Marcel Conche (1922.3.27-2022.2.27)
singulière, claire, profonde, originale, modeste mais tenace,,,,
Marcel Conche (1922.3.27-2022.2.27)
singulière, claire, profonde, originale, modeste mais tenace,,,,
コンシュさんの「哲学的自然主義」も今日が最後になった
早速始めたい
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極小のレベルでは、物質の概念はもはや意味を持たない。
原子システムの大きさの次元における基本的な過程は、特定の条件が満たされれば、その活動が生命の活力に導くであろう主軸となる中心の形成を、あちこちに準備する。
我々が他の惑星――それが我々太陽系のものであれ、他のものであれ――に生命を見出すのを待ち望むのは尤もなことである。
また、我々に似た生物から発せられるメッセージが無限の深みからやって来ることもあり得ると考えるのも尤もである。
ビュルマンの問いかけに、デカルトは次のように答えている(ジャン・マリー・ベイサードの訳による)。
「我々は、神が地球の外から、あるいは星などで力を行使しなかったかどうかについて何を知っているだろうか。神が特徴的に異なる他の創造物、他の生命、言ってみれば人間、あるいは少なくとも人間に類似した存在を定着させなかったかどうか、我々は何を知っているだろうか。・・・そして、神が無数の生物種を生み出さなかったかどうか、我々は何を知っているだろうか」
わたしはデカルトが神について言っていることを自然について言うに止める。
しかし、「おそらく」と付け加えてデカルトに同意したいのである。
(了)
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長きに亘ってコンシュさんを読んできたが、ここで一段落としたい
これまでの読みで、彼の形而上学の考え方の骨格が見えてきたように思う
それはわたしのものとも重なるところがあるので、今後さらに検討していきたい
まずは、これまでに読んできたものを纏めながら捉え直す必要があるだろう
陰影が微妙なので、放っておくと闇の彼方に消え入りそうなので・・・
従って問題は、そこで自由が可能になるように自然を理解することである。
それはまさしくエピクロスの問題であり、原子の中に自由を位置付けることにより、彼はこの問題を解決したのである。
リュキアのオエノアンダのディオゲネス(2世紀のエピクロス主義者)は言っている。
「君は、デモクリトスは発見しなかったが、エピクロスが明らかにした原子の偏りから成る自由な運動を原子もしていることを知らないのか」(fr. 32 Chilton)
しかし、自身の唯物論によって、エピクロスは原子の自由を真に想定するのを妨げられ、キケロ、それからモンテーニュはエピクロスのクリナメン(原子の偏り)を揶揄わずにはいられなかった。
しかし、すでに見たように、自然を物質に還元すべきではない。
この物質とは、マクロのレベルで常識に訴える自然に過ぎない。
もし、微細なレベル、無限に小さい物理的なレベルにある、プランク定数が支配する自然の深みにまで下っていくと、人間のレベルであったもの――物質、ラプラスの決定論、時空の枠組み、局所実在主義――はなくなるのである。
我々の宇宙は――天体物理学者が言うところの観察され得る宇宙なのだが――、現実の全体なのだろうか。
物理学者はこの問いを考えない。
なぜなら、彼らの内のある者は信者で、彼らによれば宇宙の外には神がいるからである。
それでは自然だって同じではないだろうか。
宇宙は150億年の歴史があると言われる。
無限の中での150億年とはどういうものなのか、と思わず言いたくなる。
パスカルに助けを求めてみよう。
彼は「有限は無限の前では無に帰し、純粋な無になる」(fr. 233 Br.)と言っている。
従って、これらの言葉に変更すべきものはない。
「人間は自らを自然の遠くにあるこの小さな区画に迷い込んだものとして見ること、そして宇宙という人間が住んでいるこの小さな牢獄から、地球、王国、町、そして自分自身の正当な値を見積もることを学ぶのである。無限における人間とは何なのか」(fr. 72 Br.)
この無限は自然である。
「無限」という言葉が、パスカルが最初に書いた「自然」という言葉に取って代わったのである。
自然の無限の宏大さの中における人間そして人間の「小さな牢獄」である宇宙とは何なのだろうか。
わたしは自然をタペストリーになぞらえた。
自然は「出口なし」なので、迷宮にも譬えることができるだろう。
これはエウリピデスが apeiros という言葉で表現したものである。
「無限」――「終わり」なし、つまり出口なしである。
我々は自然から出ることはない。
我々はそこで果てしなく、出口を見つけることなく歩くのである。
それは不可解な藪である。
従って、科学知を使って自然の秘密に入り込む仕事は、終わりなき仕事なのである。
我々が物理学の本で読む自然現象の法則は、単純である。
なぜなら、現象を複雑にしているものを無視するからである。
もし、単純さが現実のもので深いならば、測定法の精度の向上はこの単純さと互換性があるだろう。
しかし、「おそらく」そのようにはいかないとポアンカレは言う。
「もし我々の研究方法が益々深く入り込むとすれば、複雑なものの下に単純なものを発見するだろう。
それから単純なものの下に複雑なものが、そして複雑なものの下に新しい単純なものが、という具合に進み、どれが最後のものなのかを知ることはないだろう。」
ポアンカレは「最後のもの」があることを明らかに疑っている。
数学者のゲオルク・カントールは、「多数性」(Vielheiten)と「集合」(Mengen)という2種類の集合を区別した。
後者は前者と異なり、一つのものとして考えることができる。
自然は集合-多数性であり、唯一のものではあるが一つではない。
タペストリーは唯一のものではあり得るが、模様が必ずしも相互に関連を持たない場合には一つのものではないように。
自然は大きさにおいて無限なのだろうか。
エピクロス主義者が望んだように、分子や原子というような自然の構成要素の数は無限である。
つまり、我々が数えた原子の数がどれだけ大きくても、常にそれ以上のものが存在する。
しかし、自然は大きさにおいて無限ではない。
その意味は、前に与えられた大きさよりさらに大きいものだからである。
この特徴は数や種類に属することだが、自然はむしろ大きさを超えたところにある。
同様に、老子の『道徳経』において、「道」は老子によって「大きい」と命名されている。
それは絶対的な言葉で、道――Nature naturante のようにすべてを生み出す創造者、神のようなもの――はすべてを包み込むもので、すべてがそれ自身によりその中で生まれ、その中で一時的に留まるものを持っている。