2021年9月30日木曜日

9月を振り返って































このところ、これまで以上に一日が長く感じられる

今月もその長い一日を、毎日、十分に刈り取っているという感覚を持ちながら過ごしていた



先月初めに届いたフランスからの荷物の整理だが、遅々とはしているが続けている

日々の違いには気付かないが確実に前に進んでおり、半分くらいを片付けたところである

できれば来月中には終えたいものである

当初は荷物を置くだけの場所と考えていたところに仕事用のスペースを作ることができそうである

現地とは比較にならないが、そこにはフランスの空気が流れているように感じられる

そのため、日常を離れて集中できる空間が生まれることになる

これは想像もしていなかったことなので、これからの展開が楽しみである



今月も長期プロジェに当たっていた

今月中にはそろそろと思っていたが、まだ見えそうで見えないゴールという感じである

これまで長い年月を要しているので、纏めることができるとすれば幸いなことである

こちらも来月中には何とかしたいものである



少し離れて今月を見ると、かなりのことをやった月ということになりそうだが、全き平静さの中にある

悟りの境地に近いのではないかと疑っているが、昔を思い出すと驚くべきことである

現在のプロジェが一段落すれば、中断されている新しいプロジェが待っている

深まる秋を感じながらの歩みになるが、いずれのプロジェもどのような展開になるのか、まだ分からない

もう自分が何とかするという感覚はなくなっていて、事の成り行きを見守るという姿勢に変わっているのである








2021年9月29日水曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(15)
















しかし、この賢明さの源泉は何なのか

裁判官を前にして、あるいは死の瞬間においてソクラテスが覚えた充足感はどこから来るのか

モンテーニュはその説明をしていない

彼はソクラテスの力と、その力が理論哲学や学説あるいは体系からではなく、彼自身から出ているものであることを認めている

しかし、この力はどこから彼の元に来るのだろうか

もし我々が言うことができるとすれば、我々もまたソクラテスの最高のレッスンが何であるかを知ることになるだろう

彼の行動とそれを支えるエネルギーの原理を何らかの方法で隠すどころか、ソクラテスは「わたしは愛している」と明確に言う

ソクラテスがアテナイの通りや広場や公園を闊歩し、商人のカウンターの近くに立ち、店に入り、毎回、市民や外国人に「兄のように語り掛け」、彼らの質問に答え、あるいはまた彼らに質問し、問いから問いへと行きながら彼ら自身をより良くするために自分自身を知るように導くようにするのは、ソクラテスが彼らを愛していたからである

真の「隣人愛」以外の何物でもないソクラテス的愛で愛すること

それはより良くしたいということである

自分自身のことは気に留めず、仲間の市民をより良くすることだけを気に掛け、ソクラテスはアテナイの人々の中で一日を過ごす

30年の間、彼は彼らを愛することだけをやり続けた

彼が自身の人生に目をやった時に生まれる充足感はそこから来るのである


そこからまた、死の瞬間の充足感も生まれるのである

「クリトンよ、我々はアスクレピオスに一羽の雄鶏の借りがある」がソクラテスの最後の言葉であった

彼は一人ではなく、正真正銘の子、彼の魂の子に囲まれて死ぬのだから、そして彼は彼らの中で生き続けるのだから、彼は死を解放し、癒したのである







2021年9月28日火曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(14)
































モンテーニュによれば、ソクラテスのレッスンとは、人間が自身の置かれた状況に向き合うために、宗教や哲学の助けを借りずに、純粋に勇気だけの力によって、自らが進んでどれだけのことができるのかを示すことである


人間による判断は普通、ソクラテスにおける自然さの完成を評価するには、余りにもまがい物でひけらかしの価値観に屈している

彼からは「穢れのない確かな眼差し」だけが発見できる「秘密の光」が発している

ソクラテスにおいては、賢者や常に最高の状態にいる人を認識するためにはーーその人の魂は自分自身ならびに世界と完全な調和を保っていて、言わば哲学者の理想の実現であるのだがーー、準備された視線が必要になるのである







2021年9月25日土曜日

これまでの蓄積を篩にかけ、地盤整備をする

























フランスから荷物が届いてから、もう少しで2か月になる

本の類は箱から出して床に置かれたまま、ファイル関係は二十数個の箱に入ったままであった

暫くはそのままにしておいたが、少しずつ手を付けるようになり、このところ毎日1~2時間は整理にあたっている

その結果、整理すべきものがいずれも半分くらいになってきた

ファイル関係は躊躇なく捨てられるものの判別がすぐにできるようになっているのも、この作業を楽にしている

資料の中からマスターの時のものが出てくると懐かしさがこみ上げてくる

もう13~4年前のことになるのだが、、

また、現在取り掛かっているプロジェに直結するものが出てくると、新たな考えが触発されるように感じることもある

全体として見ると、これまでに溜まったものを篩にかけ、これからに向けて地盤を整備しているような感覚が生まれている

それが可能になっているのも、COVID-19がそれまでの日常を断ち切ってくれたからだろう

このような否応なしの外的要因がなければあり得なかったことなので、今のところだが、COVID-19の良い影響として数えておきたい








2021年9月24日金曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(13)
































わたしは今、最も大きく最も重要なアテナイとその哲学者に対する恩義を自問している

それが哲学だとは言わないだろう

哲学は確かにギリシアのものではあるが、ディアスポラの中で生まれたものである

わたしは、プラトン、アリストテレス、エピクロス、ゼノンピュロンに恩義を感じている

全ての哲学者がその名に値するが、格別の恩義を感じているのはピュロンである

もし、まず何よりもわたしが感謝しなければならない人について考えるとすれば、名前が浮かんでくるのはソクラテスである



愛だけが人生を休むことなく人生を超えて輝かせる

わたしがソクラテスに負っているのは、愛のレッスンである

そして、ここでわたしが思い浮かべているのは、プラトンの『饗宴』におけるソクラテスの見事な演説ではなく、生きそして死ぬ、生身のソクラテスである



モンテーニュには主題が「最も優れた人間」であるエッセイが一つある

それは、ホメロス、アレクサンダー大王、エパメイノンダスという三人のギリシア人である

最後のエパメイノンダスが「最も優れている」

その上、「ギリシア人は彼らの中で異議を差し挟むことなく第一級の人間であるとする栄誉をエパメイノンダスに与えたのである。ところで、ギリシアで第一級ということは、世界で第一級ということである」

このエッセイは1578年頃書かれた

何年か後、モンテーニュはソクラテスのことを忘れなかった

エッセイの第3巻、最後の一つである第12章「人相について」でソクラテスの素晴らしい描写をしている

その時おそらく、ソクラテスはアレクサンダー大王に取って代わったのである







2021年9月23日木曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(12)

























しかし差し当たってはーーポール・ヴァレリーに同意しようーー「生きようと試みる(いざ生きめやも)」でなければならない

空から地上に戻り、人間に戻ろう

ディアスポラのギリシア人哲学者の思弁の迸りは雄大である

しかし、もし単に善く生き、善く死ぬための助言や実例を求めるのであれば、彼らに問いかける場所はエフェソスやエレアよりはアテナイだろう

すべてのローマ人の中で「ギリシア人の正真正銘の唯一の弟子」であるルクレティウスはーーと、シモーヌ・ヴェイユはいつものように少し極端に言うのだがーー、神のようなエピクロスの「名言」を集め、楽園の幸せな共同体を夢見る

ローマ人であるかもしれない他の者は、厳しいゼノンの教えを好み、自分には不屈の気力が可能であると考える

ボスとしてディオゲネスを自分のために選び、彼らの目には的を射るように見えるボスのセリフを何度も繰り返す人もいる

しかし、教養ある人、学者、そしてこの世界、人間社会にやや失望している人は、勿論、プラトン、あるいはおそらくアリストテレス以外の師は望まない

そして、プラトンを師としたのである








2021年9月22日水曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(11)
























しかし、古代ギリシアの哲学者の間でも、人が置かれた時期によって興味が移り変わる

ある人は、マルクスがエピクロスについて博士論文を書いた時から、おそらく不適切にも「唯物論者」を呼ばれる哲学者を調べる

超越の迸りにより動かされた他の人は、ジャン・ヴァールが言ったように、新プラトン主義者に向かう

しかし、ニーチェは挑発としてこの言葉を発する(わたしは現在形で語る、なぜならニーチェは昨日のものである以上に今日のものだからである)
真のギリシアの哲学者は、ソクラテス以前の哲学者である

そしてニーチェは序列を付けるポーズで、ソクラテス以前の哲学者を彼らの後に来る者より必然的に優れていると言う

彼らはすべて、人々や習慣から離れて生きる秀でた人たちである。成熟し、陰鬱になるくらい重々しく、ゆっくりものを見る視点を持ち、政治や外交に暗いということも全くない。彼らは賢者の前に「ものこと」のすべての重大な概念を発見し、これらの重大な概念を表現し、そしてそれらを体系に還元する。この突然の原型の増大、哲学的理想のすべての偉大な可能性を完全なまでに作り上げるこの無意識のやり方より高度なギリシア精神を示すものは何もない。 

ところで、ニーチェはヘラクレイトスに傾いており、こう言っている

わたしが善悪を超えた神の遊びとしてこの世界を思い描く時、ヘラクレイトスがわたしの先駆者である

 ヘルマン・ディールス版の断片52を思い起こしてみる

時間はチェスの駒を動かして遊ぶ子供である。子供の王国なのである

しかし、「在る」ことを前に初めて驚いたのはパルメニデスである

ヘラクレイトスが「哲学の正真正銘の困惑」に他ならない「弁証法の方向への第一歩」を記した以上、ハイデッガーもまた、「より深く、より本質的である」と判断してパルメニデスに傾いている

このように、振子はヘラクレイトスとパルメニデスの間を揺れ動いており、それは哲学が続く限り続くだろう







2021年9月21日火曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(10)

























このように、哲学者の社会では特別に選ばれた関係が生まれる

しかし、誰もが無視できない哲学者がいる

それが古代ギリシアの哲学者である

彼らは今日、フランス、ドイツ、あるいはその他の哲学者と同じ状態にある

興味や親和性に応じて外国でも知られているのである

しかし、古代ギリシアの哲学者はすべての人に知られ、すべての人により常に考察され、研究され、解釈され、そして再解釈されている

勿論、すべてが均等にではないとはいえ

アランに関する文献は殆どがフランスのものだが、ヘラクレイトスのものはすべての文化言語における研究が含まれている

プラトンについて語ることはしないが、










2021年9月20日月曜日

秋の入口の感慨















今日は快晴で非常に気持ちがよい

庭には薄紫の花が一面に広がっている

秋の花なのだろう

去年はこの景色に気付いていたのだろうか

直ぐには思い出せない


それにしても、花の命は短くて、とはよく言ったものだ

昨日まで咲いていたと思った花が今日には消えている

あっという間である

これは花に限らず、いのちというものの宿命なのかもしれない

いのちの本質は儚いもの、あっけないものなのだ

秋の入口の感慨だろうか




2021年9月19日日曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(9)
































しかし、対話や討論に入るのは、すべての哲学者ではなく、幾人かの哲学者である

選択がなされるのである

ベルクソンはヘーゲルを無視し、他の人はマルブランシュを無視する

多くの哲学者はモンテーニュを無視する

このような選択が偶然の理由ーー言語の知識がない、出会いの偶然、教師の影響ーーに依らない時は何に依るのだろうか

まず、瞑想が原初の経験の核心について行われるが、それは必ずしもすべての人で同じではない

ある人にとっては、愛の経験であるかもしれないし、他の人では悪の試練であったり、時間の経過の感覚であったり、あるいは数学が与えてくれる純粋な悦び、あるいはまた美しいものを前にした時の驚きであり賛美である

我々の決定的な経験はそれぞれを問題提起に導く

例えば、苦しみに喘ぐ子供の苦悩を前にして、どのようにして神を信じるというのか

そして、神を信じている人たちーー聖アウグスティヌス、マルブランシュ、ライプニッツ、、、ーーに向き合うことになるだろう

子供の苦悩のために、彼らが何をやるのかを問うために

あるいは、愛に取りつかれ、ヘルダーリンが言ったように、愛される存在は「神が身を包む衣服」であることを発見しようと考える時、どのようにしてルクレティウスの皮肉に取りつかれないようにするのか

どのようにして自分の経験を堅固なものにするためにプラトンに助けを求めることをしないようにするのか

あるいは、もし時間が我々とは独立して均質に流れているという生々しい感覚を持っているとすれば、我々は時間とは何なのかと問い、アリストテレスやプロティノスに助けを求めるだろう







2021年9月18日土曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(8)

























ところで、体系の創始者としてではなく、対話における対話者として哲学者の社会のメンバーであることがわたしにとって有益なのは、ここである

わたしの確信への道であった瞑想は、彼らのものでもあったし、現在もそうである

さて、彼らは何について今瞑想し、これまで瞑想してきたのか

人間の条件ーーその条件はわたしのものでもあるーーの特色についてである

なぜなら、痛み、窮乏、不安、幸福、不幸、愛、喜び、失敗、悩み、死の恐れ、同様に、知あるいは無知、決断あるいは優柔不断など、すべての人がこれらについて何らかの経験を持ち、哲学者は「哲学者」である前に、まず「他の人と同じように人間」であるからだ

しかし何よりも、すべての人間は太陽の下、世界に在る

そして、神話は横に置き、精神の自由を宣言して、「それは何なのか」と自問した最初の人

それが最初の哲学者であった

日の光の中で世界に在るとは何を言うのか

そこで我々は何をやっているのか

このような疑問は、答えるのが難しいこととすべての人の問いでもあり得るため、一緒に問いを出すために、同じように調べている人たちと出会う必要性を直ちに生む

そしてそこから、意見や仮定や議論の交換、対話、そして討論が生まれ、それは体系による囲い込みや問い掛けの中止がなければ、終わることは決してないだろう









2021年9月17日金曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(7)

























哲学者がシステムに辿り着くと問いを出すことを止めるが、そのことは哲学自体の性質に反することになるとわたしは言った

そうであるが、エピクロスのシステムが他のものより信頼できると思えないことは確かである

しかし、それは魂が死すべきものであることに関するルクレティウスの議論を受け入れるのを妨げるものではない

哲学者はすでに自分の信用を与えていることを正当化するために哲学するのではなく、信じなければならないことを探すために哲学するのである

信じることは決して知ることではない

多様な信念は、多少とも相容れないところはあるが、権利としては可能である

わたしは無神論に辿り着き、あなたは有神論に向かう

どうしてそうなるのか

どのような道を経て

それは柔軟性のない証明によるのでもなく、柔軟な、あまりにも柔軟な論拠の列挙によるのでもない

それは常に非常に個人的な瞑想の道を通してなのである

なぜなら、哲学的確信の道は他の人によって追随されることはないからである

他の人もまた、自分自身の道を持つのである

したがって、「ザ」哲学というものは、「わたしの」哲学に他ならないのである

ニーチェはこう言っている
わたしは常にわたしのすべての人生、わたしという人間のすべてをわたしの著作の中に入れてきた





 

2021年9月16日木曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(6)

























しかし、我々の信念に何の価値があるのだろうか

我々の信念とは、社会学が説明する効果に過ぎないのではないか

我々の宗教はどうだろうか、とモンテーニュは自問する
我々は宗教が行われている国で出会った・・・

我々はペリゴール人あるいはドイツ人であるのと同様にキリスト教徒である 

我々は信仰を放棄することはないだろう

なぜなら、他のものを持つことができないからだ

しかし、伝統によって我々の中に刻まれている出来合いの考え方以外の土の上に自らが立つべきである

ヘルダーリンのエンペドクレスは、同胞に宛てられた失われた手紙として、しかしそれが哲学者であることを望んでいる人に宛てられたのなら相応しいものとして、同胞に呼びかける

この大胆さを持て!

あなたが伝統の中で受け取ったもの、あなた自身で獲得したもの、あなたの父があなたに語ったこと、あなたに教えたこと、法律や習慣や昔からの神々の名前、これらすべてを勇気をもって忘れよ

そして赤ん坊のように、素晴らしい自然に向けてあなたの目を上げるのだ 

最後の言葉を横に置いておこう 

心の障害物から視野を解放し、世界や自然を初めて見るようにしなければならないという考えを覚えておこう

こうして哲学の出発点に辿り着くのである

それが驚きだ

ここで可能なことは同胞間の対話ではないが、他の対話である

誤った証拠と集団的な強迫観念から解放されたすべての人、すなわち哲学者との対話である

なぜなら、哲学者は唯一の普遍的な社会を作るからである

そこで彼らは自分自身の同胞よりもお互いに近くにいるのである

確かに、わたしの村にいる受け入れられた考えだけで満足し、最高の喜びが解禁日に漁に行くことであり、日曜の試合で喝采を送ることであるすべての人より、わたしはモンテーニュをより近くに感じる


 





2021年9月15日水曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(5)
































体系には信奉者がいた

ルクレティウスの詩は正真正銘のエピクロスに対する信念で支えられている

そして、いろいろな程度の正当性を持ちながら、ストア主義者、デカルト主義者、スピノザ主義者、カント主義者、ヘーゲル主義者などがいたが、モンテーニュが言ったように「真理はただ一つだけである」

哲学的な「科学」と言われるものは、間違った科学にしか過ぎない

「哲学」を論理学、認識論のような特定の分野として理解しない限り、そして本来の意味での哲学すなわち形而上学ではないと理解しない限り、哲学的知はないと言わなければならない

哲学は科学として不可能なのである

なぜそうなのか

それを説明するためには、ソクラテスのいくつかの言葉で十分である

彼はエピクロスの前に、死には何ら恐れるものはないと言っている
持ち合わせていない知を自分のものであると主張するのでなければ、死を恐れるとは、実際のところ、どういうことなのか

知らないことを知っていると信じることではないのか

なぜなら、結局のところ、死とは何かも、それが最も誠実な人にとって偶然でないかどうかも誰も知らないからである 

しかし、あたかも死が最大の不幸であることを知っているかのように、死を恐れるのである 

死が何を意味しているのか我々は知らない

生きているのか、いないのか

生命の炎が消えるのか、あるいは新しいものと入れ替わるのか

しかし、死とは何かを知らないのであれば、我々は人間とは何かも知らないのである

人間とは何であり得るのだろうか

同様に、人間は何をして何に耐えるのが相応しいのだろうか

誰がそれを他のものと区別するのだろうか

プラトンは我々に言う

「人生を哲学して過ごしている人が求めているもの」がそれである

しかし、人間の科学、起こり得る人間の運命に関する知はない

わたしは常に理解しよう、自分自身を理解しようとしてきたと言った

何よりもまず、「何を望むことができるのか」という問いに答えることができるように

しかしそれに対して、知識である答えはない

信念以外の答えはないのである






2021年9月14日火曜日

日仏の移動を続ける


























以前に触れた通り、このところフランスとの行き来が日課になっている

床に積まれていた本を片付けてスペースを作り、本棚を入れて本を収めてスペースを作るという繰り返しをやっている

最初は足の踏み場もなかったのだが、すこしゆったりしてきたように感じる

ここまでになるとは想像していなかった

本の方も床に積み上げられている時とは違い、棚に入ると全く違う風情が出てくる

それらしくなってくるのだ



問題は、箱の中に入ったままのファイルや文書である

開けないでどこかに置いておくという手も考えられたが、今回、すべてに目を通し、整理することにした

次に向けて、一つのケリを付けるという感覚だろうか

そのため時間は掛かるが、これまで何に興味を持ち、何を考えて時を過ごしていたのかが分かり、実に興味深い

中には、いろいろな方からのお便りも入っていて、本当に時間が過ぎるのを忘れる

そして、1~3時間程度の作業が終わった後は、譬えようのない精神の充実と疲労を感じる

今の調子で行くと、年内には終わらないのではないかと予想している

しかし、十分にやる価値があると考えている







2021年9月13日月曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(4)

























体系を始める人の哲学は、理性を与えず、現実の全体を知ろうとする知に占める位置を正当化することなく、科学や特定の研究分野に任せないようにする

人間は存在の全体のなかで理解し、理解し合おうと努める

全体の科学としての哲学は、それが何であり、それが何を意味しているのかを語る

わたしは常に理解しようとしてきたと言った

それでは何を理解しようとしてきたのか

それはわたし自身であり、人間である

そのために、人間がいて、わたしが存在する只中のこの全体を、現実を理解することであった

ところで、なぜわたしは体系だけで満足しないのか

そこで満足すると、体系を始める人自身のように、問い掛けを止めるだろう

しかし、問い掛けを止めることは哲学の性質に反するのである



ソクラテスは、彼の作り物の人生と彼の悲惨を齎した意見を伝えるために、誰彼構わず問い掛けた

わたしはいろいろな哲学者を調べてみた

まず、若い時に体系を始めるのは自然のことである

わたしは見事な構造に感嘆した

デカルト、マルブランシュ、ライプニッツ、またクリュシッポス、エピクロスにおいて、わたしは多くの美を見た

(勿論アリストテレスにおいても。しかし、「体系」という言葉は相応しいだろうか。
そして勿論プラトンでもそうだが、ここでは「体系」という言葉は相応しくない)

しかし、美がそこにあったとしても、真理はそこにはなかった

なぜなら、ありそうなこと、真実らしいこと、首尾一貫していることは、真なるものではないからだ

あるいはもし、偶然にも他の体系より体系の一つにより真なるものがあるとすれば、それを確かめるために他の科学が必要だっただろう

確かに、ヘーゲルはそのような科学を提起しているように見える

しかし、それが他の哲学を正しく評価するとしても、それは哲学の部分であり、ヘーゲルの真理であるか、あるいはそのように見えるに過ぎない

やがてわたしにはヘーゲルが本質的なもの、すなわち哲学者というものを忘れているように見えたのである

なぜなら、もしエピクロスの原子がヘーゲルの『論理学』の中で考えられ、原子論的なものがヘーゲルの体系の一つの契機であるとしても、エピクロスはヘーゲルの契機あるいは部分ではないからである






2021年9月12日日曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(3)
































わたしは自然を好む隠遁者の自由も、人間を好み、彼らにもかかわらず、そして彼らのために自由になることを知っていたソクラテスの自由も持ち合わせていなかった

わたしの哲学者としての自由な活動は、すべての忙しさを離れて行われる瞑想であるが、それが行われたのはやらなければならない活動の休みとか余裕がある時だけだった

やらなければならない社会的、職業的義務を細心の注意を払ってやり遂げながら、わたしは決して理解しようとすることを止めなかった

今日、わたしはソクラテスが亡くなった年を6歳超えてしまったが、わたしは「理解した」、すなわち「意味」を把握したと言えるだろうか

人間の意味、人間とそれ以外の生の意味、世界の意味、存在の意味を

そんなことはない

わたしはこれまでにも増して問い掛けをしているところだ

その数が増え続ける科学的知と比べて、「哲学的」と言える知を何も引き合いに出すことがわたしにはできない

しかし、わたしは哲学者である

哲学とは「常に問い続けること」ではなかったのか



確かに、知者も問い掛けるが、やがて止める

ガリレイは、どのような法則によって物体の落下を言い表すことができるのかを自問する

そして彼は、移動にかかる時間と運動の加速に依存して移動する空間を推定する方程式を確立する

しかし、空間とは何なのか、時間とは、運動とは何なのかに関しては問わなかった

これらの問いは哲学者に残されているのである

パスツールは、一部は発酵の原因として、他のものは感染症の原因として生きたオーガニズムを特定したが、「生きている」とは何なのか、「生命」とは何なのかに関しては未解決のままである

道徳の講義の中で、教師は我々自身に対する義務、他者に対する義務を述べる

しかしそこでは、その基盤が確立されていない「義務」という概念が前提として了解されている

法律家は正義の提案を明言するが、その権威を引き出す権利の源泉は何なのか

これも哲学者の討論に任されている








2021年9月11日土曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(2)

































従って、わたしが「哲学とは何か」という問いに答えることができるとすれば、まずわたし自身が哲学者だと思っているということである

わたしのすべての人生を通じて共にあったこの確信は、何に基づいているのだろうか

それは、わたしの青年期から、わたしの周りには何のモデルもない活動に打ち込んでいたからであり、後にそれは「哲学者」と呼ばれる人たちが語ることに相当するようにわたしには見えたからである

わたしは理解しようとしていたのである

わたしは宗教的な教育を受けていたが、そこから離れた

『創世記』のユダヤの神話は、わたしの理性に何も訴え掛けてこなかった

わたしの人生の意味は、日常の凡庸な活動に矮小化されることはできないと、自分に言い聞かせていた

仕事を持ち、結婚し、子供を持つ

それもよいだろう、しかしなぜ?

そこから、ただ理解しようと努めるもう一つのこの活動が浮かび上がるのである



このような活動は、わたしの人生を占めてきた他の活動の隣にいつもあった

それは普通の人間としての活動で、わたしの場合、教授であり、家族の父であり、、、

ヘルダーリンは「連続の法則」について語っている

それは、生活に必要となる職業の拘束により、時間と日々の連鎖の中に個人を取り込んでしまうものである

それぞれの時間が何かをするという義務を齎す

「時間の義務」がそれぞれの時間と結び付いているのである

ヘルダーリンは、「連続の法則」と人間の仕事による喧噪から免れるものとして、エンペドクレスを考えている

エンペドクレスがエトナ山で孤独の中に引き籠ったからである

ソクラテスは彫刻家としての仕事を放棄し、個人的なことに時間を費やすこともせず、決まった仕事を持たず、日課表もなく、彼自身もまた「連続の法則」を免れた

ただ、彼の場合は孤独の中に引き籠ることなく、反対に人間の中に居続けたのである







2021年9月10日金曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(1)

























今回読むのは、コンシュさんが1997年6月5日にアテネ・アカデミーで行った受諾講演に手を加えたものである

タイトルにある「その向こう側」が何を意味するのかに興味が湧き、読むことにした

暫くお付き合いいただければ幸いである


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哲学それ自体の意味ではなく、哲学の向こう側にあるものとの関係における意味を考えることにしたい

実際、わたしは「哲学は何に導くのか」と尋ねられる

それに対する最初の答えは、「何にも(導かない)」である

その理由は、哲学が探求する真理は、常に哲学から逃げていくからである

しかし、もう一つの答えがある


まず、「哲学とは何なのか」

ハイデッガーがこのような問いを自らに課す時、直ちにギリシア語の φιλοσοφία という言葉に出くわす

ギリシア語の言葉として、彼に探求する方向を示すのがこの言葉である

このように、ハイデッガーは最初から、この問いを個性のないものにするのである

ハイデッガーはモンテーニュではない

一種の慎みのようなものが、彼が一人称で哲学するのを邪魔するのである


わたしは、次のように言うハイデッガーに喜んで同意したい
哲学とは、その存在自体においてギリシア的なものである
哲学とは、まず何よりも、ギリシアの「現存在」(Dasein)ーー文字通り、ギリシア的世界における在り方ーーを決めている何かである
しかし、これらの言葉、この主張の意味は非常に明確なので、たとえわたしに哲学の経験が全くないとしても迫るものがあるのか

あるいは反対に、これら言葉が非常に強くわたしに語り掛けているとすれば、それはわたし自身の「現存在」の哲学によって決定した経験があるからなのだろうか

要するに、その起源の場、すなわちギリシア人の哲学を見分けるためには、それだけでも哲学しなければならないのである

そうでなければ、我々は哲学がエジプトにも中国にも存在すると思うだろう






2021年9月9日木曜日

日仏の生活を統合できるか




結構長い間、コンシュさんを読んでいたことになる

昨年もそうだったが、こういうことが起こるようになっている



この間、以前にも触れたように、過去を振り返りながら荷物の整理を亀の歩みで進めていた

フランスからのものの半分くらいは目途が立ちつつあるという状況である

一番大きな変化は、捨てるべきものの決断がすぐにできるようになってきたことだろう

フランスの動きが止まったので、それがしやすくなったようである

心が半分向こうにあるという状態ではなくなりつつあるからだろう

同時に、フランスの生活を離れて(客観的に)見ることができるようになってきた

日本の荷物にも少しではあるが、手が出るようになっている

そのため、これまで日仏で別々にあったものが、徐々にではあるが融合されてくるような感覚が生れている

今の作業は急いで終わらせる必要がないので、味わいながら進めることになりそうである



ところで、コンシュさんの話を一つ読み終えたばかりだが、その世界の余韻が残っているうちに、もう一つ読んでおきたいものが目に付いた

明日あたりから始めることになるかもしれない







2021年9月8日水曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(27)


























つまり、人間の謎は常にここにある

そして、常に再び始める試みとしての哲学も同じである

ところで、常に再開することにどのような意味があるのだろうか

意味は結果の中にはない

なぜなら、哲学はどのような「結果」を報告できるだろうか

また、意味は何かしらの進歩の中にもない

なぜなら、古代ギリシアから哲学はどのような「進歩」を遂げただろうか

もし哲学それ自体が<検証、省察、問題提起>(σκέψις)であるとすれば、それは終わりなき探求である

しかし、探求の意味は発見ではないのか

運動の意味は辿り着くことであり、休息ではないのか

それが必要だとは思えない

運動が意味を持つためには、目的がある必要はない

方向性があれば十分である

それは弱められたもの、坂道かもしれない

探求があり、方向性の決まった運動がある限り、哲学する意味がある

それは、行く先を知っていることを意味しない

否定的な意味で、どこに行かないのかだけを知っていることを意味している

ハイデッガーが言ったように、哲学の道は「どこにも導かない道」、林道(Holzwege)である

どこに行くのか、どこから来るのかを知って哲学するのであれば、それはもはや哲学ではなくイデオロギーである

その昔、『哲学的オリエンテーション』の序にわたしが書いたものがここにある
我々は、どこに行くのか、何に向かうのかも知らず、しかしとにかく、どこに行くべきでないのか、どの道が我々のものでないのかは知りながら、我々自身の奥にうしろに進んだのである

うしろに進みながら、我々は少しづつ明らかになる道を旅する

どんな道か

あとにならなければ、それは分からない

哲学者はうしろを振り返ることにより、少しづつ自分を定義するのである

彼は「わたしは誰なのか」と自問する

それは最後にならなければ分からない

死という偶然の出来事とともに外から訪れる終わりの時まで

つまり、道は力によって終わりを迎える

そして、それが道だったのである



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コンシュさんの「懐疑主義と哲学の意味」、このあたりで終えることにしたい

最後は、わたしが今描いている哲学のイメージとかなり重なるところがあった

このイメージを見るために、これまで読んできたのだろうか










2021年9月7日火曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(26)
















皆さんはわたしにこう言うだろう
あなたの疑いや困惑は、ここから来ている

あれほど美しく独創的で、その上、老齢にあってもその体を飾っていたマリー・テレーズの魂しかあなたは受け入れることができないこと、そしてその魂が消滅するかもしれないことから

まあいいでしょう

しかし、わたしの立場はもっと哲学的ではないのではないか

哲学者は自分に起こっていることを考慮に入れるべきではないではないのか

デカルトやカントが彼らのマリー・ド・グルネークロチルド・ド・ヴォ―を持っていればよかったのに

魂が死すことは、その不死性以上にドグマにはなり得ない

常に自問し、自己検証すべきことがある

哲学とはこれである

常に真理を探すこと

それを決して見付けることができなくとも

懐疑主義の精神は哲学の精神と一つである

哲学はその本質において懐疑的なものである

懐疑主義と哲学は一つである

それが哲学に終わりがない理由である

哲学に休みはないのである

モンテーニュは、「わたしは世界にインクと紙のある限り進む道を取った」と言った

独断主義者とは、あまりに早く止める哲学者である

彼は真理を体系の簗の中に閉じ込め、問題が片付いたと信じるのである

人間とは何か

それは何を意味しているのか

死は何を意味しているのか

これらの問いは、大きな空洞に通じている

宗教や形而上学は、あらゆる種類の創作によって、この空洞を埋めようとする

しかし、その深淵は底なしなのである

「真理は井戸の底にある」とデモクリトスは言った

その通りである

それは底なしの井戸なのである









2021年9月6日月曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(25)




















魂の運命について、わたしがその消滅と非存在に対して疑問を抱き、躊躇することに、おそらく皆さんは驚かれるだろう

しかし、それは理性による躊躇である

わたしは、わたしのものであった形而上学的ニヒリズムを再び問うことをしない

むしろ、わたしがそれを問題にするのは、それを確認するためである

わたしは「無神論者」でさえない

なぜなら、わたしは「神」という言葉を発していないからだ

それは対象がないのに言うための言葉である

まず、必然的に結び付いているとは到底言えない「至高の存在は存在するのか」という問いと「魂は不死か」という二つの問いを分ける必要がある

一方については、わたしが言ったことに止めることにしたい

もう一方については、「経験から得た確信」と非存在としての死についての長い瞑想によって、魂の消滅を認めるように教え込まれているとはいえ、わたしは距離を取り、拒否し、躊躇っているというのが本当のところである

自問しているのである

そしてすべてについて、このことは考慮されるべきである

すなわち、わたしが理解しているニヒリズムは、独断的では全くないということdえある

それは、避けられない懐疑主義を背景に定義された、考え抜かれた選択肢である

それは、決して硬直化しない懐疑主義、自分自身に関して懐疑的であるという懐疑主義に属するものである

モンテーニュは、1576年の懐疑的危機の後、それが普遍的であるという点で、この懐疑主義に反抗する

彼はそこに限界と疑うことができないものがあることを発見する

それは、正直、誠実、親切というような道徳的価値であった





2021年9月5日日曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(24)

















魂は壊れやすいものなのか

死せる魂』はゴーゴリの小説のタイトルである

魂は死ぬことはあるのだろうか

いずれにせよ、素晴らしい魂はそうなのだろうか

クリュシッポスによれば、素晴らしい魂、賢者の魂は、全世界的紛争の時まで生き延びる

つまり、その寿命は世界の寿命と同じである

それに対して、醜い魂、「常軌を逸した」魂は、少しの間しか生き延びることはない

オイノアンダのディオゲネスを信頼するとすれば、醜い魂は体から離れた途端に滅びるものと思わなければならないだろう

死に際して何が起こるのだろうか

体は消滅するのではなく、変容するのである

「やがて土が我々すべてを覆い、そしてそれ自身を変えていくだろう、そしてそれは無限に変化し、さらに無限に変化するだろう」

しかし魂は、魂の単一性と特異性は、同じものに止まらないとしても、変えられることはないだろう

ひとりの人が他の人になることはあり得ない

生き残ることができるか、蝋燭が消えるように消滅するかだけである

しかし、魂の消滅はその生き残りより思い描くのが難しくないだろうか

「無からは何も生まれない」はギリシア思想の根本原理である

これは「何ものも消滅することはない」というもう一つの根本原理と対になっている

どうしたらあるものが無になることができるのだろうか

唯物論は合理主義的でありたいと願う

この合理主義の見事な断層がここにある

反対に、魂の生き残りは容易に理解される

なぜなら、我々が愛した人たちの魂は我々の中に生き残っているのだから

我々の精神における個人的な魂と特別な霊感が永遠に存在することは、思い出とは区別すべきものである

たとえ、感動的な瞬間を想起させるイメージがその存在が呼び起こす感情を助長することがあるとしても

ところで、もし魂が我々の中に生き続けるとすれば、魂自身の中に生きることがあってもよいのではないか

それは考えられないと人は言うだろう

しかし、その反対は考えられるのだろうか











2021年9月4日土曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(23)











人間や魂の間には多くの違いがある

プルタルコスは、動物と人間に見られる獣性の間には、質の問題、魂の質の問題と理解することにして、人間の間ほど大きな違いは見られないと言った

ところで、モンテーニュはこう言った

「わたしはプルタルコスを高く評価し、この人とあの人の間の方が動物と人間の間より距離があると言いたい」

パスカルの観察によれば、「普通の人は人間の間に違いを見ない」が、才気煥発な人の目には、人間の違いは非常に大きい

なぜなら、人間によって、美と醜、高貴と下品、繊細と卑俗の違いは極端にまで行くからである

ペリクレスの顧問であった音楽家ダモンは、素晴らしい魂は高貴で美しいものを愛するということによって識別されると言っている

そのような魂にわたしは偶然にも出会った

わたしのこれまでの人生』で書いたマリー・テレーズがこの世界とそこで生きているものを観察し、眺めるやり方は、いつも美をわたしに示し、明らかにしてくれた

いま、彼女の眼差しが懐かしい

それがなければ、わたしは最早見ることができないのである










2021年9月3日金曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(22)




















しかし、世界で最も美しいものは何だろう

サッフォーはこう言った
ある人たちは、陰鬱な地上にある最も美しいものは騎士団か歩兵団であると見る。他の人たちは艦隊と見るかもしれない。わたしにとって世界で最も美しいものは、各々にとって夢中になれるものである。

最も美しいものは、人間の顔であり体である

なぜなら、神々が作り出した理想的なものが顔と体だからである 

そのため、完璧な美が少年や少女に見られると、それは神の存在の徴であるとされる

ヘロドトスは、クロトンの若者が死んだ後、「彼の美しさゆえに」神の栄誉が与えられたと語っている

彼の墓のうえには小聖堂が建てられ、供え物が捧げられた

プルタルコスの中に、ニキアスが美しく若い奴隷に神として自由を与えたという話が出てくる

彼を拘束状態にしておくのは「あまり宗教的ではない」と言っている

イソクラテスは『ヘレネ頌』の中で、絶世の美女ーー「最も神聖なもの」ーーであるヘレネは不死の恩恵に浴し、夫のメネラオスにもそうさせたと語っている

ラコニアでは、神々に捧げるように彼らに供え物が捧げられたという


しかしながら、皆が美しいと誉めそやすカルミデスについてソクラテスは、体の美しさに魂の美しさという「ちょっとしたこと」が加わえられることを望んだ

このように、一方が他方なしには進むことができないのである

ホメロスの神々においては、体は美しくても魂がかなり醜いことが少なくない

反対にソクラテス自身は、その醜い外見が内面の美しさを覆い隠している

オスカー・ワイルドが『ドリアン・グレイの肖像』の中で、美に関して体と魂の間に存在し得る不一致を指摘する前に、古代ギリシア人はカロカガトス(καλοκἀγαθός=善美⇒心身の調和)が理想に過ぎないことをよく知っていたのである


しかし、どのような美が本当に重要なのだろうか

体の美しさなのか魂の美しさなのか

そして、なぜソクラテスは、アルキビアデスによれば、前者を蔑視するのか

まず、ピュロンの前にプラトンが同意するように、時に翻弄される体の次元のことは大したことではない

サッフォーは「美は見ている間しか止まらない」と書いている

しかし他の美もあるとして、「今日の美は明日の美になる」と付け加えている

なぜなら、とプラトンは言う

ソクラテスの体がずっと前に原子の塵になったとしても、彼を「これほどまでに完璧な美しさ」を持った魂にした内なる知恵は、我々をいつも照らしているからである、








2021年9月2日木曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(21)



















しかし、芸術のニヒリストの漂流が教えていることは、芸術が我々にいつも美を提供してくれると期待してはいけないということである

幸いなことに、それでも美は常にここにある

それは、景色であり、廃墟であり、日没であり、虹であり、蝶であり、花であり、笑顔である

古代ギリシアのエリスオリンピアピュロンが自分のニヒリズムが反駁されているの知るには、自分の周りを見回すだけでよかった

ピュロンとは反対に、ギリシア人は一般に世界の美しさに対する目を持っていた

プラトンは「この世界、生まれたものの中で最も美しい」と言い、ヘラクレイトスは「最も美しい秩序、それは世界の秩序である」と言った

アリストテレスの対話の中の言葉は華麗であると、ここに引用するキケロは言う
地下の明るい、彫像やフレスコ画で飾られ、世界の幸福であると見做される人たちの家に溢れているようなすべての家具が具わった綺麗な住まいにずっと住んでいた人がいたと想像してみよう。これらの人たちは地上に行くために彼らの洞窟を出ることは決してなかっただろうが、威厳と権威で刻印された神々が存在することは噂で聞いていただろう。そして暫くして、地面に通路が開き、彼らは地下の住まいから脱出し、我々が住むところに辿り着くことができたとしよう。それから、彼らが突然陸や海や空を見た時、雲の宏大な広がりと風の強さを観察した時、太陽に気付きその大きさと美しさだけでなく、空一杯に広がるその光によって昼を作り出す時に及ぼすその効果的な活動を認める時。そして夜、暗闇が地上を被っている間、彼らは星の色とりどりのタペストリーで飾られた空全体を、満ち欠けする月の変化を、すべての星が昇り沈むのを、そして星の永遠に続く決まった普遍の運行を見た時ーーこれらすべてを見た時、彼らは神々が存在すること、そしてこのような壮大な驚嘆すべきものは神々の作品であることを信じただろう。

神々については横に置き、世界の美に対する賛歌に止めることにしよう

美が確実に感知されるためには、世の中で「大家とか所持者」に成ろうとする人の目ではなく、観想生活者の目が前提となる







2021年9月1日水曜日

過去を振り返りながら整理する





























昨日も触れたが、このところフランスからの荷物の整理を毎日1時間ほどやっている

なぜかそれ以上はやる気にならないからだ

機械的にものを動かすというのではなく、一つひとつ中身をチェックしながら選別する作業を入れている

その中で見つかるメモのようなものを読んでいると、その時々の記憶が押し寄せてきて、時間は消えている

過去にはいろいろなことが詰まっていることを味わいながらのかけがえのない時間となっている


ということで、最初はどうなるのかという感じだったが、部屋は少しずつ変わってきている

その変化は微妙なので、記録しておかなければ気付かないのだが、、

ただ、さすがに今日は、これまで本の山だったところにかなりのスペースができたことが分かった

亀のようなペースで毎日やっているうちに、今残っているものもどこかに収まるようになるのかと思うと嬉しくなる


それと同時に、日本を出る前の荷物も手付かずのまま残っていることが分かった

より正確には、眼には入っていたのだが、意識の外に置いていたということだろう

今日、こちらにも少しずつ手を加えていこうかという気持ちになってきた

亀のような歩みで