しかし、この賢明さの源泉は何なのか
裁判官を前にして、あるいは死の瞬間においてソクラテスが覚えた充足感はどこから来るのか
モンテーニュはその説明をしていない
彼はソクラテスの力と、その力が理論哲学や学説あるいは体系からではなく、彼自身から出ているものであることを認めている
しかし、この力はどこから彼の元に来るのだろうか
もし我々が言うことができるとすれば、我々もまたソクラテスの最高のレッスンが何であるかを知ることになるだろう
彼の行動とそれを支えるエネルギーの原理を何らかの方法で隠すどころか、ソクラテスは「わたしは愛している」と明確に言う
ソクラテスがアテナイの通りや広場や公園を闊歩し、商人のカウンターの近くに立ち、店に入り、毎回、市民や外国人に「兄のように語り掛け」、彼らの質問に答え、あるいはまた彼らに質問し、問いから問いへと行きながら彼ら自身をより良くするために自分自身を知るように導くようにするのは、ソクラテスが彼らを愛していたからである
真の「隣人愛」以外の何物でもないソクラテス的愛で愛すること
それはより良くしたいということである
自分自身のことは気に留めず、仲間の市民をより良くすることだけを気に掛け、ソクラテスはアテナイの人々の中で一日を過ごす
30年の間、彼は彼らを愛することだけをやり続けた
彼が自身の人生に目をやった時に生まれる充足感はそこから来るのである
そこからまた、死の瞬間の充足感も生まれるのである
「クリトンよ、我々はアスクレピオスに一羽の雄鶏の借りがある」がソクラテスの最後の言葉であった
彼は一人ではなく、正真正銘の子、彼の魂の子に囲まれて死ぬのだから、そして彼は彼らの中で生き続けるのだから、彼は死を解放し、癒したのである
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