2020年4月4日土曜日

江成常夫という写真家




テレビをひねると「こころの時代」という番組が流れていて、江成常夫という写真家が出ていた
初めて知るこの方の語る言葉がよく入ってきて、驚く

対象をしっかり見続けてきたからだろうか
真実を逸らすような誤魔化しの言葉を使わない
言葉とそれが指し示すものとの間にズレがないのである

そのことに気付くほど、他の番組の言葉が記号となっている酷さがあるからだろう
江成氏は、指し示すものを見えなくするような言葉を権力は使うと指摘
国の欺瞞性は先の大戦から現在まで続いていると静かに告発していた
氏のお仕事は結局のところ、正確に「もの・こと」を捉えるということだったのかもしれない

それから、これまでであれば聞き流すような「こころの渇き」という言葉に反応した
新聞社のカメラマンとして仕事をしている時に感じた不全感を表現したものである
それは、わたしが科学者時代に覚えた不全感とも重なるのではないかと思ったからだろう


このような番組が増えると、考える人間も増えるかもしれない
考えるとは、対象を正確に見て明晰な言葉を紡ぐことだからである
先日の穐吉敏子さんとの遭遇もそうだったが、日本で偶に起こる幸運な偶然であった


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mercredi 8 avril 2020


上の記事にある「こころの渇き」という言葉について、今朝、あることに気付いた

それは新しい拙エッセイで取り上げた吉満義彦の言葉と重なるということである

その言葉とは「魂の空虚」

これを感じなければ「近代の超克」は始まらないという文脈で出てきた言葉であった

「こころの渇き」、「魂の空虚」を感じるところから、生き方が変わるのである

この世界の捉え方に変容が起こり、スピノザの言う「知性改善」が始まるのである

「それがいま求められている」

という、より公的な感覚もこの言葉に反応した理由だったのかもしれない









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