2021年9月2日木曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(21)



















しかし、芸術のニヒリストの漂流が教えていることは、芸術が我々にいつも美を提供してくれると期待してはいけないということである

幸いなことに、それでも美は常にここにある

それは、景色であり、廃墟であり、日没であり、虹であり、蝶であり、花であり、笑顔である

古代ギリシアのエリスオリンピアピュロンが自分のニヒリズムが反駁されているの知るには、自分の周りを見回すだけでよかった

ピュロンとは反対に、ギリシア人は一般に世界の美しさに対する目を持っていた

プラトンは「この世界、生まれたものの中で最も美しい」と言い、ヘラクレイトスは「最も美しい秩序、それは世界の秩序である」と言った

アリストテレスの対話の中の言葉は華麗であると、ここに引用するキケロは言う
地下の明るい、彫像やフレスコ画で飾られ、世界の幸福であると見做される人たちの家に溢れているようなすべての家具が具わった綺麗な住まいにずっと住んでいた人がいたと想像してみよう。これらの人たちは地上に行くために彼らの洞窟を出ることは決してなかっただろうが、威厳と権威で刻印された神々が存在することは噂で聞いていただろう。そして暫くして、地面に通路が開き、彼らは地下の住まいから脱出し、我々が住むところに辿り着くことができたとしよう。それから、彼らが突然陸や海や空を見た時、雲の宏大な広がりと風の強さを観察した時、太陽に気付きその大きさと美しさだけでなく、空一杯に広がるその光によって昼を作り出す時に及ぼすその効果的な活動を認める時。そして夜、暗闇が地上を被っている間、彼らは星の色とりどりのタペストリーで飾られた空全体を、満ち欠けする月の変化を、すべての星が昇り沈むのを、そして星の永遠に続く決まった普遍の運行を見た時ーーこれらすべてを見た時、彼らは神々が存在すること、そしてこのような壮大な驚嘆すべきものは神々の作品であることを信じただろう。

神々については横に置き、世界の美に対する賛歌に止めることにしよう

美が確実に感知されるためには、世の中で「大家とか所持者」に成ろうとする人の目ではなく、観想生活者の目が前提となる







0 件のコメント:

コメントを投稿