2021年9月13日月曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(4)

























体系を始める人の哲学は、理性を与えず、現実の全体を知ろうとする知に占める位置を正当化することなく、科学や特定の研究分野に任せないようにする

人間は存在の全体のなかで理解し、理解し合おうと努める

全体の科学としての哲学は、それが何であり、それが何を意味しているのかを語る

わたしは常に理解しようとしてきたと言った

それでは何を理解しようとしてきたのか

それはわたし自身であり、人間である

そのために、人間がいて、わたしが存在する只中のこの全体を、現実を理解することであった

ところで、なぜわたしは体系だけで満足しないのか

そこで満足すると、体系を始める人自身のように、問い掛けを止めるだろう

しかし、問い掛けを止めることは哲学の性質に反するのである



ソクラテスは、彼の作り物の人生と彼の悲惨を齎した意見を伝えるために、誰彼構わず問い掛けた

わたしはいろいろな哲学者を調べてみた

まず、若い時に体系を始めるのは自然のことである

わたしは見事な構造に感嘆した

デカルト、マルブランシュ、ライプニッツ、またクリュシッポス、エピクロスにおいて、わたしは多くの美を見た

(勿論アリストテレスにおいても。しかし、「体系」という言葉は相応しいだろうか。
そして勿論プラトンでもそうだが、ここでは「体系」という言葉は相応しくない)

しかし、美がそこにあったとしても、真理はそこにはなかった

なぜなら、ありそうなこと、真実らしいこと、首尾一貫していることは、真なるものではないからだ

あるいはもし、偶然にも他の体系より体系の一つにより真なるものがあるとすれば、それを確かめるために他の科学が必要だっただろう

確かに、ヘーゲルはそのような科学を提起しているように見える

しかし、それが他の哲学を正しく評価するとしても、それは哲学の部分であり、ヘーゲルの真理であるか、あるいはそのように見えるに過ぎない

やがてわたしにはヘーゲルが本質的なもの、すなわち哲学者というものを忘れているように見えたのである

なぜなら、もしエピクロスの原子がヘーゲルの『論理学』の中で考えられ、原子論的なものがヘーゲルの体系の一つの契機であるとしても、エピクロスはヘーゲルの契機あるいは部分ではないからである






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