2020年5月1日金曜日

「4月のまとめ」を振り返る




昨日書いた4月のまとめについて、さらに振り返ってみた
と言うよりも、今朝、以下のようなアイディアと共に目覚めたのである
昨日の言葉を借りれば、「誰か」が振り返ってくれたということになるのだろうか

最近、次のような感覚が生まれていると書いた
それは、自分が何かをやっているのではなく、誰かがそれをやってくれているという感覚
自分がやっているのは、誰かがプロジェをやってくれそうなところまでこの体を持っていくことだけである
そのため、自分で考える必要がなくなったので非常に楽になった

この状態は、以前に纏めたある状態と似ていることに気付いたのである
一つは、『医学のあゆみ』誌の「パリから見えるこの世界」第70回のエッセイである
静寂と沈黙の時間、あるいは自己を自己たらしめるもの(2018年7月14日)
2017年夏に気付いたこととして、次のようなことが書かれてある
自分を動かしていると思っているSelf1とそれを観ているSelf2の間のスペースが広がってきたということ
これを今回のことに当て嵌めると、プロジェを進めているのがSelf1だとすれば、それを観ているのがSelf2
つまり、Self2に身を置いていれば、自分は何もする必要がないのである
瞑想的生活の中で、アクターとしてのSelf1から離れることが可能になってきたということではないのだろうか
そう考えている

さらに遡ると、第10回のエッセイにもこれと関連することが書かれている
エルンスト・マイヤーとシーウォル・ライトというセンテナリアン、あるいは100歳からものを観る(2012年11月10日) 
50歳を過ぎたあたりから、今を歩いている自分をすでに100歳になった自分が観ているというイメージが生まれた
階段を登ってくる自分を上の方から観ているもう一人の自分がいるという感覚である
それは、初めて歩いているはずの新しい道なのだが、実はすでにそこを通っているという感覚でもある
従って、安心感が生まれるのである

いずれの場合も、精神の安定に与える影響が甚大であるという点で繋がっているようだ












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