2020年5月25日月曜日
哲学における論理学の役割(21)
論理学の哲学と哲学的論理学(4)
私がここでやりたいことは、これらの問題を検討することではなく、哲学的問題の宝庫に注意を促すことである
それは、「論理学の哲学」と「哲学的論理学」という論理学である
哲学の金塊を採掘する努力が推奨されるべきである
恐れがあるのは次のことである
論理学は自称本物の哲学の無礼で最悪の宿敵であるという主張を真に受けた学生が不幸にも道を間違えることである
それは彼らを騙すことになる
全ての哲学初学者は、自らを立言の厳密な分析者としてよりは、概念の創出者(それがどんなものであれ)として見る
カントの表現を借りれば、哲学における「偉大な権威」という品位は、論理学や哲学的論理学に対する軽蔑を誇示する哲学者のスタイル方の中に見られる
もし哲学の学生が論理学をやらなければならないとしたら、それは論理学のためというより論理学についての哲学的省察のためである
しかし、特定の専門性を習得するためには十分な真剣さをもって行うことが前提となっている
結局のところ、論理学はある哲学者が間違ってそう信じているような論法の習得ではなく、哲学の王道なのである
2020年5月23日土曜日
哲学における論理学の役割(20)
論理学の哲学と哲学的論理学(3)
ここで、哲学的論理学の問題点の一例を挙げたい
わたしが「ボヴァリー夫人は夫を裏切った」と言う場合、それは真か偽か、真でも偽でもないのか
改めて、それは意味論の問題である
今回は、問われているのが虚構の記述の問題だということである
その記述に真理の価値はあるのか
もしそうだとすれば、その根拠はどこにあるのか
存在しないが真実味がある範疇や状況なのか
「金の山」や「四角い丸」についてアレクシウス・マイノングが提示したように
「ボヴァリー夫人は夫を裏切った」という発言を理解する人の頭の中にある考えなのか
そうだと言えるが、「フローベールの小説において」と加えるならば、ということではないだろうか
検討すべき他の可能性は、まだ多数存在している
架空の発言は根拠がなくても意味を持つ限りにおいて?
(なぜならそれは何物にも基づいていないから)
これらの解決にはそれぞれ長所と短所がある
あるものは、ボヴァリー夫人に関して我々が真か偽を言うことを可能にするように見える
しかしそれは、奇妙な現実の存在を仮定することによっている
ボヴァリー夫人という架空の存在やボヴァリー夫人が夫を裏切ったという考えなどの
しかし、我々はそれなしに済ますことができるだろうか
「ボヴァリー夫人は夫を裏切った」のような発言が何も言っていないことを肯定することなく
このような発言の論理的、哲学的解析は、意味論的、存在論的問題及び美学と芸術の哲学の問題を呼び込むことが分かる
そこで提起されるのは、虚構の問題である
2020年5月22日金曜日
哲学における論理学の役割(19)
論理学の哲学と哲学的論理学(2)
3)基本的な要素として命題を扱う命題論理とは異なり、述語論理においては命題は綿密に分析される
例えば、「すべての x はFである」あるいは「ある x はFである」のように書かれる
その際、「数量詞」、「変項」、あるいは特定のものを意味する固有の用語を用いる
「数量詞」の中には、「すべての」のような普遍的なものや「がある」のような実存に関わるものがある
ところで、固有の用語とは何を言うのだろうか
クリストフとかパリのような固有名詞のことなのか
クリストフとかパリのような固有名詞のことなのか
「わたし」、「あなた」、「彼」、「これ」、「あれ」は何を指しているのか
限定された「現在の共和国大統領」、あるいは「現在のフランス王」と今言う場合はどうなのか
固有名詞は意味を持っているのだろうか
「グラス1杯のビール」が固有の用語であれば、「ビール」もそうなのか
「19h45のTGVがナンシー駅に到着」という出来事は、TGVが20hに着いた場合に固有の用語なのか
9という数字は何なのか
「個別の」とか「固有の」とは何を意味しているのか
要するに、命題論理の哲学的解釈はパンドラの箱を開けるのである
そしてその中には、形而上学的、存在論的、意味論的な悦楽が入っている
4)述語論理の述語とは何を意味しているのか
もしわたしが「神は存在する」と言うとする
その場合の「存在する」は、「アルノーは大きい」の「は大きい」のような述語になるのだろうか
それに対して、「NO」と答えたくなる
「存在する」は何かの特徴を示すものではないからだ
カントの伝統を継ぐ議論では、「xは怒っている」と言えば、「そして彼は存在する」と加える必要がない
「xは存在している」と「xは白髪である」という記述の間には顕著な違いがある
例えば、「ロバは鼠色である」は、「すべてのロバ」あるいは「あるロバ」についての記述であり得る
「ロバは鼠色ではない」は、「すべてのロバ」あるいは「あるロバ」は鼠色ではないことを意味し得る
反対に「ロバは存在する」は、「すべてのロバは存在する」あるいは「あるロバは存在する」ということではない
ロバが存在すると肯定することは、すべてあるいはあるロバについて何かを言うことではない
ロバが存在すると言うことである
「ロバは存在しない」ということは、ロバがいないということである
ロバが全くいないことでも、ロバの中の何頭かが存在しないことでもない
限定された「現在の共和国大統領」、あるいは「現在のフランス王」と今言う場合はどうなのか
固有名詞は意味を持っているのだろうか
「グラス1杯のビール」が固有の用語であれば、「ビール」もそうなのか
「19h45のTGVがナンシー駅に到着」という出来事は、TGVが20hに着いた場合に固有の用語なのか
9という数字は何なのか
「個別の」とか「固有の」とは何を意味しているのか
要するに、命題論理の哲学的解釈はパンドラの箱を開けるのである
そしてその中には、形而上学的、存在論的、意味論的な悦楽が入っている
4)述語論理の述語とは何を意味しているのか
もしわたしが「神は存在する」と言うとする
その場合の「存在する」は、「アルノーは大きい」の「は大きい」のような述語になるのだろうか
それに対して、「NO」と答えたくなる
「存在する」は何かの特徴を示すものではないからだ
カントの伝統を継ぐ議論では、「xは怒っている」と言えば、「そして彼は存在する」と加える必要がない
「xは存在している」と「xは白髪である」という記述の間には顕著な違いがある
例えば、「ロバは鼠色である」は、「すべてのロバ」あるいは「あるロバ」についての記述であり得る
「ロバは鼠色ではない」は、「すべてのロバ」あるいは「あるロバ」は鼠色ではないことを意味し得る
反対に「ロバは存在する」は、「すべてのロバは存在する」あるいは「あるロバは存在する」ということではない
ロバが存在すると肯定することは、すべてあるいはあるロバについて何かを言うことではない
ロバが存在すると言うことである
「ロバは存在しない」ということは、ロバがいないということである
ロバが全くいないことでも、ロバの中の何頭かが存在しないことでもない
2020年5月21日木曜日
哲学における論理学の役割(18)
論理学の哲学と哲学的論理学(1)
論理学の哲学は、論理学者によって使われる正式な道具と概念を対象としている
哲学的論理学は、哲学の伝統的な問題の検討において論理的解析をすることから成っている
そう言えば、これは最も伝統的な哲学のやり方の一つであった
ここに、論理学の哲学において扱われる問題のいくつかの例を挙げたい
1)命題論理の「命題」とは何を言うのだろうか
「猫は絨毯の上にいる」という文が p で記号化されるとしよう
その場合、一連の言葉、一つの意味を持つ一文、誰かが「猫は絨毯の上にいる」と言うことを形式化したのだろうか
それは「意味論」の問題であり、言語と現実との関係に関する「哲学的」省察に関わってくる
2)論理演算子は、「と」「あるいは」「もし・ならば、・である」のような普通の言語を十分に表しているのか
真と偽の二つの価値しか存在しないのか
1)と同様、それは意味論に関するものである
そのためには、形式的言語と非形式的言語の関係について哲学的省察をすることが求められる
2020年5月20日水曜日
哲学における論理学の役割(17)
いろいろな論理学(3)
例えば様相論理において、必然性と可能性の演算子が用いられる
「・・であることは必然である」、「・・であることは可能である」などである
時相論理においては、時間の矢を考慮に入れる
3値論理では、一つの命題に対して真・偽という二つの価値しかないのではなく、第三の価値(未確定)がある
形式論理学の領域におけるこのような発展の豊かさは印象的である
その後に、こう続けることができるだろう
「そうだがしかし、それが哲学とどんな関係にあるというのか
それは、概念の創出を天職としている哲学者を回り道させるのではないか」
それは哲学のものであり、興味を持つに値するのか
アリストテレス(『分析論前書』)、ストア派の哲学者、多くの中世哲学者、ライプニッツは疑問に思わなかっただろう
彼らにとって、普通の言語を形式化する可能性や議論の論理的機能の研究は哲学的に決定的である
確かに形式論理学の発展は、哲学的問いかけと何ら密な関係は維持していないかもしれない
見習い哲学者は、以下のような論理学者である必要はない
自分自身のために考えられた形式的体系や抽象的に検討された推論の手順に熟達した専門家
反対に、見習い哲学者にとって論理学は二つの利点を持っている
第一に、哲学にとって形式論理学は極めて重要な対象であること
第二に、すべての哲学的問いの集合は論理的処理を要求していることである
このように、論理学は哲学にとって二つの意味で興味深いものである
つまり、「論理学の哲学」と「哲学的論理学」の枠組みにおいてである
2020年5月19日火曜日
哲学における論理学の役割(16)
いろいろな論理学(2)
論理学は、形式的(記号を用いる)であると同時に哲学的な研究分野である
形式的とは、それが公理と規則の形をとる論理的体系から成っていることである
その体系は、他のものからある式を導き出すために、認められた記号と規則の連なりから構成されている
これらの論理的体系は演算として機能している
そこから情報科学やコード化されたデータの自動処理システムの発展における体系の根本的な役割が生まれる
コンピュータを使っている人は、論理学が何の役にも立たず、何も齎していないと言うことができるだろうか
これらの体系によって議論を形式化し、それが有効か、矛盾しないか、根拠があるか否かを決めることができる
それらは含まれる論理演算子に応じて、普通の言語による記述を形式化するのに多少なりとも適している
普通の言語の細かい形式化の要求に応じる論理的体系の発展にとって、20世紀は特に豊かな時代であっただろう
見習い哲学者が「古典的」とも言うべき命題論理と述語論理を主に学ぶ
そうだとしても、より繊細な表現力がある「非古典的」論理体系は存在する
例えば、様相論理、義務論理、直観主義論理、認識論理、時相論理、3値論理である
さらに、論理演算、ファジィ論理、矛盾許容論理などもある
この繊細さは、代わりに論理的決定可能性のような特定の形式的特性がないという恩恵を受ける
我々は論理学及び論理学と哲学の関係にとって素晴らしい時代に生きている
そのことを有効に利用し、楽しむべきではないのか
(つづく)
2020年5月18日月曜日
哲学における論理学の役割(15)
いろいろな論理学(1)
しかし、論理学が20世紀の哲学において歴史的重要性があれば、分析哲学者はその有用性を誇張しなかったのだろうか
論理学をやることによってじっくり考えることを学ぶということは、疑わしい
論理学に熟達することが厳密に哲学する能力を保証するという証拠は何もない
第一に、始める前提が疑わしかったり間違っているとすると、厳密な論理的推論をすることは何の役に立つのか
これは、特定の、ひょっとすると全ての分析哲学者を非難できることである
彼らは哲学の真の争点について間違っているように見える
非の打ちどころのない推論をすることではなく、明らかにする展望を提案することである
彼らの議論の論理的構成が、時に彼らを知的傲慢さに導くことも加えておきたい
第二に、述語論理や最も洗練されたアルゴリズムの第一人者は、厳密に形式的な領域を出た途端に突飛な考えを採用する
それは一部ではあるが、科学者や数学者でもよくある知的態度である
あるいは、彼らはそれが科学の体裁を取っているか否かは別にして、流行りの考えや時代の空気を取り入れる
このように、分析哲学者や論理学者は厳密さを取り違えていないだろうか
論理学は彼らに本当は何を教えたのだろうか
(つづく)
2020年5月16日土曜日
哲学における論理学の役割(14)
哲学史における論理学(3)
「もの・こと」をこのように語るのが正しいのだと仮定する
その場合、教養課程や哲学の道具として言語の解析や帰結理論に関わる論理学の排除は、哲学史の余談になる
全体的に見ると、これは長い歴史の中の2世紀を表している
20世紀のフランスでは、デカルトの明証主義は放置されたままであった
しかし、形式的な方法や論理学の拒絶は存続していた
論理学は何も生み出さない、真の思考の方法ではない、哲学者は遣り過ごしてもよい
このような意見が優勢であり続けたのである
真の思想家は天賦の才能(ingenium)を持っている
ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』の序は、この点から見ると重要である
彼らはこう言っている
論理学的解析は、認識論、言語学、精神分析のように、哲学にとっての「無礼」で「最悪の」宿敵である
宿敵が非難されているのは、かなり曖昧なままなのだが、概念の創出者(哲学者)の思考の自由を攻撃するからである
そこに、論理学を哲学の道具とした哲学の伝統全体との断絶がある
広い意味でこれらの問題を扱ったアリストテレスの論文に与えられた名前の「オルガノン」は道具の意味であった
論理学の拒絶は、20世紀の哲学において重要だったことに関して無理解であったことを物語っている
特にドゥルーズとガタリにおいて明らかである
自分の時代に敏感で、その哲学的思考が時代の深い意味を掴む能力に基づくとされる哲学者にしては意外である
2020年5月15日金曜日
哲学における論理学の役割(13)
哲学史における論理学(2)
それでは、特にデカルトには何が起こったのだろうか
それを理解するためには、『精神指導の規則』の規則第二と第十を読むとよいだろう
デカルトは彼が弁証法と呼び、我々が論理学と呼ぶだろうものの中にある知的競争心に何も反対しなかった
しかし、彼は論理学を形而上学と哲学に固有の方法としては拒否し、数学が構成する方法を採ったのである
デカルトが数学から学んだものは、急いで言えば、特に幾何学において真理の直観的把握が果たす役割である
認識の理想として数学的明証性を提示することは、論理学の形式的な方法の価値に疑義を差し挟むことになる
結局のところ、議論を点検することは、本質の補助的側面にしか過ぎない
『方法序説』や『省察』が書いた認識の苦行について精神の回心を通して至る証拠である
デカルトの思想は17世紀と18世紀に多くの批判の対象になった
しかし、明証性の決定的役割のために、優先的方法としての論理学を拒絶した
それが、この時代以降の哲学に深い刻印を残したのである
この視点から見れば、ライプニッツは輝かしい例外である
フレーゲと分析哲学、一般的にはハノーファーの哲学者とを結ぶ絆は、この点で明らかである
重要なことは、デカルト的で反ライプニッツ的な一般的な傾向である
形式的方法と議論における論理的価値の検討の拒絶である
この反形式主義はフレーゲや一般的には分析哲学者まで続いた
その中には、ラッセル、ヴィトゲンシュタイン、カルナップ、ポーランドのルヴォフ・ワルシャワ学派が含まれる
彼らは数学の前提となっている方法である直観的明証性より、言語や議論の論理的検討の解析に重きを置いていた
(つづく)
2020年5月14日木曜日
哲学における論理学の役割(12)
哲学史における論理学(1)
思想史について何世紀にも亘って意見を述べることは、単純に滑稽ではないとしても無謀なことである
しかし、それをやってみようではないか
読者にはこの話を少し後ろに下がって、いくらかの皮肉をもって読んでいただくようにお願いしながら
現状を理解するためには、それが不可欠なのである
まず、中世における哲学から始めよう
このテーマについて語り始めると、時代錯誤の危険性が大きくなる
18世紀のパリ大学哲学科の学生と今日の学生の間に大きな共通性はなく、その知的世界は大きく異なっている
しかしデカルト以前には、哲学と神学の研究と本格的研究全般は、論理学の学習から始まったことが明らかである
今日の哲学科の学生と中世のパリでサント・ジュヌビエーブの丘に足繁く通う将来の聖職者には多くの共通点がなかった
それと同様に、当時の論理学はフレーゲ以後の正式な学科と同一視できない
中世における論理学(logica vetus=old logics)はまず第一に、アリストテレスのテクストの研究であった
具体的には『範疇論』、『命題論』、ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(アリストテレスへの注釈)である
12世紀の中頃から、新たに再発見されたアリストテレスの3論文と遅れて発見された1つを新しい論理学とした
logica modernum=modern logicsである
3論文とは『分析論前書』、『詭弁論駁論』、『トピカ』で、後から見つかったのが『分析論後書』である
これは用語(言語)とその帰結(議論)の理論である
研究の構成の中心には、自由七科(リベラル・アーツ)がある
言語に関わる三学(トリウィウム: trivium)と数学に関わる四科(クワードリウィウム: quadrivium)に分けられる
三学とは、文法、修辞学、論理学である
それぞれの学生はこれらを必ず実践しなければならなかった
真理に至るためには論理学が不可欠であるという考えが優勢だったのである
(つづく)
2020年5月13日水曜日
哲学における論理学の役割(11)
フレーゲ、あるいは新しいアリストテレス?(5)
ここでフレーゲの思想のまとめのようなものをしようとするものではない
彼の仕事は、数学の哲学の技術的な問題に属するように見える
しかしここで主張したいのは、その仕事は哲学史の流れを大きく変えたことである
分析哲学のすべての流れにとって、同時代の著しい貢献とされるものよりもずっと大きな重要性を持っていた
ニーチェ、フロイト、マルクスは、ラッセル、クワイン、プランティンガ、D・ルイスには並外れた印象を残さなかった
ポール・リクールは、ニーチェ、フロイト、マルクスを「懐疑の大家」(maître du soupçon)と呼んだ
懐疑とは、見かけの下にある現実がどんなものであるのかを疑い検討しようとする精神の在り方を指している
換言すれば、より深い、時に全く異なる現実を隠すものとして見かけを捉える精神である
その精神によって、人間の現実の真の本質や起源が明らかにされてきたのである
3人の「懐疑の大家」が現代哲学のアジェンダを設定したというよくある話は、20世紀哲学の一部にしか当て嵌まらない
論理学の革新はそれ自体が目的ではない
すでに見たように、その革新は哲学の伝統的な問題を新たに解析することを可能にしたのである
論理学の革新が根源的なものかどうかは、フレーゲの著作をどのように解釈するのかによっている
特にフレーゲ以来、命題とその問題点の厳密さ、正確さ、明確な決定が要求されるようになった
それは、正式あるいは半ば正式な方法、少なくとも論理学的手段に頼ることと関係している
ラッセルは「分析と本質的解明の対象となるすべての哲学的問題は、全く哲学的でも論理的でもない」と言った
それは言い過ぎだと判断することもできるだろう
しかし例えば、考えの修辞学や美学、表現の仕方を強調する文学的な哲学のやり方は、一つの流れにしか過ぎない
ある時代には、この流れはマージナルであった
その問題設定は、人生の意味、価値一般の問題、歴史における人間の位置などの壮大で全体に関わるものであった
しかしそれは、哲学の一部でしかなかったのである
存在、概念、知の正当化、帰納的推論などの概念というような、より控え目だが根本的な問題がある
これらについてのすべての哲学的業績は、当然のことながらその始まりから今日に至るまでの哲学に属している
それはフレーゲらの仕事を介してもいるのだが、しばしば忘れられるか、過小評価されているのである
2020年5月12日火曜日
哲学における論理学の役割(10)
フレーゲ、あるいは新しいアリストテレス?(4)
フレーゲはまた、対象と概念の間の識別を提唱した
それは現代哲学における命題解析の基礎にあり、この識別が認められるのか否かということであった
この点から見れば、現在では『哲学論集』に纏められている3つの論文は基本的なものである
それは『関数と概念』、『概念と対象』、『意義と意味』である
同様に重要なのが、3つの『論理的調査』、特に『思想』に関するものである
立言の真理値には、対象である真と偽の2つがあるとフレーゲは主張する
立言はこれら2つに固有の名前である
関数(概念)と対象の識別も、前述した存在論的証明についての考察が示すように、最も重要なものである
概念や関数は飽和状態にはならず、不完全である
それに対して、対象は飽和する
如何なる量化によっても、関数と対象については同時に一般化されないそれは、両者の識別が範疇に関するものであることを意味している
この識別には存在論的意義がある
意味と意義の識別もまた、基本的なものである
「朝の星」と「夕の星」は同じものを外延により示しているが、2つの表現は同じ意味を持っていない
「ピエールは金星が朝の星だと思っている」という文における「朝の星」は「夕の星」では置換できない
表現の意味の認知に関わる理由によって真理値が変わるからである
真理値を変えることなく相互に交換可能な状態(salva veritate)にはならない
これらすべては「命題的態度」や「モダリティ」と呼ばれるものの解析にとって著しい重要性を持っている
命題的態度とは、「を思う」、「を望む」、「を欲する」、「を信じる」など、命題に対する心的態度を言う
これはバートランド・ラッセルに由来する
モダリティは様相性とも言われ、話し手の判断や感じ方を表す言語表現である
例えば、「である必要がある」、「であることが可能である」、「であることが必須である」など
(つづく)
2020年5月11日月曜日
哲学における論理学の役割(9)
フレーゲ、あるいは新しいアリストテレス?(3)
『算術の基礎』において、フレーゲはミルやカントに由来する20世紀後半の哲学的な主要な流れを批判している
フレーゲは基数という概念の解析を展開した
「火星には二つの月がある」のような命題は、「火星の月」という一つの概念についての主張が含まれている
この命題は、「火星の月」という概念に該当する正確に二つのものがあることを主張している
これは、概念とは何かの新しい理論に導く
『算術の基礎』の53節では、存在を主張することは数字のゼロを否定する以外の何物でもないと説明している
存在は「概念の特性」であることを彼は証明した
概念の解析により、神の存在を肯定すると主張する存在論的証明
それは、アンセルムスやデカルトにおけるように「目的を達していない」
換言すれば、神の概念からその単一性もその存在も生じないということである
従って、数の概念の解析は数学の哲学、より正確には最初にフレーゲの関心を引いた数学の哲学のための問題ではない
そうではなく、概念というものの概念について一般的な哲学的省察をするために特化された領域を構成している
これは前述したことの一例でもある
すなわち、哲学とはしばしばある領域で行われた解析や主張された命題から離れた結果を見ることである
フレーゲにとって、真理が論理学の目的であるとする
その場合、真理の認識が述部(真である)によって言葉で表現されるのではない
そうではなく、文章が表明される際の断定的な力の中に見出されるのであるこれは、真理の哲学的概念(と特に定義しがたいその性質)について多くの意味を含むものである
(つづく)
2020年5月9日土曜日
哲学における論理学の役割(8)
フレーゲ、あるいは新しいアリストテレス?(2)
フレーゲは、数学者、論理学者、哲学者である
1879年に出版された『概念記法』(Begriffsschrift)において、正式な言語を仕上げる
その主な新しさは、一般性を表すために量化子(quantifier; quantificateur)を用いたことである
この量化子により、ある命題の全体を言っているのか、部分なのかを明確にできるようになった
フレーゲにとって、論理的関係の表現においては、普通の言葉は曖昧で、不揃いで、不正確である
論理的特徴は、そこでは暗黙の状態のままである
よって、普通の言語で導かれる証明の前提や推論を徹底的には決定できないのである
そのためフレーゲは、論理学の道具として形式の体系を提唱することになる
そのお陰で、前提や議論の完全で厳密な説明の理想が実現した
フレーゲの根本的なテーゼの一つは、「反心理主義」である
それは、心理学は論理学と何の関係もないとするものである
論理学の法則は真理の法則であって、精神の法則ではない
それは、より一般的な真理である
このように『概念記法』は、すべての科学の厳密で完全な推論の発展に一つの枠組みを与えたと見られている
そこで、論理学の「普遍主義」が語られるようになる
(つづく)
2020年5月7日木曜日
哲学における論理学の役割(7)
フレーゲ、あるいは新しいアリストテレス?(1)
1787年、カントは論理学は「終わり、完成したようだ」と断言した
しかし、全くそんなことはない
見かけには騙されるのである
カントはおそらく、次のことを言いたかったのではないだろうか
論理学の主要な法則(無矛盾律、同一律、排中律)はアリストテレス以来変わらず、これからもそのままであろう
無矛盾律とは、pであると同時に non pであることはない(¬(p ∧ ¬p))という法則
同一律とは、pは pである(p=p)という法則
排中律とは、pであるか non p であるかのどちらかである(p ∨ ¬p)という法則
しかし、たとえこれら三つの原理が尊重されていたとしても問題は残っている
それは、この問題についての論争がその後どのように続き、その理由は何だったのかを知ることである
論理学はアリストテレスと共に終わっても完成してもおらず、それとはかけ離れた状態にあった
論理学が経験した重要な革新を知らなかったのはカントである
その変化は19世紀後半から非常に著しいものがあった
無矛盾律を保証できることが疑問視され、排中律も異議申し立てをされたのである
20世紀後半に発展した非古典的な論理学は言うまでもないが
もし19世紀末から20世紀初頭の偉大な哲学者の名前を訊かれたとすれば、特にフランスでは多くの人がこう言うだろう
ニーチェ
フロイト
マルクス
ベルクソン
フッサールさえ挙げるだろう
しかし、ゴットロープ・フレーゲの名前が出ることはありそうもない
誰が彼を知っているだろうか
彼がカント以来最も重要なドイツの哲学者として紹介されれば、その真面目さを疑うだろう
もし、彼は新しいアリストテレスだと言う人がいるとすればどうだろうか
ところで、論理学を新しくすることによって哲学を根本から変容させたであろう人
少なくとも論理学が教養課程になり、特権的な道具となるように
このフレーゲとは一体誰なのか
(つづく)
2020年5月6日水曜日
哲学における論理学の役割(6)
一貫性(3)
ここで言いたいのは、デカルトのコギトが妥当なのかどうかを知ることではない
寧ろ、我々の哲学的命題の含意の中を、論理学のお陰で得られる先に進む能力の哲学における役割を示すことである
そうすることにより、我々が間違っていないという保証として、我々の思考の一貫性を確認するのである
形而上学的命題が意味論や言語哲学に関するものになる時、我々はそれを受け止める準備ができているだろうか
同様に、心の哲学における命題が結果として形而上学に至る時、それを受け入れる準備はできているだろうか
我々の異なる主張の一貫性を保証すること
これこそが、哲学における論理学の根本的な役割である
論理学に割り当てられた哲学の教養課程の役割が、主にデカルト以来、なぜ非常に広範に疑問視されたのか
例えば、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリが、なぜ哲学における論理学の価値を全否定するのか
20世紀の哲学のすべての流れにおいて、一方では論理学は哲学的省察の基礎とされた
他方、論理形式主義に頼ることの妥当性は全面的に拒絶され、時に反哲学的とまで判断されたのはなぜなのか
2020年5月5日火曜日
哲学における論理学の役割(5)
一貫性(2)
例を一つ取ってみよう
デカルトのコギトは、形而上学の領域に属するものである
少なくとも、我々の知の基盤についての探究として、デカルトによって理解されたような形而上学であるが
しかし、それは言語と現実の関係に関する意味論の領域の命題を意味している
我々の心的状態を描くために用いる言葉の意味は、我々の精神の中にある
心的言葉を使用する時の規則は、私的なものである
それは精神と自分自身との関係以外の何物でもない
しかし、私的な規則という概念は矛盾を含むものである
もし一つだけの規則を適用するとすれば、それを正しく適応しているかどうかを知る基準が何もない
規則を適用することと、適用していると思うこととの違いを知ることができないのである
しかしこのような批判から、デカルトのコギトを擁護することもできるだろう
例えば、コギトが心的用語の意味に関する意味論的命題を意味しないことを示すこと
あるいは、コギトがそれを生み出しているとしても、私的規則という非論理的な概念を意味しないことを示すこと
さらに、この概念がそれほど非論理的ではないことを示すことによってである
2020年5月3日日曜日
論理学についての回想
このところ、哲学と論理学の関係について触れている
ここで、論理(学)との個人的な関係について振り返ってみたい
日本にいる時(2005~2007年)だが、フランス語に慣れるためにフランス語のブログをやっていた
そのブログを全部読んだというフランスの哲学教師が、長いコメントを残してくれた
まず、そのことに感激した
その中には重要な指摘があり、今でも気になっているものがある
その一つに、あなたは非常に日本的である、というのがあった
その言葉を、わたしの書くものは感覚的で論理的ではない、と解釈したのである
なぜそう考えたのか分からない
その頃にはフランス人の書くものにも触れており、そう感じたのかもしれない
おそらく、間違っていないだろう
研究者をしている時から次のようなことは感じていた
同じテーマについて日本人とアメリカ人が話すのを聴いた時、アメリカ人の方が分かりやすいのである
日本人の話は全体の構造が見えず、細部に拘る傾向があるように思ったのだろう
これは現在進行中のCOVID-19のパンデミックに対する対応を観ても感じていることだ
2007年からフランスの大学で、科学について考えることにした
そのコースは、LOPHISS(Logique, Philosophie, Histoire, Sociologie des Sciences)というものだった
実はこのコースは論理学とそれ以外の二つに分かれており、わたしはそれ以外を選んだ
無意識のうちに決めていたが、無味乾燥に見えた論理学は最初から視野の外にあったのだろう
フランス人の話を聴いていていろいろなことに気付いたが、その一つにこれがある
自分で「Pourquoi ?(それはなぜなのか)」と問いかけて、「Parce que(なぜならば)」と続けるのである
そうやって相手を説得させるのだと思うが、殆ど無意識の内に行われていると感じるようになった
この二つの関係は何かを理解する時に重要になるが、日本人はこの関係を明確にして話をしないように見える
特に政治家に著しいが、何かの理由を論理的に説明することをしないか、できないのだ
その背後には民主的な精神が欠けているということもあるのだろうが、日本文化のせいもあるのだろうか
あるいは、そもそも思考というものを欠いているのかもしれない
いずれにせよ、「もの・こと」の理解が曖昧になり、従って話も分かりにくくなるのである
「論理的でないものは真ではないが、論理的だからといって必ずしも真ではない。しかし、真なるものは常に論理的である」この言葉には真理が宿っていると考えている
論理が意識に上ってこないところでは、間違ったことが罷り通ることになる
最近の日本政治は目を覆うばかりだが、その端緒として疑っているのは2004年の小泉首相の発言である
イラクに自衛隊を派遣する問題で非戦闘地域とは何かを問われ、「自衛隊が活動しているところ」と答えたのである
自衛隊が行けるのはどういうところかを訊かれたが、その定義を前もってせず、結果からものを言っている
自衛隊派遣ありきの答弁であることがよく分かる
それは「適者生存」における適者とは何かを問われ、生存した者であると答えるのに似ている
前もって適者を定義できないのである
論理的に破綻したことは発言できないという箍が外れ、それが放置された出来事であった
我々の中に、論理などどうでもよいという考えがどこかにあるのだろうか
2020年5月2日土曜日
哲学における論理学の役割(4)

一貫性(1)
哲学課程において論理学に優位な地位を認めている主な理由は、哲学者が真理の概念に重要性を与えていたからである
論理学が本当に重要なのかを問うことは、近現代の哲学のすべての部分の特徴の一つである
それは同時に、論理学の哲学に対する価値を問題にすることでもある
論理的一貫性、簡単に言えば矛盾しないことは、真理に留まることを保証するものではない
反対に、矛盾は我々の考えが間違っていることの指標となる
しかし、もし我々の考えが間違っているとすれば、それは何かを間違って想像することである
間違った信念も矛盾しないことがあるので、一貫性は真理を保証しないとすれば、一貫性の欠如は間違いを保証する
このように論理学は、一貫性の欠如を調べる方法を我々に提供するだろう
一貫性の欠如は、一つのこととその反対のことをはっきり言える簡単な場合を除き、一目瞭然ではない
一般的に、我々は一貫性の欠如を追い詰めなければならない
特定の主張が意味するところを検討すると、我々が真とするものの反対を意味していることに気付くことができる
このように、論理学は哲学において有用に見えるのである
論理学は推論する方法、より一般的には、一つ以上の命題から別の命題に誘導する方法を我々に提供する
このように論理学によって、我々が真であると見做すものの結果をさらに深く見ることができるようになるのである
哲学を次のように定義することが可能になるだろう
哲学とは、我々が真であると考えることから懸け離れた結果を見ることである
Aという領域において、ある人がT-1というテーゼを採用し、Z領域ではT-5というテーゼを採用するとしよう
論理学は、真であるとされるこれら二つのテーゼが両立しないことを我々に気付かせることができる
領域の違いが二つのテーゼの不適合を正当化できなければ、T-1かT-5、あるいは両方を否定しなければならない
しばしば、T-1とT-5が両立しないことは、直ぐに、あるいは直接的には明らかにならない
A領域のT-1はF領域のT-2を意味し、それはH領域のT-3を意味し、それはU領域のT-4を意味すると続く
そして最終的に、T-4がZ領域のT-5を意味することに気付かなければならない
T-1とT-5が両立しないことに気付くのは、最後になってからなのである
2020年4月28日火曜日
哲学における論理学の役割(3)
論理学と共に、あるいはそれなしで(3)
論理学が哲学者に齎すものを自問することにはそれなりの理由はないのだろうか
結局のところ、哲学者が興味を持つのは命題の中身であって、その形式ではない
「にんじんは調理されている」という文を取ってみよう
論理学者は、命題論理において、この文は p で置換できると言う
例えば、「にんじんは調理され、キリンは長い首を持っている」は、p & q で表現される
勿論、q は「キリンは長い首を持っている」である
従って、「もしにんじんが調理されていれば、キリンは長い首を持っている」は p → q で表される
このようなことをしても結論は何も変わらず、哲学者がその勉強をしても時間の無駄である
その魂も失うのではないか
「神が死ねば、すべては許される」
これは何を意味しているのか
自分があるところのものに一人で責任を持たなければならないことを知っている今だから
現代人は神から見放された極端な状態に対峙しなければならない
それを我々に語るのは、「もし p ならば q である」というような論理的解析ではない・・・
少なくともこれが、論理学の講義で、深く実存的な問題を訊かれた時に哲学科の学生が考えることである
その学生に何と答えるのだろうか
それではなぜ、アリストテレスや中世の哲学者が哲学や神学をやることになる時、論理学に優位な役割を与えたのか
ドゥルーズやガタリのような大陸哲学者は、その哲学的価値を非常にネガティブに考えた
それなのになぜ、分析哲学では論理学が決定的な役割を担い続けてきたのか
このような問いを出すことは、その答えがすべての人を満足させるものにはならないかもしれない
しかし、そうすることが現代哲学をよりよく理解することを可能にするのである
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