2020年1月30日木曜日
哲学と哲学史(6)
歴史的再構成(B)が既に出された問題を扱い、学説史(D)には殆ど哲学的意味がないと仮定する
そうであれば、それに代わるのはジャンル(A)の理性的再構成と(C)の精神史の間になる
これらは哲学と哲学史が相関するとする主張(2)と相互に依存するとする(3)の主張と相性が良い
クロード・パナッシオによれば、我々には説明的な語りと教義による再構築という方向性がある
前者は出来事がどのように繋がっているのかを説明することにより、一つのシナリオを提示する
後者の理性的な再構築では、オリジナルのテクストから教義の中身を再構成しようとする
そこで重要になるのが、方法論における要求でもある二つの原則である
一つは忠実さで、研究している教義を裏切らないこと
もう一つは妥当性で、過去の著作を読む理由が我々の哲学的問いに対する答えを見つけるためなのかという点
理性的な再構成は、哲学的重要性を正確に評価しながら、過去の考えをできるだけ合理的な形で提示する
歴史的再構築との違いは、現代的性格を十分に引き受け、そこから気を逸らさないようにすること
精神史との違いは、理性的な再構成に特有の立論と評価の次元にある
つまり、概念の発展の意味を表す歴史的な絵を描くのではなく、テクストにある議論を再構成するのである
その目的は議論の評価で、それが正しいのか間違っているのかをできる限り知ることなのである
まだ続きはあるようだが、このテーマはここで終わりにしたい
2020年1月29日水曜日
哲学と哲学史(5)
今日も昨日の続きを読んでみたい
テーマは、ジャンル(D)の学説史にはどんな価値があるのかについてである
学説史は一つのものの後に別のものが来るので、何かを知った印象を与えるためか人気がある
しかし、専門の哲学者の目には良く映らない
事実、学説史は歴史的、哲学的探求が成されないまま教義を単純に並べたものとして提示される
まず、学説史はジャンル(C)の「物語としての哲学史」と共通点がある
しかし、学説史の物語は(C)とは対照的に大きな物語がなく、退屈の連続でしかない
そこには思索の活力も、学説の発展に必要な理由が齎す哲学的な意義もない
従って、簡単に逸話に陥るのである
第二には、そこにあるのは現代の哲学的問題であるよりは、月並みなすぐに哲学的だと分かる問題である
例えば、人生の意味、善悪の区別、最良の政治体制というような問題である
「プラトン、アウグスティヌス、デカルト、カント、ヘーゲル、ベルクソンにおける人生の意味」といった具合である
第三には、哲学的主張とそれが生まれた議論を分断する
それを支持する理由を挙げずに、結果だけを示す傾向がある
学説史家はアプローチの多様性や哲学的思考のダイナミックな性質に鈍感なのである
結局、学説史はこれといった理由のないテーゼのカタログに過ぎない
唯一の価値は、覚書になるということである
プイヴェ氏の学説史の評価はかなり低いようである
(つづく)
2020年1月28日火曜日
哲学と哲学史(4)
本日の話題はジャンル(A)の理性的な再構成で、哲学史を逆に辿るというお話になる
(A)のやり方を採る者は、過去の哲学者を理解するためには現代の問題から出発する必要があると主張する
アンソニー・ケニーによれば、ウィトゲンシュタインは中世のトマス・アクィナスの理解に影響を及ぼした
ウィトゲンシュタインは、内省により我々の心的内容に到達できるとする現代哲学の考えを批判した
ここで言う内省とは、内にある我々の信念、考え、感情、意志などを想像することである
目には見えない「もの」が精神の中にあり、それを掴むというイメージだろうか
ウィトゲンシュタインはそれとは異なり、我々には心的で感覚的で知的な能力を持つと考えた
精神を能力として捉えたのだろう
しかしそれは、我々の中に私というエゴがあり、それが信じ、考え、感情や意志を持つことを意味しない
彼は心身二元論も唯物論や物理主義も強く拒否した
精神は能力の総体であり、心的状態が集まる場ではないとする彼の考えがトマスの魂の哲学の理解を可能にした
ケニーによれば、デカルトの二元論の哲学が能力として精神を見るトマスの哲学を受け入れ難いものにした
その意味で、ウィトゲンシュタインを読むことはトマスの哲学理解の準備になるだろう
また、トマスの哲学の中に現代哲学の問題解決のヒントが見えてくることがあるという
(つづく)
2020年1月27日月曜日
哲学と哲学史(3)
今日は曇りだが、太陽が覗く穏やかな天候だった
向かいのグラウンドからは選手の掛け声や声援が聞こえてくる
春が来たかのようであった
今日のテーマは「太陽の下に新しきものなし」なのか、あるいは「大きな物語としての哲学史」なのかである
つまり、哲学の歴史に新しいものはないのか、時代を画す哲学が織り成す物語が哲学史なのかの問題である
昨日、哲学の歴史的再構成(B)は、哲学と哲学史が独立しているという主張(1)と相性が良いと書いた
しかし実際には、(B)は哲学と哲学史が同一であるという主張(4)とも相性が良い
哲学史の重要なテクストを検討すると、殆どすべての問題は過去の哲学者が考えていたことが分かる
歴史の中でその問いに対する回答も提示されている
今日の哲学は、歴史の諸相で他の形を採ってすでに表れていたものを再検討することである
現代の哲学者が何らかの主張をした場合、哲学史家は「誰某がすでに言っていますよ」と指摘するだろう
(この感覚は、哲学に入ったかなり早い時期からわたしの中に生まれたものと共通する)
つまり、哲学において新しいものがあると考えるのは単純すぎるだろう
しかし、すべての主張や見解が哲学史の中にないのではないか
従って、不変の哲学的問いにより良い解を与えるために哲学するというのはナイーブである
哲学は哲学史である
哲学者の対象は、議論を評価しながら検討する主張や見解ではなく、テクストである
過去の哲学者はテーゼを述べ正当化するというが、実際にはテクストを読んでいる
それをさらに明確にし、変形し、再解釈しながら
テクストを検討するしか哲学に残されていないとすれば、哲学は完成したと言えるだろう
フランスでの哲学教育はこの姿勢を採っている
哲学史に依存しない現代哲学という考えに全く意味を与えていない
哲学を教え哲学するということが、重要な哲学者のテクストに没頭することになっている
この姿勢は哲学史を大きな物語にするというジャンル(C)と全く異なっている
(C)では、哲学史が急展開に次ぐ急展開のシナリオのようになっている
(C)の主張は、現代哲学は歴史の物語の中でしか理解できないというものである
従って、哲学と哲学史が独立しているという(1)の主張とは合致しない
寧ろ、哲学と哲学史が相互に依存するという(3)の主張と相性が良い
さらに、哲学と哲学史は同一であるとする(4)の主張を想定するやり方でもある
これは哲学者が提起する議論や主張ではなく、議論や主張についての物語から構成される
過去の哲学者は歴史的状況に捕らえられているため、自身を理解する最良の立場にはいないと考えている
哲学と哲学史が相関するという(2)の主張は、ジャンル(C)では難しいようだ
(つづく)
2020年1月26日日曜日
哲学と哲学史(2)
今日も終日快晴
午後から街に出るもデモのためトラムが止まっていたため早めに戻った
今日も「哲学と哲学史」の続きを読みたい
歴史的再構成というジャンル(B)が最も相性が良いのは、哲学と哲学史が独立しているという主張(1)である
哲学的概念の歴史的再構成は哲学史である
これは哲学に対して自立している
なぜなら、過去の哲学者の知が現在の問題をどのように解決するのかを示すことが目的ではないからだ
ローティによれば、このやり方は二つの形を採る
一つは、研究する著者の時代のコンテクストや行われていた論争を強調すること
アラン・ド・リベラの言葉を使えば、「哲学的考古学」となる
もう一つは、哲学体系の研究を中心にした歴史をまとめること
マルシャル・ゲルーや V・ゴールドシュミットなどの仕事を指すために用いられた「構造的歴史」に当たる
哲学的考古学は、哲学的主張が属する領域の中でどのように生まれたのかを理解するものである
基本的な考えは、文章は他の作品から借用した文章によって解釈することである
文章を構成する言葉を参照して解釈することではない
過去の哲学的主張は我々が問う問題に対する回答ではない
つまり、過去の哲学者が歴史を超えた不変の問いに対する回答を出したという視点はない
その哲学者が提出した問いに導いた問題意識の地平が何であったのかを明らかにすることである
もう一つは、哲学史における構造的方法である
哲学者の教義は個別に理解すべき主張の合計ではない
それは関係性を持つ体系で、全体への参照なしには理解できないものである
ある著者のテクストを読むということは、その体系全体の中での意味を理解することである
テクストが表現する思想よりは構造に重点を置く
歴史家の対象はテクストであり、著者が考えたことではないのである
いずれの場合も哲学史が哲学的テクストの科学になっている
現代的な哲学的問いに対する回答を探すのではなく、テクストの中身を明らかにすることになっている
勿論、そうすることにより哲学的に考え、現代的問題に近づくことができる
しかし、そこには時代錯誤や内容の改変の危険性がある
結局のところ、現代哲学と哲学史は別物で、独自に発展可能である
(つづく)
2020年1月25日土曜日
哲学と哲学史(1)
またプイヴェ氏の『現代哲学』を読み進むことにしたい
事の成り行きとは言え、面白い展開である
今回のテーマは哲学と哲学史の関係
現代哲学とは瞬時のものなのだろうか
少なくともフランスでは、哲学研究は哲学史の重要な一部を構成している
過去の哲学者を読むのが教育の大部分を占め、現代の哲学者はなおざりにされる
哲学は過去とどのような関係を結んでいるのか
哲学教育において、哲学史がこのように主要な位置を占めるのは当然のことと言えるのか
哲学史の理解の仕方の多様性は、現代哲学の多様な局面を照らし出すことを可能にしている
哲学史と哲学の関係についての研究は、現代哲学とその問題点の研究と何らかけ離れていない
20世紀の哲学者が過去の哲学者との関係をどのように考えていたのかを検討すること
それが現代哲学に関するメタ哲学的省察を可能にするのである
哲学と哲学史に関して4つの主張がある
1)哲学と哲学史は全く独立している
2)哲学と哲学史は関連しているので、現在の研究と過去の哲学者に共通する問題を検討する
3)哲学と哲学史は相互に依存している
4)哲学と哲学史は一つのものである
リチャード・ローティによれば、哲学史の語り方には4つのジャンルがあるという
A)理性的な再構成
過去の哲学者の議論を現代の問題に当て嵌めるように再構成する
B)歴史的再構成
重要なことは研究される教義に対する忠実さで、歴史的コンテクストや元々の論述を研究する
C)精神史
歴史的人物を結び付けて劇的な物語を作り、どのように我々が現代の問題を考えるようになったのかを示す
パラダイムとなるのはヘーゲルの作品で、ハイデッガー、フーコー、アラスデア・マッキンタイアに見られる
D)学説史
タレスとかデカルトに始まり、伝統的な哲学的問題について考えた哲学者を経て同時代人で終わる
この場合、予め哲学の根本問題として決められた問題を扱う
(つづく)
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