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2023年1月4日水曜日

コリングウッドによる自然(75): 現代の自然観(17)新しい物質論(6)



















このように、現代の物質論は3つの二元論をすべて解決した

すなわち、衝撃と引力の二元論、エーテルと粗大物質の二元論、そして物理的量と化学的質の二元論である

しかしわたしは、ニュートン物理学を悩ましてきた物質と運動の二元論、物体から物体への運動の移動、物質と空間の二元論という問題についても触れた

これらの問題を解決することも現代物理学に課せられており、我々も現代の物質概念が問題解決できるかどうかを問わなければならない


物質と運動の二元論は消える

この二元論は、物質をある瞬間においてその完全な内在的特徴を持つものとし、運動は事故のようなものとして捉えることによっている

ここから、物質には動かなければならなかったり静止しなければならない本来的理由がないことになる

どの瞬間においても自らの完全な性質を実現しているので、他の瞬間に存在する理由がないのである

これが、デカルト(1596-1650)が神は瞬間瞬間に新しく世界を創造しなければならないと言った理由である

しかし現代の物理理論は、物理的であろうと化学的であろうと、物質をそれ自体の特徴――動くものである――を持つものとして見ている

従って、時間がその存在にとって一つの因子になり、存在するということは根本的に運動になる


個体から個体への運動の移動も消失する

全ての個体はいつも動いている

この運動は活動なので、内在的活動とか超越的活動という形は自ずと消えなければならない

従って、全ての物体はそれ自身を動かすものとして自らに働きかけると同時に、他の物体にはそれを動かすものとして作用しなければならない






2023年1月3日火曜日

コリングウッドによる自然(74): 現代の自然観(16)新しい物質論(5)





























 James Jeans (1877-1946)




年は明けたが、昨年からのつづきになるコリングウッド(1889-1943)を読むことから始めたい



もし、電子や光子がある時は粒子のように、またある時は波動のように振る舞うとすれば、状況は深刻だろう

しかし、このような行動の違いを支配している法則がある

イギリスの物理学者ジェームズ・ジーンズから引用したい

電子や光子は、空間の中で自由に行動しているときには粒子として振舞い、物質に出会うと波動として振る舞う

さらに、こう言っている 

このようなすべての場合に、どのようにして粒子や波動としての図が同じ現実の二つの側面であるのかを示す完全な数学的理論がある。光は時に粒子として時に波動として振る舞うが、一度に粒子と波動であることはない。それは電子と光子についても同じである。

ジーンズが言っている数学理論とはハイゼンベルク(1901-1976)の波動力学のことだが、わたしの理解を完全に超えている

ただ、その形而上学だけには関心がある

その視点から見れば、この理論は理解不能とは程遠いのである


精神と生命だけではなく物質も内在的、本質的に活動だとする現代の見方を真剣に受け取ることにしよう

また、物質世界を構成する活動とは空間に分布し、時間の中で展開するとする見方についても真剣に受け止めることにしよう

そうすると、我々が物質の粒子と呼ぶものは、活動の中心ということになり、それは同様の他の中心と空間的に関係している

その活動は必然的に、2つの特徴を持っている

第一はそれ自身との関係において、そして第二には他の所謂粒子との関係において

それ自身との関係について言えば、自己発展的で自己を維持する過程である

それは、自己充足的で永続的な何か、実体についての古い形而上学的概念を適応できる何かである

この自己を維持する活動においては、現代物理学の電子をライプニッツ(1646-1716)のモナド(単子)になぞらえることができるかもしれない

他の電子との関係においては、外から他の電子に加えられる活動であり、環境における乱れに過ぎなくなる

電子とはそれがするところのものであり、その実体は活動に過ぎないことを思い出せば、電子の実体が2つの性質を持つに違いないことを理解できるだろう










2022年12月29日木曜日

コリングウッドによる自然(73): 現代の自然観(15)新しい物質論(4)


















Albert Michelson (1852-1931)



この後、大きな物質とエーテルの二元論を再考する必要が殆どなくなった

なぜなら、各瞬間において同一な物体から構成され、内在的な延長と質量を持つ物質が消えたからである

エーテルも、マイケルソン=モーリーの実験により消えることになった

この実験は、光が静止した媒体の中を伝達する乱れではないことを最終的に証明したのである

しかし、古い二元論の奇妙な遺物は、現代物理学の中に未だに生きている

光線だけではなくすべての電子は不思議にも、曖昧に行動することを現代の物理学者が証明した

時には粒子のように、時には波動のように動くのである

次に問われるのは、本当はどちらなのかということである

両方であるということは殆どあり得ない

なぜなら、もし電子が粒子ならば波動のようには振舞えないし、波動であれば時に粒子として振舞えないからである

そこで、ある物理学者は自らの心の状態をこう表現した

月水金には粒子説を信じ、火木土には波動説を信じている、と

粒子説は古典的な物理学の大きな物質という考えの幻影であり、波動説はエーテルという考えの幻影であることが明確になる

考えが死んだ時、幻影は歩き出すが、永遠にではない

現代の物質論では、電子は粒子ではあり得ない

なぜなら、粒子とはそれが成すこととは関係なく在る物質のことだからである

また、電子は波動でもない

波動というのは弾力性ある媒体における乱れのことで、その媒体は乱されていることとは関係なく、延長と弾力性を持つものだからである






2022年12月28日水曜日

コリングウッドによる自然(72): 現代の自然観(14)新しい物質論(3)



























ここでもまた、物質の根本的な概念が大きく変化していることが明らかになる

古い考えでは、1個の物質はそれがそれであるものである

そのため、永遠に変わらない性質を持っているので、様々な機会に様々に振る舞う

1つの物体が衝撃あるいは引きつける際に力を及ぼすのは、それ自身の中にある質量を持っているためである

しかし今では、物体に属するエネルギーがその振舞を説明するだけではなく、各物体の質量や延長をも説明する

1立方インチの鉄がその大きさであるのは、鉄を構成する原子の引力と斥力の平衡によるが、鉄の原子はそれを構成する電子の引力と斥力のリズミカルなパターンによっている

従って、化学的特性だけではなく、物理的、量的性質さえも活動の関数として考えられているのである

ここで再び、化学だけではなく、物理学の基礎的な領域においても、物質と精神・生命との新しい類似性が現れた

物質は、存在が運動と独立し、運動に先立つ領域にあるものとして精神や生命と対比されるものではないのである

このような意味を科学的にトレーニングされた哲学者によって明確に認識されていたことを示すために、初期の数学者、物理学者としてのキャリアが哲学者として仕事で見事に継続されているホワイトヘッド(1861-1947)の『自然と生命』の一節を引用してみよう

古い見方は変化を取り出して、ある瞬間の自然の全実在を考えることを可能にする。ニュートン(1642-1727)の見方によれば、そこで省かれたものは近接する瞬間における空間内での物質の分布の変化であった。しかしそのような変化は、ある瞬間における宇宙の本質的実在とは無関係なものとされたのである。移動は偶然であり、本質的ではなかった。同様に本質的なのは、持久であった。・・・現代的な見方では、過程や活動や変化は事実の本質なのである。ある瞬間には何も存在しない。各瞬間は事実を集める方法に過ぎない。従って、単純な根本的範疇とされる瞬間はないので、ある瞬間には自然は存在しないことになる。










2022年12月26日月曜日

コリングウッドによる自然(71): 現代の自然観(13)新しい物質論(2)


























原子価の電子論において、ベルクソン(1859-1941)がまだ本当だと想定している古い物質論が、物質とは本質的に過程であり、生命のようなものだとする新しい理論に道を譲っているのが見える

しかしこの新しい理論は、生気論物活論、あるいは有機体における生命に関わる過程と原子における物理的過程を混同することには譲歩しない

非常に重要な2つの過程の類似性が発見された時、両者の違いが忘れられることはなかった

新しい物質論の刺激を受け、ホワイトヘッド(1861-1947)のような哲学者が現実の全体は有機体であると宣言し、サミュエル・アレクサンダー(1859-1938)のような哲学者が時間を精神として記述し、その空間は身体であるとする時、自然を生きたものとして捉える古代ギリシアの古い見方に先祖返りするとして彼らを非難するのは誤解になるだろう

彼らは、ベルクソンがやりたかったであろう生物学に物理学を混ぜ合わせたのではなく、近代史で初めて物質界と生命界の際限のない違いではなく、根源的な類似性を明らかにした物理学の新しい見方を歓迎しているのである


ここで、衝撃と引力の間の二元論について考え、最近の物理学がどのようにこの問題を扱っているのかを問うてみよう

ニュートン(1642-1727)にとっての唯一の希望は、真の引力の否定と引力を衝撃に還元することであった

しかし、最近の物理学の新規性は、その反対の方向に向かい、衝撃を真の原因とすることを否定し、引力と反発力の特別なケースに還元するという事実によって印象的に示された

新しい物質論によれば、物質のいかなる粒子も他の粒子と接触しない

あらゆる粒子は、磁場とのアナロジーで考えられた力の場に囲まれている

1つの物体が他の物体を跳ね返す時、それは物体同士の衝撃によるのではなく、磁石の針が反発し合うように、両者の反発によるのである










2022年12月25日日曜日

コリングウッドによる自然(70): 現代の自然観(12)新しい物質論(1)



















現代物理学は、困難なことはあるにせよ、これらの問題を除くために少なくとも何かはやってきた

最後の問題を最初に持ってくるとすれば、化学と物理学との論争は電子理論によって落ち着いた

この理論によれば、原子は究極の粒子ではなく電子の集合なので、一揃えの化学的特徴を持つ原子は、一つの電子をそこから蹴り出すことにより、別の特徴を持つ原子になる

従って我々は、一つの物理的単位である電子に戻る

また、原子の単なる量的側面(原子の重さ)に依存するのではなく、原子を構成する電子のパターンに依存する化学的性質という新しい概念を手に入れるのである

このパターンは静的ではなく動的で、常に一定の律動で変化している

これは丁度、音響学においてピタゴラス学派が発見したリズミカルなパターンのようである

量と質を結ぶものとしてのリズミカルなパターンというこの考えは、現代の自然理論において重要である

それは単にそれまで別々にあった概念を結び付けるだけではなく、さらに重要なのは、時間の概念の新しい意義を明らかにしたからである

もし水素原子が水素の特徴を持つのは、一定数の電子を持ち一定の配列をしているからではなくなく、一定のリズミで運動しているからだとすれば、ある瞬間において原子はその特徴を全く持っていないことになる

リズミカルな運動ができるようになる時間の広がりの中でだけ、原子はその特徴を持つのである

もちろん、ある瞬間には存在せず、時間の広がりの中でだけ存在するものがあることは知られていた

運動が最も明白な例である

一瞬を取れば、動いている身体と静止している身体に違いはない

生命も同様である

生きている物体と死んでいる物体を分けるものは、生きている動物ではリズミカルな過程と変化が進行していることである

従って、生命は運動と同様、瞬間には存在せず、時間が掛かるものだということになる

アリストテレス(384 BC-322 BC)は、同じことが道徳的性質についても言えることを示した

例えば幸福だが、一生の間その人に属している場合にかぎりその人のものなので、心的状態を一瞬だけ見ても彼が幸福かどうかは分からない

それは丁度、写真を見てもその動物が生きているのか死んでいるのか分からないのと同じである

現代物理学の出現以前には、運動とは物体に起こる事故のようなもので、それによって物体の性質は変わらないと理解されていた

原子を運動する電子パターンとして捉えるこの新しい理論は、この理解を完全に変えてしまった

それだけではなく、時間が関与するという意味で、物質の化学的性質を精神の道徳的質あるいは有機体の生命に関する性質と類似のものとしたのである

それ以降、倫理学において人間が在ることと人間がすることを分けられず、生物学において有機体が存在することと有機体がすることを分けられないのと同様、物理学においても物質があることと物質がすることを分離できなくなったのである

これを分離することは、古典物理学の礎石であった

それは、運動を外から物体に加えられたものと捉え、物質界の写真がその全性質を明かにすると信じる世界であった







2022年12月23日金曜日

コリングウッドによる自然(69): 現代の自然観(11)現代物理学(4)

































第3の問題が化学の側から現れた

ジョン・ドルトン(1766-1844)は、質的に異なる行動をする多くの種類の物質を同定した

それらは元素(element)と呼ばれ、それぞれが独自の物理的特徴を持つ原子(atom)の種類から構成される

しかし原子とは、量的な性質以外持ち合わせていないものであった

実験の結果、一つの元素の原子は他の元素の原子と質量が異なることが明らかになった

従って、物質の究極の粒子は質量が均一なのではなく、原子量が多様なものとして見なければならなくなったのである

さて、物理的量と化学的質の間の溝を埋める難しさ――すなわち、なぜ1つの原子量を持つ物体が特定の化学的反応をするのに、少し原子量の異なる物体は別の反応をするのかを示すことの困難――は別にして、物質の粒子論は、物理学者から見れば、全ての原子は同じ質量を持つという前提を必要とした

なぜなら、物質の根本的粒子である原子を物質の単位として見做していたからである

わたしが二世代前の科学文献に大きな位置を占めていたこれらの論争を参照するのは、物理学における現代の発見や理論が齎す状況が非常に奇妙なため、単純で理解可能な理論を人びとが信じていた古典物理学と呼ばれる古き良き時代を羨む溜息を洩らしたくなるからである

このような単純な理論は一般向けの手引書にしか存在しないことは覚えておく価値があるだろう










2022年12月22日木曜日

コリングウッドによる自然(68): 現代の自然観(10)現代物理学(3)

























ニュートン(1642-1727)は、重力とはある特殊な種類の衝撃の特殊な効果か――彼自身はこれが運動の唯一の物理的原因であると常に見ていたのだが――あるいは非物質的原因の効果のどちらかに違いないと信じていた

19世紀中頃に入り、著名な物理学者がニュートンの反論を幾度となく繰り返したが、誰一人としてそれに答えなかった

運動の相容れない二つの原因、衝撃と重力はどのような関係にあるのか、という問いに対して満足のいく解決には至らなかったのである

複雑な状況はここで終わらなかった

ニュートンは彼の粒子が動く空間を空虚なものとして考えたが、後に物理学者はそこに光の波動を説明するために必要となるエーテルが満たされていると考えざるを得なくなった

エーテルは、粒子に分割されない均一で均質な物質で、粒子の運動による波動のような乱れを伝達するのがその機能であった

従って、全ての運動はエーテルの中で行われるものだが、エーテルはいかなる抵抗ともならない

物質とエーテルという2つの概念に折り合いをつけるのが難しいことは物理学者には自明であったが、その困難を乗り越えるためのあらゆる試みが行われた

一方では、粒子の構造をエーテルに帰すること、すなわち、エーテルを非常に希薄な気体としたり、光を動く粒子の流れとしたりすることだが、いずれも実験事実の前で破綻した

他方、物質をエーテルの中の局所の乱れや核形成から構成されるとする試みもあったが、そもそもエーテルは均質で一定なものとされていたのである









2022年12月20日火曜日

コリングウッドによる自然(67): 現代の自然観(9)現代物理学(2)

























(2)古い物質理論の複雑な事情と矛盾

しかしながらニュートン(1642-1727)の時代から、この単純な図式は新しい要素が加わることにより分かり難いものになった

ニュートンは次のように主張した

物質のあらゆる粒子は、恰も他のすべての粒子に対して、その質量に比例し、距離の二乗に反比例する強さで作用する引力を持っているかのように作用する

ここで引力が運動の第二の原因として現れ、衝撃と一緒に存在するものとして捉えられたのである

このような粗雑な二元論の形は、哲学においても科学でも受け入れ難いものである

真摯な物理学者であれば、ある運動は衝撃により、別の運動は引力という別の力によるなどと示唆することは、両者がどのような関係にあるのかを問うことなしには決してないだろう

ニュートン自身はこの困難を強く感じていたので、物質に内在的に属する引力という原理を一度ならず明確に否定したのである

彼はリチャード・ベントリー(1662-1742)にこう書いている(1692 2.25)
引力が物質にとって生得であり、内在的で本質的であるべきなので、一つの物体がもう一つの離れたところにある物体に何の仲介もなしに作用するということは、わたしには全くの不可解なことなので、哲学的問題において思考力のある人であればそんな考えに陥るとは到底信じられないのである







2022年12月19日月曜日

コリングウッドによる自然(66): 現代の自然観(8)現代物理学(1)

























そこで我々は、1世紀前に生物学がそうであったように、物理学に導かれる

物理学の主要な概念は過去50年で大きく変わったが、それを記述することは進化生物学の場合よりもずっと難しい

従って、わたしが重大な間違いを犯すかもしれない

しかし、わたしが何かを言うという責任を回避することはできない

なぜなら、物理学の新しい概念が自然の哲学的見方と精神との関係にとって最も重要な含意があるように見えるからである


(1)古い物質理論

まず、このような変化が起こる前に自然界はどのように捉えられていたのかを述べなければならない

それは、空間を動いている粒子に分割されるものと捉えられていた

物理学が考える粒子は、原子的すなわち分割不能で破壊不能なものだが、それは幾何学的に分割不能なのではなく、ある大きさと形を持っていた

しかし、幾何学の残渣がなければ定義できなかった

なぜなら、それが物理学的性質、特に重要なのが不可侵性だったからである

この不可侵性のため、それぞれの粒子は同じ空間を占めることができなかったのである

粒子はどの方向にも動くことができるので、2つの粒子が衝突して方向を変えることもあり得る

それぞれの粒子は慣性を持っているので、一定の速度で直線状を動くか、止まっているかである

これが、古代ギリシアの原子論者から17世紀に受け継がれ、その後2世紀に亘り物理的世界の基本的な真理として科学者に受容されていた物質の原子論である

ここまでは十分に理解可能なように見えるが、少し詳しく検討すると重大な困難に出会う

例えば、物体とそれが占める空間との関係は? あるいは、一つの物体からもう一つの物体への衝撃によって、どのように運動が伝えられるのか? あるいはまた、なぜ物体は止まっているのではなく動かなければならないのか? などなど

しかし、これらの問題を無視することにより、想像可能な物質界の図が我々に与えられる