2020年4月22日水曜日
精神と魂と身体(11)
生活形式としての思考(2)
「もの・こと」を別の方向から検討することも可能である
考えるとは、例えば、集め、組み立て、分解し、一番しっくりくる何かを探す人のように、することである
苛立ちや満足を示す音を出すことも含めて
人間のようなロボット、あるいはロボットのような人間の可能性はその意味を失う
もし「なぜその人はその動きや身振りをし、その音を出すのか」という問いに答えなければならないとしたら
それではうまくいかない、こうやるのがよい、やり方を見つけたなどと彼は考えたと言わなければならないだろう
この考え方は、人間は物質的存在であるという見方(唯物論になるが)に何ら反するものではない
なぜなら、人間に意図や願いや信念を付与することは、人間を非物質な存在であると考えることを意味しないからだ
しかしそれは、すべての心的状態が物理的状態に還元できるということではない
そうではなく、物理的なものは一つの「生き方」を持つことができることを意味している
それはそのものに特有で、人間ではない他のいかなる物理的なものもその生き方を持つことはできない
思考を、意志を持つ、信じる、欲する、想像する、心配する、待つ、望むなどのことであるとする
現代哲学に広まっているかもしれないが、思考とは内的状態や内的出来事であるという主張は当然なことではない
フロイトに倣って付け加えるとすれば、これらの状態や出来事は部分的に無意識である
まずそれは、我々が意志を持ち、欲し、望みむなどのことをする場合の心的状態ではない
そうではなく、それは我々が採用する態度の多様性である
ウィトゲンシュタインは「生活形式」(Lebensform)ということを言う
アリストテレスに照らして再解釈すれば、これは人間に特有の生の形態のことである
それは人間的なものとして人間を特徴付ける
そして、すべての挙動は社会的に構成された実践の中で現れ、そこでは我々の言語能力がしばしば構成的役割を演じる
一般的に、動物は移動や摂食の仕方、生活の場、社会的構成などを考慮して記述することができる
ある動物は、意図や信念や願望などを考慮して特徴付けることができる
そうでなければ、彼らがやっていることを十分には記述できないだろう
ウィトゲンシュタインはこう言った
「命令し、質問し、駄弁るなどのすべては、歩き、食べ、飲み、遊ぶのと同様に我々の自然史の一部を成している」
多様なやり方で言語を使うこと(「言語ゲーム」;Sprachspiel) は、人間の自然史に属している
それは丁度、木の中で生きることがサルの自然史に属しているように
言語ゲームは言語のみならず行動も含み、「生活形式」の中に組み込まれているのである
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