2022年1月19日水曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(47)

























それでは我々は何を持っているのだろうか。

わたしは創造性だと言おう。

なぜなら、創造性とは、それなしには自然が存在しないものだからである。

古典的な形での因果性の原理は創造性を排除する。

なぜなら、結果の中には原因より多くのものはあり得ないからだ。

ライプニッツは「十分な原因と結果全体との」等価性の原理を作った。

つまり、「結果は原因を超えないはずだ」ということである。

しかし、原因と結果の間に同一性があるとすれば、何も起こらないのと同然である。

最早、出来事も自然もないことになる。

何も新しいものがないので、我々は全体を理解できるが、自然は消え失せる。

これが因果律の結果である。

このように因果律は古典的な科学を支配していたのである。

エミール・メイヤーソンは「自然を理解できると仮定することにより、自然を完全に破壊することになった」と言っている。

しかし、自然は存在している。

これは、原因とは異なる結果があることを意味している。

原因では説明できない結果を生み出す原因の存在である。

エミール・ブートルーはこのことをよく見ていた。

「原因あるいは近接の条件が、結果を説明するために必要となるすべてを含んでいることをどのように理解するのだろうか。原因には、結果と原因を識別するところのもの、因果性の関係に不可欠な条件である『新しい要素』の出現が含まれることは決してないだろう。」

しかし、この新規性こそ自然に内在する特徴なのである。

なぜなら、自然は絶えず入れ替わっているからだ。

これはホワイトヘッドが言うところの「創造的前進」であり、ベルクソンもよく理解していたことである。









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