覚する動物、理性的動物である
アリストテレスとトマス・アクィナスは、存在の物差しの特定のレベルを占める動物として人間を考えていた
動物は物理的身体が特別な種類の動物である
下のレベルが常に必要条件を構成しているとしても、それぞれのレベルは質的に還元不能である
魂は生き物を生き物たらしめているもので、人間の魂はある存在を人間にしているものである
この意味で、アリストテレスとアクィナスにはこころの哲学はないが、知覚する動物と人間に特有の生の説明がある
人間の生とはどのようなものなのか
これはよい問いになるだろう
しかしそれは、デカルトが我々に教えたことのすべてに戻ることにならないだろうか
わたしは考えるものである
今日では「主体」であって理性的動物でないと言われるものである
それ故、私の思考が私の身体とどのように相互反応できるのかを知ろうとする問題が出されるのである
ロックのように、物質がどのようにして考え始めることができるようになるのかを問うこともできるだろう
しかし、デカルトが魂と身体の関係を省察し、この問題を適切に問うたことが問題にされているとしてみよう
また、哲学の主要な問題は主体や主体の批判であるとは考えられていないと仮定してみよう
その場合、アリストテレスの「四元論」の意味が見えてくるかもしれない
このようにして、20世紀後半、アリストテレスやアクィナスの伝統が再び現れたのである
アリストテレスやアクィナスを特に読んだわけではない哲学者から衝撃が来た
その哲学者はウィトゲンシュタインである
彼がこころの哲学について独自の省察を行うことによりその根源的な側面を発見したように事は進行した
より正確には、アリストテレス・アクィナスの伝統に特有の「魂」の哲学についての省察である
少なくともすべてのイギリスの哲学者たちは、ウィトゲンシュタインをそのように理解したのである
2020年4月13日月曜日
精神と魂と身体(8)
付随性(Supervenience)
ドナルド・デイヴィドソンは現代のこころの哲学に最も多くのものを齎した哲学者の一人である
彼は心身関係の問題に対する解決を提案している
すべての心的出来事は物理的出来事であるとしても、心的領域と物理的領域を結ぶ厳密な法則はない
一つの(物理的な)ものしか存在しないが、個人XとYに対してできる物理的描写と心的描写は同じではない
この還元不可能性は、心的描写のために物理法則と同じ種類の法則を示すことができないということが原因である
「非法則的一元論」(anomalous monism)と呼ばれている
我々は2種類の相互に還元できない概念(物理的なものと心的なもの)を持っている
デイヴィドソンにとって、心的特性(痛みがある、愛している)は物理的特性に付随する
彼は次のように言っている
すべての物理的側面は似ているのに心的側面が異な二つの出来事はあり得ない。このような依存性あるいは付随性は、法則や定義を介する還元可能性を意味しない。もしそれを意味するとすれば、道徳的特性を描写特性に還元できることになる。非法則的一元論は心的概念の還元不可能性を保証する
それは「心的なもののホーリズム」の枠組みの中で理解されるべきものである
一つの信念、一つの欲求、一つの意図は、他の信念、他の欲求、他の意図に依存する
また、命題的態度は論理的関係を維持することを前提とする
それは命題について適用される心的態度で、と考える、ことを知る、を主張する、を望む、を欲するなどである
それが植物であり動物でないとXが信じているとすることなしに、それが花であるとXが信じていると私は思わない
我々は他者が信念や欲求や意図を持っていると思うのは、この合理性である
従って、個人の心理描写は我々が合理性の基準を用いていることを前提としている
(XはYを愛しているので、Xは花を買った)
我々が取る態度は、合理的でホーリスティックな(ネットワークを作る)構造を持っている
これらの合理性の基準により、我々は言語的で社会的な次元に入るが、それは物理学への還元を阻害する
従って、脳とそこで起こっている精神物理学的過程を完全に知ることは、心的なものを完全に知ることではない
デイヴィドソンは、心的なものの物理的なものへの還元性をアプリオリに認めないが、二元論に陥ることはない
心理的出来事の描写は物理的描写に随伴するが、物理的なものには還元されない
我々が人間の心理的態度を描写する概念に特異的に還元できない何かがある
これらの概念は、行動の解釈に不可欠な合理性や評価の基準と結び付いているのである
2020年4月12日日曜日
精神と魂と身体(7)
反二元論(4)
ある心的状態が痛みの心的状態であるために重要なことは、その物理的性質ではなく、それが果たす役割である
ここで厳密な意味での唯物論を離れる
なぜなら、心的過程は外形上のものだが、物質的なものではないからである
例えば痛みは、物理的傷害を検出する機能である
検出する役割を担うメカニズムは、その機能より重要ではない
しかし、機能主義は行動主義ではない
行動主義は次のことを主張するものである
感覚、感情、信念、欲求、希望、願いなどについてのすべての言説は、観察できる行動に関する言説に「翻訳すること」ができる従って、「Xは痛い」、「XはYを愛する」という陳述は、Xのある状況での行動様式に応じて解析されるべきである
しかし、行動だけを記述する陳述から心的状態を記述する言葉を排除できるかのは、全く不明である
それから、心的状態が因果関係を持たないのかについて問うこともできる
「Xは彼が愛する女性に贈りたいと思ったので花を買う」
行動の記述のために「花を贈りたい」という心的状態が削除された場合、どのように原因となる機能を持つのだろうか
機能主義は現実主義である
たとえ心的状態が物理的状態と同一ではなくとも、心的状態という現実を拒否しないのである
二元論が消去主義、同一説、機能主義、行動主義によって一向に打ち負かされないとすれば、精神は生き長らえる
痛みに戻ってみよう
ある機能主義者にとって、痛みは傷害の検出の原因となる役割を担っている
感覚は、実際には現象に関わる質的な特徴を持っている
哲学者は「クオリア」と言ったりする
我々の生き生きとした生活は、クオリアの祝祭である
例えば、色、匂い、味、音、目覚めてからの多様な感覚
生き物の毛の柔らかさ、コーヒーの匂い、蜂蜜の味など
心的状態に割り当てられた機能的役割は、ある心的状態(クオリア)に在ることを感じさせる効果を説明しない
「クオリアの逆転」の可能性を想像した哲学者がいた
赤いというわたしの経験は、あなたの緑の経験と全く同じかもしれない
つまり、あなたがグリンピースを見た時、わたしがトマトを見た時と同じ経験をするというものである
二つの色の機能的役割は同じということになる
クオリアの逆転にもかかわらず、我々は熟したトマトとそうでないトマトを選り分けることができるだろう
我々の経験は異なっているように見えるのである
どうしようもなく「精神に関わる」ように見えるのは、この質的で現象的な次元である
確かに、還元不能な二つの実体が存在することを肯定する二元論から我々は遠いところにいる
しかし、物理的なもののために心的なものを排除して勝利した還元主義を擁護することはできない
還元主義はどのようにして我々の第一人称の心理的生活すなわち「クオリア」を説明するのだろうか
2020年4月10日金曜日
精神と魂と身体(6)
反二元論(3)
(2)を続けると、ポストモダンにとっては唯物論は反形而上学になるが、実は一つの形而上学である
それは次のようなことからである
1)精神は存在しない
2)心的性質、あるいは心的状態を語ることは一般的な語りで、自然世界の真面目な(=科学的な)概念を成していない
3)物理的な性質と物理的な状態しか存在しない
従って、心的性質や心的状態はすべての科学的説明から排除されなければならない
しかし、二元論と唯物論の間には他の形而上学的テーゼが存在する
それが同一説で、上の1)と2)は認めるが、3)は拒絶するという立場である
それは次のような主張である
4)心的性質と心的状態は物理的性質と物理的状態と同一である
従って、心的状態は排除されず
雲が浮遊する粒子の集合であり、温度が分子の運動エネルギーであるように、意識はニューロンの状態である
この説はいろいろな問題にぶつかる
その中には、同一性が(心的、物理的)型に関するものなのかどうかという問題がある
これは議論の余地がある
異なる物理的状態を持つ非常に異なったオーガニズムは、ある心的状態を共有できないのではないか
換言すれば、「心的状態の多重実現可能性」は存在しないのではないか、ということである
物理的出来事と心的出来事の間の同一性は、次の同一性を意味しない
それは、物理的状態の型と心的状態の型の同一性、およびある部分の物理的型と他の部の心的状態の同一性である
心理学的同一性の擁護者が答えを探す際に出会う難しさは、「機能主義」という主張を発展させた
そこでは、心的状態の型は原因を示す役割によって定義される
5)心的性質は、個人の観察できる行動を説明可能にする機能的役割によって特徴付けられる
となるのである
(つづく)
2020年4月9日木曜日
精神と魂と身体(5)
反二元論(2)
二元論に対する二つの批判は非常に異なっている
昨日示した(1)は、二元論は何かを隠していると考える
それは適切な解釈によって明らかにできる
このやり方は19世紀終わりから多くの大陸哲学者、特にポストモダン哲学者により引き継がれている
二元論は厳密に物質的ではない現実に訴える
そのため、必要があれば人間を欲求不満や社会的疎外状態に置いたままにするのに役立つ幻想の中で二元論は充足するのである
ポストモダン哲学者にとっての問いは、二元論が正しいかどうかではない
二元論を非難するのは、それが欲求と身体を抑圧するからである
この批判は多様な形を取り得る
例えば、よく練り上げられたフーコーなどの形や荒っぽいオンフレなどの形がある
結局のところ、この型の批判は二元論に対して議論するというより、物質性の名の下に二元論を悪意で解釈する
この流れにいる多くの哲学者は道を変えた
そして、ポストモダン哲学者がチャンピオンになるのである
昨日の(2)は反対に、二元論に対して真っ向から正反対の立場を取る教義を発展させる
二元論は拒絶すべきイデオロギーであり、間違ったテーゼであることを疑わない
要するに、二元論は非物質の心的現実の存在を正当化できないのである
唯物論は二元論の持つ価値の拒否や破壊を擁護し、生命の迸りや欲求に反対する試みを罵倒する反イデオロギーではない
唯物論はただ単に、生命の正しい説明は非物質の心的現実への参照なしで済ますということを意味している
(つづく)
2020年4月8日水曜日
精神と魂と身体(4)
反二元論(1)
二元論者は次のように考える
1)精神は、物質とは根本的に異なる種類の実在するものである
2)心的性質と心的状態は、非物質的なのものの性質と状態である
3)物質的身体のあるものは精神と密接に関係し、人間は物質的なものと非物質的なものが結び付いたものである
1世紀以上前から、二元論はあらゆる流れの哲学者にとって打倒すべき主張であった
例えば、固有の身体を扱う現象学者、精神分析に傾く哲学者、マルクス主義的唯物論者、認知主義哲学者、物理主義者等
二元論に対する批判的な戦略は多数あるが、主要なものは二つである
(1)二元論は、身体を疎外した形を表しているという考えから始めることができる
抑圧的な中身を隠さない道徳的、宗教的原理を理論的に包み込んだものとしてである
二元論はユダヤ・キリスト教と結び付いている
キリスト教は身体、享楽、快楽、そして生のすべての良いことの敵であると考える人がいる
しかし、多くのポストモダン哲学者は、我々は快楽を求める身体であると言う
古代の唯物論(デモクリトス)に健全な回帰をすることを説き、ニーチェの流れに結び付いていると主張する
これが反二元論の「大陸哲学」版である
(2)心的性質について語るすべてのことは、物理的性質で十分に説明することができる
二元論の主張は役に立たない
この主張は我々を神秘的な実体の存在へ、物質に還元できない精神へと導くことになる
物理学、生物学、神経心理学における科学知の進歩は、少しずつ精神の記述に戻ることを排除している
このタイプの言説は、単純な語りとしてだけ存続するだろう
意図、信念、行動理由、意思、希望、愛について普通の語り方を排除して科学的な記述に至るこのような構想
それは紀元前5世紀のデモクリトスの唯物論と同じくらい古いものである
例えば19世紀の終わり頃のように、それは周期的に戻ってくる
科学の進歩のお陰で、精神の「自然化」は遅らせることができないという大声のアナウンスと同時に
「分析哲学」版の反二元論は、哲学的だが新しい衣装を着け、英語で語られる古臭い考えではないのか
(つづく)
2020年4月7日火曜日
精神と魂と身体(3)

プロローグ:デカルト(2)
しかし精神の現代的概念は、当然のことながらデカルトの二元論に対する反応として理解できる
一方で、フッサールの現象学においてはポジティブな反応、メルロー・ポンティになると多少とも批判的反応である
他方、精神分析(ラカン)、心理学の哲学(ウィトゲンシュタイン)、こころの哲学では多様な批判的反応がある
主体の哲学の検討では、特に現代フランスの哲学者において明確な敵意ある態度が認められる
フーコーやドゥルーズやデリダたちである
デカルトの二元論は二つの世界があると考える
一つは自然科学が研究する物理的世界で、もう一つは公の観察ではアクセスできない、私的な精神世界である
二つの世界は、物理科学によって研究される因果律に還元されないやり方で相互作用する
以下がアンソニー・ケニーが言っていることである
デカルトは並外れた能力を持つ天才であった。彼の主要な考えは、郵便はがきの裏に書けるような簡潔さで表現できる。しかしそれは、非常に革命的であるので数世紀に亘る哲学の流れを変えてしまったのである。もしデカルトの主要な考えを郵便はがきの裏に書きたいとすれば、二つの文章しか必要でない。人間は考えるものである、そして物質は動いている延長である。人間は考えるものであるという最初の主張は正確だろうか
それは「こころの哲学」と呼ばれる領域において、多くの現代哲学者が探しているこの問いに対する回答である
2020年4月6日月曜日
精神と魂と身体(2)
いろいろと寄り道をしたが、久し振りに現代哲学の問題に戻ってみたい
今日は「精神と魂と身体」の2回目となる
1回目は3月25日で、こちらになる
プロローグ:デカルト(1)
デカルトの第二省察のこの一節はよく知られている
わたしは、それなしには存在し得ない身体と感覚にそれほど依存しているのであろうか。しかしわたしは、世界には何も存在しないこと、天も地も、如何なる精神も身体も存在しないことを納得した。従って、わたしが存在しないことも納得したのではなかったのか。とんではない。もしわたしが納得したとすれば、あるいはわたしが何かを考えたとする場合にだけは、わたしはきっと存在したのである。しかし、常にわたしを騙すことにすべての策を弄する、それがどんなものかは分からないが、非常に強力で、非常に抜け目のない騙し屋がいるのである。従って、もしわたしが騙されるとすれば、わたしが存在することに疑いの余地はない。彼が望むだけわたしを騙すようにさせなさい。わたしがひとかどの人物であると思う限り、彼はわたしを何ものでもないようにはできないだろう。その結果、そのことを十分に考え、すべてのものを注意深く検討した後、わたしがそのことを口にし、あるいは精神の中でそれを理解する時にはいつも、わたしは在る、わたしは存在するという命題は必然的に真であることを最後には結論し、不変であるとしなければならないのである。 (拙訳)
このように推論して、デカルトはこころの哲学を考案した
なぜなら、このように存在を確認したところのものは、一つの精神であるわたしであり、それ以外ではないからである
それ以前にはこのことを誰も言っていなかったのか
このように言った人はいなかったようだ
ただ、プラトンやアウグスティヌスのような二元論の哲学者は存在した
彼らは魂と身体を厳格に区別した
ただ、神を除いた自分以外のすべての存在を疑った結果、「自我」が自身の存在を確認できるとは考えなかった
しかし、ある哲学史家は我々に警戒するように促す
デカルトの「自我」は近現代の哲学が語る「主体」ではないと
デカルト的自我は、中世思想に見られる魂の概念を受け継ぐと同時にそれと決別したものである
この自我は、テクストの注意深い読者であれば真のデカルトをそこに認めない概念的漂流の原因であった
*****************************************
(注)デカルトの三木清訳がネット上にあったので、参考までに以下に貼り付けておきたい
いったい私は身体や感官に、これなしには存し得ないほど、結いつけられているのであろうか。しかしながら私は、世界のうちにまったく何物も、何らの天も、何らの地も、何らの精神も、何らの身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。
(つづく)
2020年3月25日水曜日
精神と魂と身体(1)
古い問題、新しい考え?
精神と身体がどのような関係を維持しているのかという問題は、実は新しいものではない
この問題は現代哲学の中心にあり、哲学は認知科学と共にその回答に重要な進展を齎してきた
認知科学は、心の哲学、心理学、言語学、生物学、神経科学の交差点にある
一つには、認知科学が知識あるいは認識の領域において、新規の、決定的な知を進展させたと見られている
他方、認知科学のお陰で重要な進歩を齎すことができたという考えは、哲学者によって語られてきた神話の特徴がある
精神と身体の関係が問いかける問題は概念的なものである
従って、この点に関しては、どんな発見も根源的な変化を齎すことはできない
これらの問題は、人間の行動についての記述とその記述において用いられる概念に関するものである
人間がすることを説明するためには、そこに意図、欲求、恐れ、期待などがあると見做すのである
理解すべきことは、我々が人間の行動を説明するために、なぜ、どのように心理学的概念を用いるのかということである
しかし、このテーマに対する回答を心の科学に期待することはできるだろうか
この問いに対する否定は、心の科学が我々に何も教えないということを意味しないのは勿論である
このテーマに関する過剰な懐疑論に対する医学の進歩を容易に引用することができるだろう
しかし考えることは、純粋に心的な、あるいは純粋に物理的な(あるいはその両方)過程を示すことでは説明されない
精神に関する「デカルト的概念」と「新アリストテレス主義的概念」には反対することになるだろう
前者は、デカルトの二元論を問題にするならば、いささかも消え去ることはない
「認知科学」となって、唯物論の影響を受けている
後者は、心理学的な記述について概念的な分析を行うもので、「心の科学」に変容させるとは主張しない
代替案は限定されているように見える
現代哲学において、本当にデカルト主義とアリストテレス主義の間にしか選択の余地はないのだろうか
他の道が実行可能だったかもしれない
その一つは、現象学(明日以降に取り上げる予定)に重点を置くものだろう
もう一つは 、ジル・ドゥルーズのように欲望についての省察を通して、心と体の関係について教えるものだろう
しかし最も興味深い代案は、私が提案する新デカルト主義と新アリストテレス主義の間で発展させるものである
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