2020年4月21日火曜日

精神と魂と身体(10)




生活形式としての思考(1)

そもそも考えるということは何から成っているのか
我々は、本質的に考えるものである我々のことを最もよく知っているのだろうか
ベルクソンが言っているように、多くの哲学者は、我々は「われわれ自身の中に入る」能力を持っていると主張する
その能力は、我々の内的眼差しを自由に使う内的生活が何から成っているのかを検討するために使われる

これは、『デカルト的省察』で「意識の純粋な生」の研究を提唱したフッサールに見られる概念である
一般的に現象学は、後に「志向的生」と呼ばれる精神生活へのアクセスの可能性に依拠している
こころの科学の進歩のお陰で、脳内の物理的過程はどんどん記述が可能になっている
多くの認識を専門とする心理学者や神経心理学者は、思考はその対極にあると考えているように見える
ウィトゲンシュタインは、志向性の状態、心的状態に関わる思考の中身は何から成っているのかを自問する
それが物理的状態に還元されるか否かは別にして

わたしは、次の週末にパリに行くのはよいことであると考えるができる
さらに、サン・ミシェル通りのイメージをこころに浮かべることもできる
しかし、そのイメージがなくてもそう考えることができたであろう
そして、そのイメージはわたしが思い描くことのできると主張する唯一のものに見える
我々は、我々自身で内部を観察することにより、考えるとは何であるのかを知ることができない

ウィトゲンシュタインにとって、考えるとは「彼の中に多くの生の表現を集める概念」である
彼は次のような場面を描いている
ある人が建築部品と道具一式で何かを作る
その人は、これを取り、あれを捨て、集め、分解し、再び組み立て、一番しっくりくる何かを探す

すべての過程を映像に収める
その人は「うー」とか「あー」という音を発するが、話はしない
音は録音される
その映像を観て、わたしはその人の見振りと発する音に対応する内なる独り言を想像することはできる

わたしは彼に「ちぇっ、この部品は長すぎる」、「これから何をしようか」、「これだ」と言わせることはできる
その人は、その身振りをし、その音を出しながら考えたことだったと確認することはできるだろう
仕事中、彼は何も言わず、これらの言葉に対応することを思い描いたこともなかった
我々は映像が示す見振りや録音された音に何か(内的な過程)が伴っているはずだと考えがちである
おそらく、二元論者の影響であり、心理学者の問いの出し方の影響もあるのだろう

思考とは、この例のように、動きと音、より一般的には行動と言葉に伴うものだろう
そこから、同時並行での思考がないところに行動や言葉は可能なのか否かの問いが現れる
ロボットやゾンビは我々が感じることは感ぜず、我々のように行動しないのではないだろうか


(つづく)















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