しかし、対話や討論に入るのは、すべての哲学者ではなく、幾人かの哲学者である
選択がなされるのである
ベルクソンはヘーゲルを無視し、他の人はマルブランシュを無視する
多くの哲学者はモンテーニュを無視する
このような選択が偶然の理由ーー言語の知識がない、出会いの偶然、教師の影響ーーに依らない時は何に依るのだろうか
まず、瞑想が原初の経験の核心について行われるが、それは必ずしもすべての人で同じではない
ある人にとっては、愛の経験であるかもしれないし、他の人では悪の試練であったり、時間の経過の感覚であったり、あるいは数学が与えてくれる純粋な悦び、あるいはまた美しいものを前にした時の驚きであり賛美である
我々の決定的な経験はそれぞれを問題提起に導く
例えば、苦しみに喘ぐ子供の苦悩を前にして、どのようにして神を信じるというのか
そして、神を信じている人たちーー聖アウグスティヌス、マルブランシュ、ライプニッツ、、、ーーに向き合うことになるだろう
子供の苦悩のために、彼らが何をやるのかを問うために
あるいは、愛に取りつかれ、ヘルダーリンが言ったように、愛される存在は「神が身を包む衣服」であることを発見しようと考える時、どのようにしてルクレティウスの皮肉に取りつかれないようにするのか
どのようにして自分の経験を堅固なものにするためにプラトンに助けを求めることをしないようにするのか
あるいは、もし時間が我々とは独立して均質に流れているという生々しい感覚を持っているとすれば、我々は時間とは何なのかと問い、アリストテレスやプロティノスに助けを求めるだろう
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