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2016年11月20日日曜日

疾風怒濤の静かな一ヶ月が終わる



今回も外から見ると疾風怒濤の一ヶ月であった。しかし、内的には実に静かなものであった。これまでにも触れていると思うが、行く手にいろいろなものが控えても全く動揺しなくなっている。それは、控えているものに向かって行き、それを乗り越えるという意識がなくなっているからだろう。

それではどのような意識の中にいるのか。まず、前に進むという意識がなくなっている。あくまでも一か所に留まり、何かをやっているうちに周りが通り過ぎていくという感覚の中にいる。そのため、肉体的には疲れがあるのかもしれないが、精神にその影響は表れない。そして、精神への影響が軽微であることが、逆に身体にも良い影響を与えている可能性さえある。このような変化は何年か前から感じるようになったものだが、特にテーズの後、明確に意識できるようになったのではないだろうか。驚くべきことである。

今回の日本滞在でも実にいろいろなことが意識に浮かび上がってきた。多くの触れ合いがどこかを刺激していたのだろう。これからそれらを振り返ることにより、さらに新たな発見が生まれるかもしれない。そのためには原体験を生の形で保存しておかなければならない。原体験には無限の可能性が秘められているからであり、最初から意味を与え、加工して蓄えておくと、後で利用できる幅が狭まってしまうからでもある。生きるということは、如何に原体験を増やし、その原体験をどのように味わうのかという問題である。その原体験がその人間に固有なものであるとするならば、それこそその生を十全に生かすことでなくて何であろうか。


今日、フランスに戻る。





2016年11月19日土曜日

パリを思わせるカフェでのデジュネ



昨日はパスツール財団の代表理事をされている渡辺様とのデジュネがあった
まさに、東京にいてもパリを思わせるブラスリーとでも言いたくなるところであった
渡辺様とのお付き合いの始まりは、もう10年前に遡る

P協会のW氏のこと - 科学哲学 EPISTEMOLOGIE (2006.11.21)

それ以来、折に触れて教えを乞うている
最近では帰国の度にお会いしてフランスをはじめとした様々な話題に花を咲かせている
10時間に及ぶ大手術をされたばかりとのことだが、そうとは思えない回復ぶりで安心した

お話の中で、パスツール研のビジビリティを如何に高めるのかを課題にされていることが分かった
そのためにやるべきことは何なのか
日本人にとって遠くの存在であるパスツールとフランスの科学を日常に引き入れること
その一つとして、フランスの科学者を交えた医学や科学についての一般向けの会を頻繁に開くこと
そこで、あまりフランスを前面に出さない方が良いという考えも出されていた
良い会だなー、と思ってその背景を調べると、フランスが絡んでいたことが分かるという流れである

わたしがやっているサイファイ研究所ISHEのミッションの一つに、日仏の交流促進を掲げている
現段階では、フランスの科学書を日本に紹介するということだけである
ただ、パスツール財団が構想されていることとも重なるところがあることが今回分かった 
将来のことになるが、財団が構想されているような会に関与するということを考えてもよいだろう
その余裕があればの話ではあるのだが、、

いずれにせよ、未来に向けての活動が中心のお話の連続であった
この辺りが生命力の元になるものかもしれない
渡辺様には益々お元気でご活躍いただきたいものである





サイファイ・カフェ SHEの2日目、終わる



今回の日本滞在の最後の仕事となるサイファイ・カフェSHEの2日目が無事に終わった
新しい方が2名参加され、新しい視点が持ち込まれたように感じた
大きな枠組みが決まった中での議論も良いが、これまでと違った風が吹くのも新鮮である
これからもこのような新陳代謝が進むことを願っている

今回の切り口は個人的な発見からスタートしたため、思想史的な側面が強調されていた
そのため、植物の生理的機能から見た本質という要素は少ない発表になったと思う
その点を求めていた方には物足りないものになったかもしれない
ただ、ディスカッションがその点を補って余りあるものになったのではないだろうか

昨日久し振りの参加が叶わなかった方が今日の懇親会に参加されていた
このようなことが起こることも面白い流れであった
どこか自在さが出てきたように感じる

次回の予定はまだ決まっていないが、来年も春・夏と秋の二回は開催したいと考えている
ひょっとすると、来年新しい活動が増えることにならないとも限らない
心身の充実が求められる年になりそうな予感がしている

今回、PAWLとSHEに参加された皆様に改めて感謝したい





2016年11月17日木曜日

第10回サイファイ・カフェSHEの初日、終わる



今日、第10回目になるサイファイ・カフェSHEを開いた
欠席が3名で、直前申し込みが1名という動きがあった
新しく参加された方は2名で、25%という割合になった
適度に新陳代謝が起こっているということだろうか

今日のテーマは「植物という存在を考える」といういつもとは少し毛色の違う内容となった
わたしが10年以上前に感じたことを考えてみたいという魂胆であった
その時、植物を初めて発見したのであった
なぜ長い間その存在に気付かなかったのだろうか?
それはわたしだけの問題だったのか、それとも人間に巣食うものの見方の歪みだったのか
そのことを歴史的に振り返ってみるというのが最初のプロジェであった

今日は久し振りに九州から参加された方もおられ、いろいろな方面に広がる白熱した議論が進行
かなり面白い話が出ていたのではないだろうか
明日はどのような展開になるのか
構成が変わると議論も想像できない方向に進んでいく
この会の醍醐味である

明日も興味を持って臨みたい




2016年11月16日水曜日

デジュネはフレンチ



今日は何十年来の友人にデジュネのお誘いを受けた
わたしが所属することになった大学から名誉博士号を授けられたというオーナーのお店である
イタリア在住の友人によると、具体的なことは分らないのだが、親日的な大学とのこと

ウィークデーということもあるのか、周りは殆ど女性客
おいしいパンを際限なく頬張りながら、年とともに傷んでくる体の話が多かったのではないだろうか
ただ、最近はイタリア語に凝っているということで充実した日常を送られていると拝察した

オーナーにご挨拶とも思ったが、丁度外出されたとのことで叶わなかった
いずれの時が訪れることはあるだろうか
東京の一等地の雰囲気を味わいながら帰ってきた

明日、第10回SHEの初日がある
いつものように、これからどれだけできるのかにかかっている
その時までには何とか話をまとめたいものである





2016年11月15日火曜日

科学を哲学する夕べ?

 (右から) 奥村康(順天堂大)、垣生園子(順天堂大)、
 葛西正孝(順天堂大)、安部良(東京理科大)の各先生 


今夜はわたしにとって実に不思議な組み合わせのディネとなった。何とも奇妙な生活をしている人間がいることに興味を持ったと思われる科学者が集まり、科学を肴にお話をするという会になった。まさに、科学を哲学するという風情であった。ある意味では、わたしが今考えているアイディアの原型を見るような思いでそこに参加していた。古くからお世話になった先生ばかりだが、このような話をしたことはなかったのではないだろうか。何とも愉快な時間で、これからは哲学しかない、と思わせてくれるひと時となった。次回の帰国時にもこのような交換の機会が巡ってくることを願っている。




2016年11月13日日曜日

カフェの後での変容、あるいは新たなプロジェ?



サイファイ研究所ISHEは最終ミッションとして「自らの変容」を掲げている。金曜のPAWLにおいてそのミッションを説明している時、私自身の観察として毎回のカフェの後にも変容が見られるというようなことをコメントした。サルトルに肖れば、そのために必要になるのは、前と後で自らの中で起こっている変化を詳しく観察して分類することである。この変容に至る過程も哲学であると言えるだろう。また、「科学の形而上学化」の説明では、現場の科学を終えた後に科学者ができることの一つがこれではないか、というようなことも話した。なぜならば、文系の分野で長くやった方が科学について学び考えるよりは壁が低いと思われるからである。その上で、「科学の形而上学化」は科学を文化にする上で一つの有効な手段にもなるというようなことを話した。そして、次のエッセイのテーマとして考えていたことがこれらと混然一体となった時、一つの塊が浮かび上がってきた。全く想像もしていなかった「わたしのプロジェ」となるかもしれないものだが、現段階ではまだ原石の塊。これからその塊から形を彫り出していきたいものである。





2016年11月12日土曜日

第4回カフェフィロPAWL、新会場でアリストテレスを語り合う



今回、ディスカッションの時間が長く取れる会場で第4回PAWLを開催した。当日2名の方の都合が悪くなり、欠席となったが、SHEの第1回と第2回に参加された方の4年振りのカムバックがあったり、山形から参加された院生もおられ、興味深い構成となった。これまでより30分ほど余裕ができたのでゆったりできた印象がある。終了後、会場について皆様の感想を伺ったが、いま一つ歯切れが悪かった。個人的な感触では、僅かに今回の方が良いという方が多いような印象を持ったが、誤差範囲だろう。来週の参加者のご意見も参考にしながら、今後の予定を考えて行きたい。

今回のテーマは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で問題にした人間が生きる上での最高善とは何かであった。換言すれば、人はどう生きるべきかということで、まさにPAWLが考えて行こうとしているテーマになる。今回、アリストテレスの声を聴きながら、予想もしていなかった幾つかの発見をした。

冒頭に、何かを行う時に向かうところのもの、すなわち目的が善であり、いろいろな活動において見られる目的の中でもすべてを統合するものが最高善だとある。これはどういう意味なのだろうか。アリストテレスは究極であるための条件を次のように考えていた。一つはそのものだけのために追及する価値のあるもので、別の目的のために追求するのではないものである。もう一つは、それを得れば他には何もいらないという意味で、自己充足的であること。但し、自分自身だけではなく、広く言えば社会や国にまでそれが及ばなければならないと考えていた。人間は社会的動物と言った人らしい。

この条件を見て思い出したのが、以前に取り上げたことがある藤澤令夫氏のまとめによるエネルゲイアとキネ―シスとの対比であった。エネルゲイアは目的が行為の中にあり、それを行った時には「こと」は完了していて完全であるのに対し、キネ―シスは他のものが目的なので常に未完に終わるというものである。

エネルゲイアをわれわれの生に取り込む (2010.1.2)

当時は、仕事を辞めてフランスにいたため、エネルゲイアの状態が深い充足感を齎してくれることを身を持って体験していたのだが、仕事をしている時にはその意味がよく分からなかったのではないかと思いながら読んだところになる。実はそれが究極の善の一つの基準になっていたのである。

アリストテレスはさらに人間の機能とは何か?と探索を進める。ここでいう機能とは、人間に本来的に具わる他の生物とは異なるものであるが、それは理性を伴う魂の活動であると結論している。そして、その活動を善く行うことが卓越性であると言っている。その機能を発揮させること、すなわち哲学すること、しかもそれを生涯を通じて行うことが人間の善ということになる。観想(観照)活動はそれだけのためのものであり、観ること(テオリア)だけが求められるという意味で、究極性と自己充足性という条件も満たしている。

最も善きもの、最も快適なものは、その存在にとって本性的で固有なものである。とすれば、精神生活を全うすることが最高善であり、それは同時に幸福を齎すことになる。幸福を表す言葉「エウダイモニア」には、神に祝福された状態という意味がある。ダイモーンが神と人間との仲介者を意味するので、それが良い(エウ)状態が幸福になるということだろう。つまり、知的活動だけを生涯に及び続けるということは、神に祝福された状態にあり、人間を超えた「神的生活」とも言えるものになるのだろう。ただ、人間はそんなことはできないのが普通である。そこで問題になるのが、古くから言われている精神生活と動的生活のバランスになる。その問題を解決するのはそれぞれの人に任されているのだろう。これまでのわたしの歩みを振り返れば、動的生活と静的生活を人生の中で分けるという解決策を図らずも編み出していたことが見えてくる。

ところで、先日提案したフランス語を読みながら哲学を語る会に興味を持っている方がおられることが分かった。これで希望者が複数になってきたが、もう少し様子を見ることにしたい。






2016年11月9日水曜日

第二回サイファイ・カフェSHE札幌、無事に終わる



第二回サイファイ・カフェSHE札幌が無事に終わった。始まる直前に参加できなくなった方から連絡が入った一方で、飛び入りの参加者が2名おられたのは嬉しい驚きであった。さらに、恩師の参加までいただき、恐縮至極であった。このような予想もしない流れに遭遇して、こちらのペースも上がったようである。

今回のテーマは、「遺伝子ができること、できないこと」とした。遺伝子という大きなテーマになると、いろいろな切り口が考えられる。今回は、遺伝子という概念が出来上がるまでの歴史的な過程を追うことにした。その結果見えてくる問題点を拾い上げていくと、古典的な定義の遺伝子のできることが限られていることが明らかになる。ジャンクと言われた蛋白質をコードしないDNAにも想像を超える役割が割り振られていることが明らかになりつつある。さらに、DNAの配列に依存しない遺伝の解析が進んでいる。

一口に遺伝子と言っても、その中に込められた意味をすべて掬い上げることは不可能に近いことが見えてくる。今回見たように、膨大な歴史を背負っているからであり、その機能の全貌がまだ見えていないからである。実は、多くの言葉が同じような宿命の中に在る。哲学者とは、このような言葉の意味を考える人と言ってもよいのかもしれない。もしそうだとすると、哲学者に残されている仕事は膨大なものになる。一つの言葉の意味を明らかにすることだって、英雄的な労力を要するからである。

懇親会には都合で参加できない方が多く、4名のこじんまりした会となった。しかし、哲学に興味があり、「遺伝子X哲学」で検索して辿り着いたという理系の大学生も参加。大人数ではできないような話も出てきて、興味深いものがあった。まさに、どのような構成となるかで全く違う時空間が生まれる。このような会の妙である。





2016年11月3日木曜日

研究のスタイル、研究者の哲学



先日の大阪の会で感じていたことが、いくつか浮かび上がってきた

一つは研究のスタイルに関することである
それは研究者が研究に対して持っているイメージの違いによるものだろう
意識しているか否かは別にして、研究者の哲学の反映になる

一方に、一つのことが見つかると、それを外にどんどん広げていくタイプがある
財力、人力を投入する大企業のやり方にも通じる
しかし、研究がざわざわと五月蠅くなるという印象がする

それに対して、一つのことの内に向かう静かな印象を与える研究もある
エッセンスに向かおうとしているように見えるという意味で、哲学的にも映るやり方である
アーティザナルにも見えるこのグループはどんどん少なくなっているが、私の好みのタイプになる

もう一つの対比も研究者の資質に関するものである
それは、一方の特徴が顕著に表れている研究者に気付いたことから明らかになってきた
その特徴とは、それらの研究者の中から見えてきた利他的態度である
自らの持てる知識、自ら明らかにした方法を積極的に人々に提供しようという姿勢である
外国人が入ると、その特徴がより明確な形で見えるようになる
今回、そのような研究者に対する共感が湧いてくるのを感じたので、そのことに気付いた

知的な活動とは、本来そうあるべきなのだろう
お互いの頭の中を提示して、交換し、批判し合うこと
それを意識してやることこそが知的活動の根になければならないということである
その基礎は日常的な会話の中にあるように見える
それが彼らとわれわれの間にある大きな違いにも見える

奈良の懇親会の席で彼らが語っていた中にも同様の言葉があった
それは、殆どの問題は会話することによって解決するというもの
解決しないまでも、そこに向けての糸口が得られることは少なくないのではないだろうか
口が重い身としては、耳に痛い結論であった





2016年11月2日水曜日

もう一つのカフェ (続)



先日、フランス語を読み、哲学を語るカフェのアイディアについて触れた

もう一つのカフェ?」 (10月25日)

マスターが教えるというよりは、参加者と一緒に学び、成長したいと考えているカフェである
自らに引き付けて考えやすいテーマを扱うカフェである
今のところ、この程度のイメージなので、もう少し練る必要があるだろう
考えてみれば、SHEもPAWLも同じだったと言えるかもしれない

昨日のこと、拙ブログの読者という方から都合が合えば参加したいというお便りが届いた
少なくともこのような会に興味をお持ちの方がいるということは分かった
まだ時間があるので、もう少し様子を見てみたい




興福寺で時空を超える



本日は午前中から興福寺を3年ぶりに訪れた
前回、いつでも観ることができると思っていた北円堂無著世親に会うことができなかった

興福寺中金堂へ瓦を奉納、千葉大学での講義で新しいアプローチの必要性に気付く (2013.9.13)

今回は何という幸運か、北円堂開扉の期間に一致していた
初めてその姿を目にすることができた
建物もその中に収められている彫刻も国宝となっている

弥勒如来座像
無著・世親菩薩立像
四天王立像

その周りをゆっくり何周もしながら、時が刻み込まれ別の姿になっているその像に見入る
おそらく出来立ての時には体験できなかっただろう、という感覚がそこにある
時を超え、時の中を漂う、とでも形容したくなるひと時となった

それから辺りを散策の後、国宝館
こちらも初めてになるが、素晴らしいものばかりが集められていた
すべてではないが、ほとんどが自分の感受性とピタリと合うものばかりであることに驚く
至福の時間となった


前回、平成30年の完成を目指して中金堂が再建途中で、勧進のお願いが出ていた
わたしも勧進所に入り、瓦に一筆したためて寄進した
その時に写真に収めたのだが、昨年1月のブリュッセルでの出来事のため消え去ってしまった
ただ、茫洋とした願いの輪郭は覚えている
そこへ向けて少しは進んでいるのだろうか

以前の熱気は消えている勧進所に寄って、あの時の瓦の運命を訊いてみた
すでにすべての瓦は屋根に載せられているとのこと
CGの映像で完成された時の雰囲気を味ってから帰ってきた


  興福寺 北円堂


  興福寺 国宝館






2016年11月1日火曜日

奈良で現代日本の問題点を垣間見る


   Prof. David Brautigan (Univ. Virginia, USA)


今日は奈良女子大に場所を移し、渡邊利雄先生のオーガナイズによるミニシンポジウムに参加
第一部が脱リン酸化酵素研究のこれまでとこれから
第二部は海外大学の紹介
理系女性教育開発共同機構が主催の会であった

海外からの参加者は、写真にあるブローティガン、シュノリカー、ボレンの三先生
両方のセッションで研究と大学の紹介を行っていた
東北大の田村名誉教授の20年以上に亘るお力添えが背景にあることが見えてくる
私は第二部で「パリの大学院で科学の哲学を学ぶ」と題して、個人的な経験を話させていただいた
渡邊先生のご苦労に改めて感謝したい


  Prof. Shirish Shenolikar (Duke-NUS, Singapore)


第二部を聞いていると、海外の各大学とも特徴がはっきりと表れていて、それぞれに魅力的である
昔の教育と違い、微に入り細を穿つとでもいうべき方法論が駆使されていて少々驚いた
われわれの時代の牧歌的な教育が懐かしい

多くの学生の参加があり、質疑も活発に行われていた
ただ、欧米の大学生に比べると、自分を外に出して表現することが苦手のように見える
この点に関しては、海外の先生からも指摘があった

懇親会で伺ったところによると、やはり小中高における教育が反映されているようだ
われわれの時もそうだったので、その傾向が改善されていないと言えそうだ
あるいは、外の目に対してさらに過敏になっているのかもしれない

それから、文系、理系を高校の段階で分ける今の方針に問題ありとの指摘もあった
広くものを見る必要性を訴えている私の立場からすると、その意見には同意せざるを得ない
文理に分けたり、一つの領域を全体から引き離すことが齎す影響が見えていないのだろう
ヤスパースはその結果生まれる産物をこう表現している

「おそらく優れた道具だけは所有しているが、教養というものを一切欠いた人間」

政策決定者にそれが見えないということは、同類だからなのか
見えていてそうできないのだとしたら、それはなぜなのか
どうしても理解できないところである


(左から)田村真理(東北大)、渡邊利雄(奈良女子大)、雲島知恵(奈良女子大)、
  小河穂波(奈良女子大)、D. Brautigan、S. Shenolikar、Mathieu Bollen 
  (KU Leuven, Belgium)、吉田信也(奈良女子大)の各先生


懇親会がお開きになる頃、やっと科学と哲学の話題になってきた
この問題に興味を持っているのは私一人だったからだろう
今回は学生のために日本語で話すように指定されていた
そのため、海外からの参加者は何を話していたのか分からなかったはずである
ただ、スライドは覚えていて、その内容を訊いてきたところからディスカッションが始まった

彼らの精神が明晰を求めていることが分かる
自分が分からないことを認め、それを確かめようとするごく当たり前の精神と言ってもよい
いつも感心している彼らの特徴である
日本の教育に絡めれば、これを育む何かが欠けているということになるのだろうか

最後は、科学が明らかにしたことが本当に世界を表しているのかという問いに向かって行った
実は、科学者が一番哲学者に近いところにいるのではないか
そう考えざるを得ない展開であった
今度は場所を変え、英語での発表の後、最初からディスカッションをやってみたいものである


ところで、ボレンさんから600ページになんなんとする出たばかりの本をプレゼントされた
トマス・モアによる 『ユートピア』 の出版500年を記念してルーヴェンの研究者達が書いた本である

'A Truly Golden Handbook': The Scholarly Quest for Utopia (Leuven UP)

彼は研究に忙しいので、一日中暇な私にぴったりと思ったようである
いずれにしても、嬉しい贈り物であった





2016年10月29日土曜日

カンファレンス三日目には大学生の発表、そして近大ツナ



昨夜のマッコリのせいか、今朝は目覚めが良かった
昨日とは異なり、朝のセッションから参加

今回の会の特徴になる驚きの取り組みがあった
最初のセッションの後に大学生10人ほどによる数分間の英語発表セッションが用意されていた
卒論のエッセンスを国際会議というセッティングで発表させるという教育的配慮になるのだろうか
中に一人だけ女子高生と思われる立派な発表があり、驚いた

浦島太郎という印象である

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今夜も懇親会があった
有名な近大ツナ62キロが振る舞われた
そこでのショットをいくつか
ショットにはないが、今日発表した大学生、若手研究者の表彰もあった
これからに繋がるエネルギーを感じることができた



   近大ツナ 62kg


  島先生(宮城県立がんセンター研究所)、原島先生(崇城大学)


  新谷(基生研)、一人置いて、前濵(神戸大)、渡邊(奈良女子大)の各先生


  Dr. Ben Neel (NYU)



  Dr. Martha Cyert (Stanford U)

 
   Dr. Nick Tonks (Cold Spring Harbor Lab)


  Dr. Ari Elson (Weizmann Inst)


  Dr. Michel Tremblay (McGill U) and his company


その他にも心に滲みる言葉を聞くことができたり、20年ぶりの再会があったり
総じて良い会だったと言えそうである
今回の一つの目的が終わったことになる
山を越えると、もう一山が待っている





2016年10月28日金曜日

カンファレンス二日目は懇親会

(左から) M. Cyert (Stanford), D. Brautigan (U Virginia), N. Tonks (CSHL),
  T.C. Meng (Academia Sinica), F.G. Haj (UC Davis), Z. Wang (Case Western
  Reserve U), B. Neel (NYU), M. Bollen (U Leuven) の各先生


会議も二日目
懇親会が開かれた
今日は会議よりもこちらがメインだった
ここでも昔の仲間と親しく話すことができた

このような時間にしばしば貴重な情報が得られるものである
今は現場から離れた身なので、以前ほどではない
しかし、それでも、これからの方向性を促すような言葉に接することができた
時差ぼけは酷かったが、参加して正解であった
その様子をいくつか


  島先生(宮城県立がんセンター研究所)、藤原先生(近大)


  鍔田先生(東京医科歯科大)、乾先生(熊本大)


  野田(基生研)、登田(広島大)、持田(熊本大)、大浜(山口大)の諸先生










2016年10月27日木曜日

昔の研究仲間と再会、そして科学の現状

 
  基調講演をするミシェル・トレンブレー教授(マギル大学)


本日は午後から近畿大学に向かった
第12回プロテインホスファターゼ国際カンファレンスに出席のためである
実際の目的は、昔の研究仲間の顔を見ることであった
このような機会がなければ、まず会うことがない人たちばかりである

お陰様で多くの方に会い、言葉を交わすことができた
同時に、半分くらいは顔触れが変わっている
新陳代謝が行われているよい兆候だろう
この会の発足に関わった者としては、これからも継続されることを願いたい

十数年振りくらいに会うことになったイスラエルの研究者に日本の初印象を訊いてみた
彼の答えは、綺麗で静かなところ、というもの
これまで経験したどことも違う世界だと言っていた

科学の世界は久しぶりだが、いろいろなことを感じた
まず、略語が氾濫していて、話はその略語の繋がりから成っているだけのように聞こえる
それらのジャーゴンを知らない人は何を言っているのか全く分からないだろう
まさに、科学の話は生きる上で全く必要を感じないものになることがよく分かる

また、一つの話を聞いて、何かを理解したという気分にはならない
かなり小さな部分で起こっていることに集中しているため、全体との関連性が分からないからだろう
その上、演者相互間の話の繋がりが殆ど見られないので、その印象がさらに強まる

今や、役に立つことが求められる時代
生物学の基礎研究が必要なのは、それが治療法を生み出すから、というところに行ってしまう
研究者も、小さな部分から病気に有効な方策を探し出すという意識になってしまうのか
全体の理解という視点を持つことが益々難しくなっているようである


帰りに、古本屋に寄って暫く時間を過ごし、数冊手に入れた
最後にもう1冊手に取ると、年配のご主人が、お代はよろしいですよ
実際にどうなっているのかは別にして、気持ちよく帰ってきた






2016年10月26日水曜日

続く時は続くもの



今日も予定通り進まないことがあった
若い友人とのディネの場所に行った
しかし、あるべきコンプレックスにはその店の名前がないのである
こんなことは初めてである
どんなことになるのか、様子を見ることにした

まず、それらしい店に訊いてみた
すると、1週間ほど前に模様替えをして、名前まで変えた店があるという
そこに行ってみると、探し求めている店であった
幸い経営者は変わていなかったので何とかなったのだが、、

それにしても続く時は続くものである




2016年10月25日火曜日

もう一つのカフェ?



先日のこと
フランス語で書かれた哲学書を読むカフェをやってはどうか、というアイディアが浮かんだ
生き方に関連した哲学を展開した方の著作を中心にして
以前に開いたSHEの懇親会で出てきた話が思い出されたからだろう
その上、フランス語から読んでいくと、翻訳では得られない何かを感じることが少なくない
わたしの場合、フランス語をやっていなければ哲学には入っていなかったと断言できるくらいである

具体的には、一人の哲学者の書を一冊読むという手もある
しかし、今のところ日本での時間が限られているので難しそうである
面白そうなテーマについて書かれた1章を集中して読む、というやり方であれば可能かもしれない
数回に分けて

ただ、今の3つのカフェに加えてもう一つ増えるとなると、マスターの限界を超えそうな予感もする
勿論、この試みは参加希望者がいることが前提ではあるのだが、、
いずれにせよ、始めることができるのは来年以降になるので、もう少しアイディアを温めてみたい





2016年10月24日月曜日

真っ暗な日本に到着、そして日常に溢れる創造



もう6時には真っ暗な日本に着いた

帰りのJAL機内ではオーディオが全く聞こえない席になった
こちらは諦めていたが、5-6回は調整していただいたのではないかと思う
しかし、それでもダメ
着陸時、迷惑をかけたのでコンペンセーションをしたいと言う
その上、何人もがお詫びに現れ、恐縮する

こんなことはエア・フランスでは考えられないのではないだろうか
1-2度確かめて、笑い飛ばすかもしれない
日本の対応が徹底していることに改めて感心する
しかし、あそこまでやる必要はあるのだろうか、という思いも湧いてくる
日本では、それが求められているということなのか
今のわたしには、随分と窮屈な世界に映るのだが、、

終わってみれば、落ち着くところに落ち着いたという今回の移動であった


これは最近の変化になるが、こういうことが起こっている
何かの動きをしている時、「これは予定していたものとは違う!」とはっきり感じる瞬間が増えている
今回のようにはっきり分かるものだけではなく、どんなに小さなことでも見逃さなくなっている
大袈裟に言えば、それは分かれ道であり、決まった軌道からの揺らぎである

買い物に出る、カフェに向かう、その移動やそれぞれの場所で起こることや人の言葉や態度など
実は日常に溢れているが、忙しくしているとそのことを意識できないだけのものである
これらは何とも小さなことのように見える
しかし、それを大きなこととして考えることができるようになっている
人生がそこで創造されているという感覚である
そして、その瞬間、「にやっ」 と心の中で笑みがこぼれ、その次を期待しているのである
それらの微妙な変化を捕え、味わう中に人生の悦びさえあると考えるようになっている
忙しくしているということは、このような楽しみを奪っていると言えるかもしれない

これはエピクロスの言う「揺らぎ」にも繋がるものだろうか
より詳しく見れば、上で「揺らぎ」という言葉が浮かんできたことで、エピクロスが出てきたのだが、、
あるいは、「わたしの発見」 になるのか
いずれにせよ、そこに悦びを見出せるか否かが重要なのである





2016年10月23日日曜日

これから日本へ



これから日本に向かう
奈良女子大学の会の前にある国際会議に出席し、来月SHEとPAWLを開くためである
今朝、トゥールからCDGまでやってきた
パリの時よりはずっと楽である
メトロでの乗り換えや階段の上り下りがなく、座っているだけだからだ

問題は出る時のタクシーにあった
タクシーの予約はフランスに来て初めて
ウィークデーであればバスもあったのだが、如何せん日曜日の早朝
予約時刻になっても来ないので電話すると、電車の時刻は?と訊いてきた
どうも自分の都合で動いているようである
それに自分の出発点からメーターを動かしていて、かなりの料金になっている
こんなやり方が一般的なのだろうか?
ドライバーの女性は、そうだ、と言っていたが、、
駅まではフランスの病院や教育の問題点について熱く語っていた
最後は少し安くしてくれたが、次回はウィークデーの出発にしたいものである

空港に着くと、上の景色
なぜか懐かしい
最初の?ブログにあると思われる眺めだが、その時より少しはうまく撮れているだろうか?




「こと」はすんなり進まないものである
出発便の到着が遅れ、乗り継ぎ便に間に合わなくなった
しかし、全く慌てない
今では、これが本当の「こと」の進行だったのだ、とまで考えることができるようなっている
すべてを受け入れることができるようになったとも言える
それで何か新しいものを見ることさえできるのではないかという期待感まで持つようになっている
まさに、誤謬こそ創造の母、と本当に思っているのだろう

ということで、どうなることかと様子を見ていると、こうなった
出発は7時間、到着は4時間ほど遅れる直行便があるけれどもどうですかと言う
OKと言ってしばらくすると、エコノミーからビジネスに変貌したチケットが戻ってきた
その上、今回のエア・フランスの担当者の態度が騎士のようで、気持ちよく変更を受け入れた

こんなことは、その昔ニューヨークから帰国した時以来である
その時はオーバーブッキングで困っていると、なぜかエコノミーからファーストクラスになった
右の隣には中国に向かうというアメリカの外交官
左の端の方には今は亡き柔道の猪熊功さんが乗っていたのを覚えている

今回は長い旅になりそうである

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長い待ち時間の最後にもう一つ出来事があった
日本に向かうJALはビジネスクラスを認めず、何のことはないエコノミーとなった
エア・フランスが空手形を出しただけという話になった
これでやっと出発できそうである
やはり、いやはやだろうか