2020年5月3日日曜日

論理学についての回想




このところ、哲学と論理学の関係について触れている
ここで、論理(学)との個人的な関係について振り返ってみたい

日本にいる時(2005~2007年)だが、フランス語に慣れるためにフランス語のブログをやっていた
そのブログを全部読んだというフランスの哲学教師が、長いコメントを残してくれた
まず、そのことに感激した

その中には重要な指摘があり、今でも気になっているものがある
その一つに、あなたは非常に日本的である、というのがあった
その言葉を、わたしの書くものは感覚的で論理的ではない、と解釈したのである

なぜそう考えたのか分からない
その頃にはフランス人の書くものにも触れており、そう感じたのかもしれない
おそらく、間違っていないだろう

研究者をしている時から次のようなことは感じていた
同じテーマについて日本人とアメリカ人が話すのを聴いた時、アメリカ人の方が分かりやすいのである
日本人の話は全体の構造が見えず、細部に拘る傾向があるように思ったのだろう
これは現在進行中のCOVID-19のパンデミックに対する対応を観ても感じていることだ

2007年からフランスの大学で、科学について考えることにした
そのコースは、LOPHISS(Logique, Philosophie, Histoire, Sociologie des Sciences)というものだった
実はこのコースは論理学とそれ以外の二つに分かれており、わたしはそれ以外を選んだ
無意識のうちに決めていたが、無味乾燥に見えた論理学は最初から視野の外にあったのだろう

フランス人の話を聴いていていろいろなことに気付いたが、その一つにこれがある
自分で「Pourquoi ?(それはなぜなのか)」と問いかけて、「Parce que(なぜならば)」と続けるのである
そうやって相手を説得させるのだと思うが、殆ど無意識の内に行われていると感じるようになった

この二つの関係は何かを理解する時に重要になるが、日本人はこの関係を明確にして話をしないように見える
特に政治家に著しいが、何かの理由を論理的に説明することをしないか、できないのだ
その背後には民主的な精神が欠けているということもあるのだろうが、日本文化のせいもあるのだろうか
あるいは、そもそも思考というものを欠いているのかもしれない
いずれにせよ、「もの・こと」の理解が曖昧になり、従って話も分かりにくくなるのである
 「論理的でないものは真ではないが、論理的だからといって必ずしも真ではない。しかし、真なるものは常に論理的である」
この言葉には真理が宿っていると考えている
論理が意識に上ってこないところでは、間違ったことが罷り通ることになる
最近の日本政治は目を覆うばかりだが、その端緒として疑っているのは2004年の小泉首相の発言である
イラクに自衛隊を派遣する問題で非戦闘地域とは何かを問われ、「自衛隊が活動しているところ」と答えたのである

自衛隊が行けるのはどういうところかを訊かれたが、その定義を前もってせず、結果からものを言っている
自衛隊派遣ありきの答弁であることがよく分かる
それは「適者生存」における適者とは何かを問われ、生存した者であると答えるのに似ている
前もって適者を定義できないのである

論理的に破綻したことは発言できないという箍が外れ、それが放置された出来事であった
我々の中に、論理などどうでもよいという考えがどこかにあるのだろうか

















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