2019年5月30日木曜日

朝の時間は自らの思索に



あやふやな記憶だが、ニーチェは次のようなことを言っていたように思う
ーー 朝の新鮮で貴重な時間を他人の本を読んで過ごすほど愚かで勿体ないことはあろうか。自らの思索に使うのだ!ーー
この言葉が頭に浮かんだからそうしたのではなく、その後で彼の言葉が浮かんできたのである
というわけで、今朝は久しぶりにのんびりと思索の世界に遊んだ
かなりいい時間となったのではないだろうか

見慣れた凡庸な景色がどこか美しいものに見えてきた
主観とは恐ろしいものである





2019年5月28日火曜日

第5回ベルクソン・カフェの二日目、終わる



今夕は、第5回ベルクソン・カフェの二日目が開催された
夕方から雨になった中、参加された皆様に感謝いたします

テーマは「読むことを学ぶ」で、今回も概略を話してから始めることにした
初回に4頁を終え、今回は5頁の予定だったので心配したが、不思議なことに終えることができた
最初に全体を俯瞰するので時間を取るのだが、その方が早く終わるという意外な効果である
これからもこのやり方を採用することにしたい

今回の後半もほとんど古代哲学の特徴、特に魂の鍛錬について議論されている
哲学書は師が弟子を変容させ、自己実現させるように教育している学派から生れる
従って、モノローグの外観を採っているが、その中にダイアローグの要素を持っている
個別の状況における個別の回答を出している
さらに、読む人の精神の進捗状態に合わせて書き方を変えたようである
そのため、全体を通してみると矛盾も出てくる

後世の哲学史家はその点に驚いているという
彼らは元々の哲学が新しい生き方、世界の見方を教え、人間を変容させるものだったことを見ていなかった
そこには中世以来、哲学から魂の鍛錬が抜き取られ、キリスト教の僕となったことがある
純理論的な概念をキリスト教に提供する立場になったのである
その影響が現代にも及び、理論化の傾向はさらに先鋭化しているという
哲学が再び生き方や世界の見方に関わるようになるのは、ニーチェ、ベルクソン、実存主義からである


「魂の鍛錬」のエッセイ冒頭に、ジョルジュ・フリードマンの言葉を引用している
20世紀に如何に魂の鍛錬を実践するのかという問いに関するものである
ヴォーヴナルグは、本について次のように語っている
「真に新しく、真に独創的な本は、古くからの真理を愛するようにしてくれるものである」
著者アドー氏は本エッセイで、西欧には魂の鍛錬の豊かな遺産があることを言いたかった
そして、本エッセイをヴォーヴナルグが言う「真に新しく、真に独創的に」したかったようである

やっと最後になって、読書に直接関連することが出てくる
アドー氏はこう言っている
 「我々は‘読んで’人生を送っていますが、最早読むことができなくなっています。つまり、立ち止まり、我々の心配事を解放し、自分自身に還り、細かいことや新しいことを探究することは脇に置いて、静かに瞑想し、反芻し、テクストに語らせるようにすることができなくなっているのです。これは魂の鍛錬ですが、最も難しいものの一つです」
彼が考える読書とは、静かに瞑想し、反芻し、テクストに語らせるようにすることであった

そして、ゲーテの次の言葉でこのエッセイを締め括っている
「読むことを学ぶためには時間と労力を要するということを人は知りません。そのためにわたしは80年を要しました。そして、そのことに成功したかどうかさえ分からないのです」

議論の中で、ヨーロッパが持っている文化に関する問いかけがあった
このエッセイではヨーロッパの深い「教養」とでも言うべきものを感じる
しかし、そのようなものは現在ではどうなっているのだろうか
新しい状況に対する新しい思想や方向性は出されているのかという疑問だろうか

それから、「自己を実現する」とはどういうことなのか
「自己を超越して自己を永遠のものにする」ということは何を言うのか
もう少し思索を深めなければならない点も提起された
また、このエッセイを読んでいると、古代の哲学に誘われるように感じるという声も聞こえた

詳細なまとめは、近いうちに専用サイトに載せる予定です


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今日で今年前期のすべての活動を終えたことになる
この全体についても折に触れて纏めることになるのかもしれない
ISHEの活動に参加されたすべての皆様に感謝いたします

次回は今年の秋になる予定です
今後ともご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします






2019年5月27日月曜日

一瞬の光を生きるには、やはり哲学か



相変わらず暑い一日だったが、日中は比較的集中して仕事ができたようだ
そして、夜は30年来のお付き合いになる大野、丹野両博士との夕食会となった
このところ毎年お会いしている
お二方とも現役で仕事をされているので頭が下がる

わたしの方から、そろそろ別の世界に足を踏み入れては、とお勧めしたのだが難しそうだ
現世には現世の解けない繋がりがありそうである
ただ、人生はあっという間だという点では一致したのではないだろうか

ウラジーミル・ナバコフはそれを次のように表現した

 「われわれの存在は二つの永遠の暗闇の間にあるほんの一瞬の光にしか過ぎない」

我々の生が一瞬の光であることを理解するためには、「永遠」に思いが至らなければならない
そして本当の理解に達すると、それに合った生き方を模索しなければならないことになる
そうすると、やはり最後は哲学しかなさそうである
人類の知恵に学び、そこから飛翔するのである

貴重な一夜となった
またの機会を待つことにしたい





2019年5月26日日曜日

西田幾多郎記念哲学館を訪問



本日は、かほく市にある西田幾多郎記念館を訪問
少々交通の便が悪く、車がなければ大変だろう
記念館は斜面を生かした作りになっており、丘の上から見下ろすように建っていた
中も視点を微妙に変えるだけで新しい空間を味わうことができるようになっていた
安藤忠雄氏の作品とのこと

展示は工夫されたものになっていて、ゆっくりした語りをバックに見ることができた
ここ10年くらいの全的生活のせいか、西田の言いたいところが分かるようになりつつある
昨日の大拙と併せると、わたしの全的生活は、実は禅的生活だったのではないか
そんな考えも浮かんできた

ビデオも要を得たもので、参考になった
それから西田の書を改めて見ながら、自らの考えを書にすることの意味を考えていた
内容さえしっかりしていれば、どのような文字で表しても良いということではないだろう
自らの思想を書にする過程で、その行為が更なる思索を誘発しそうな感じがする
それによって、その内容がより深いものになることはないだろうか
自分の中に沁み込むような新たな姿に変容することはないだろうか
それを確かめるためには、実践するしかないのかもしれない


 


書斎の「骨清窟」が記念館の横に移築されていたが、扉は閉じていた
書棚を見ながら、ラインスブルフのスピノザハウスを訪問した時の光景が浮かんできた
もう7年前になるが、スピノザが1661年から1663年まで借りていたところである
その書棚が当時のままではないと思うが、蔵書は多くなかったと読んだ記憶がある

西田も、ある人の核になるもの(骨)を掴むことが重要で、後はその応用になると考えていた
従って、全集を集めるような趣味はなかったと書いている
それにしても、いろいろな書斎を見ると触発されるものがある
フランス人作家の書斎も全く別の刺激を与えてくれる





2019年5月25日土曜日

鈴木大拙と室生犀星を訪問



本日は金沢まで足を延ばした
兎に角暑い
その中を冬物の背広で歩く
体の水分を入れ替えるには良さそうだ

まず、鈴木大拙館を訪問
わたしの中では、現在の歩みに入る前の2006年に出遭いがあった

  鈴木大拙 DAISETSU SUZUKI, GRAND PHILOSOPHE BOUDDHISTE(2006.1.8)

この記事にあるように、彼が描くことになった人生の絵が大きいことに感動したのである
難しいことではあるが、こうありたいと思わせるものがあったのだろう




今日は、最初は静かだったが、次第に国際色豊かな訪問客が増えてきた
中にゆっくり池を眺めながら時を過ごすことができる場所がある
その池には鯉?が1匹だけ?いるのではないだろうか
時折、飛び跳ねるような音がしていた
あるいは、人工の仕掛けだろうか(写真を見ても生き物の気配を感じない)
暫しの間、その空間を愉しんだ





大拙館を出てから歩いて室生犀星記念館に向かった
地図は見ていたはずなのだが、犀川を挟んで反対側を探していた
見つからないはずである

犀星の詩を読んだのは学生時代で、その後は忘れていた
しかし、この町に来て再び触れてみようという気になった
ノスタルジックな気分を味わいたかったのだろうか

ビデオが充実していて、それを見てから展示室へ
出生が不幸だったので若い時は苦労したのだろう
そのためか、日本風の古い建物を想像して出かけたが、モダンな建物で意表を突かれた
ただ、後年は立派な家を構えたようなので、それほど違和感はないのかもしれない

詩集を読み返すと、記憶に残っているのがいろいろと出てくるのかもしれない
すぐに思い出すのは、これである
ふるさとは遠きにありて思ふもの              
そして悲しくうたふもの              
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても              
帰るところにあるまじや              
ひとり都のゆふぐれに              
ふるさとおもひ涙ぐむ              
そのこころもて              
遠きみやこにかへらばや              
遠きみやこにかへらばや
交通機関の発達により、当時のふるさとの距離感は想像できなくなっている
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」
この言葉には真理が宿っているようだ 

こちらは終始静かな館内であった
わたしのように同時代で一度触れている人には何かを呼び起こす可能性はあるだろう
しかし、そうでない人には話題も感情の面でも繋がりを見出せなくなっているのかもしれない




2019年5月26日(日)

ネットを見ていたところ、犀星のふるさとの詩は解釈が割れているようだ
まず、作者がどこにいるのか、東京なのか金沢なのか
それによって、最後のみやこがどこになるのか変わってくるという

冒頭の言葉もわたしのようにそのまま読む人もいるが、裏の意味があるという人もいる
金沢に帰って詠んだ場合になるのだろうか
故郷に来ても受け入れられないので、遠くから眺めている方がよいというニュアンスを見る立場だ

短い詩でも作者の真意に迫るのは難しそうである
ただ、素人の目から見れば、作者を離れて読むことがあってもよいのではないか
そんな考えが浮かんできた日曜の朝








2019年5月23日木曜日

旧知の研究仲間と会食



今夕は昔の研究所からお付き合いいただいている武田克彦氏のお誘いを受け、久しぶりの語らいに出かけた
このところ稀ではない地図を見ても道が分からないという症状のため苦労したが、何とか辿り着いた

武田氏は神経心理学の権威であるはずなのだが、そんな素振りはお見せにならない
まず最近の発見について伺った
歴史に還ると意外な発見が眠っているようである
また、昔の論文を読むと、主観を排除した現代の論文では看取できない何かを感じることがあるという

古代ギリシアにすべての根源が眠っている(はずである)
わたしなど、プラトンの考え方に同化しつつあるのだが、どうも信用されていないようだ
そうなったとしてもまだ10年先でしょ、というような感じであった
ただ、「魂の鍛錬」という概念については興味を共有されている印象を持った
丁度、第5回ベルクソン・カフェで取り上げているテーマである

今日は久し振りに日本酒を次々勧められたせいか、必要以上のことを話したかもしれない
しかし、そういう日があってもよいのではないだろうか
突き詰めれば、この人生、その瞬間しかないのだから
これはエピクロスだろうか

お隣からはパリの話題が出ていたり、さらにそのお隣からは小林秀雄を論じる声が聞こえたり
なかなか面白そうな空間であった
本日は、今日を刈り取ることができたようである





2019年5月22日水曜日

レモ・アンツォヴィーノさんのコンサートを聴く

   Remo Anzovino (1976- ): compositore, pianista


今夕は古い友人に誘われ、イタリアのレモ・アンツォヴィーノさんのソロピアノコンサート
日本初のコンサートだという
会場はイタリア文化会館(Instituto Italiano di Cultura - Tokyo)のアニェッリホール
ほぼ満席の状態であった
演奏された作品はすべて自作だったのではないだろうか

実はイタリア的なリズムやサウンドが流れてくるのではないかと思って出かけた
とは言っても、イタリア的とはどういうものなのかは分からないのだが、、
日本的なものとは違う何かをどこかで期待していたようである

しかし、全体の情緒が非常に日本的で、日本の音楽家の作品のように聞こえたのである
あるいは、わたしには異質なものとは聞こえなかったと言った方が正確だろうか
挨拶の中で、今回の音楽は日本の影響を受けたと言っていたようなので、そのせいなのだろうか

いずれにせよ、普段とは異なる雰囲気の中で、久しぶりのコンサートを味わうことができた
幸いなことであった






2019年5月21日火曜日

第5回ベルクソン・カフェ、初日終わる



今夕は第5回ベルクソン・カフェであった
残念ながら、参加予定のお二方から参加できなくなった旨の連絡が直前に入った
激しい雨の後、参加された皆様に改めて感謝したい


今回のテクストは、ピエール・アドーの「魂の鍛錬」というエッセイにある「読むことを学ぶ」
元々の論文は1974年に出たものなので45年前の作品になる
これまでアドーさんの作品を読んできたせいか、以前より理解しやすくなったとの声が聞こえた
それでも難しいところに出くわす
もっと違った表現ができるのではないか、という声になる
内心、自分の日本語のようだとも思ったのだが、、

今回のエッセイは読書を扱っていると思ったが、少なくとも今日のところ出てこない
まず、古代に各派で実践されていた魂の鍛錬の多様性と違いが紹介される
そして、表面上の多様性の下には根源的な一致があることが指摘される
方法としては、説得のための修辞と弁論術、内言の習熟、精神の集中
目的は、自己の向上と自己実現
自己実現は現代でも使われている言葉だが、その実体は違うようだ

それから哲学的回心(哲学的目覚めとでも言うべきもの)を境にした変化が記述される
回心の前は自分自身ではなく、従って真に生きていない
回心後はその状態から抜け出し、真の生活に近づき、自らを向上し変容させる
その生活とは具体的にどういうものなのか
大雑把に言うと、出来合いの価値から離れ、人間の本性である理性に合致した生である

魂の鍛錬をプロティノスは「自分自身の像を彫刻する」と表現した
絵画が加える芸術であるのに対して、彫刻は取り除く芸術であることに起因している
余分なものを取り除き、既に大理石の中に存在している像を露わにする作業である
つまり、自分自身でないものを取り除き、本質的なもの、自分自身であるものに還るのである
幸福とは、自立、自由、自律から成るが、それは自分に還ることによって達成されるという
そのためには既存の価値から解放されなければならず、理性を働かせるしかないのである

これから先の詳細は専用サイトに載せる予定である
そちらを参照していただければ幸いである

今回参加された方の中に仏教に詳しい方がおられ、東西の比較が話題になった
仏教が目指すところと共通するところがあるようなのである
これから注目すべき点が増えたことになる





2019年5月20日月曜日

東京のエッフェル塔とセーヌ川を発見



今日、総武線で秋葉原から両国方面に向い墨田川を渡る時、パリの情景を思い出した
パリのメトロ6番線でパッシーからビラケム(Bir-Hakeim)に向かいセーヌを渡る時の眺めだ
その景色をパリで最初に見た時には驚きをもって眺めたが、それと完全に重なったのである
つまり、スカイツリーがエッフェル塔で、墨田川がセーヌ川である
それぞれを単品として見ても気付かない関係性がそこにある
事実、これまでスカイツリーがエッフェル塔だなどと毫も思ったことがなかった

余りにもよく似ていて多くの人が見ている景色なので、すでに言われているかもしれない
しかし重要なことは、自分で発見することである







2019年5月19日日曜日

久し振りの New York State of Mind





テレビでマンハッタンのタクシードライバーがニューヨークについて語っているのを観る
今でこそ遠くに感じるニューヨークだが、奥の奥にはまだその空気が息づいていることを感じる
40年ほど前にその中で生活していた時の気分が蘇ってきた
本当に久しぶりのことである
フランスにいてはこういうことは起こらないのではないか
ニューヨークの歌でも聴きたくなってきた
当時、聴き、歌ったものは数え切れないはずなのだが、、














2019年5月18日土曜日

第5回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる




本日、第5回のサイファイ・フォーラムFPSSが開催された
テーマは以下の二つである
一つは、林洋輔氏の「『生き方としての哲学』はいま可能か」で
もう一つは、阿戸学氏の「現役科学者にとって哲学することは可能なのか」であった
いずれも現代における哲学を実践することの可能性を問い直すものであった
遠くはスイス、北海道からも参加を得て、活発な議論が展開した
会の詳細は、追って専用サイトに掲載する予定である

会の最後に、これからのフォーラムの在り方について意見交換を行った
前回、もう少し開かれた会にしてもよいのではないかという意見が出ていたからである
具体的には、外から講師を呼び、意見交換をするというものである

講師の候補として、いろいろな提案があった
例えば、科学に哲学を取り込むような実践をされている哲学者あるいは科学者
生き方としての哲学について考えている哲学者
自然科学で重要な概念(例えば、自然、生命など)について考えている研究者
医学の哲学(医学概論)について研究している哲学者
科学や哲学について外から見ている方(例えば、出版社の編集者など)
科学について思索した古今の哲学者の論文を講読する
などなど

具体的な名前も挙げられていたが、その前にいろいろ検討すべき点がある
財政基盤のない会なので、具体的な問題が出てくる
すべての会を招待演者にお願いするのかどうかという問題もある
例えば、春には従来のやり方でやり、秋には講師を招待するということも考えられる
取りあえず秋に新しい様式でやってみて、その後を考えるのが現実的かもしれない

関連する皆様にはこれからもご意見を伺うことになると思います
今後ともよろしくお願いいたします





2019年5月13日月曜日

今年最初のサイクリング



今日は気持ちの良い快晴
久し振りに朝から郊外に出ることにした
今季初めてである
時間が止まったような環境の中、川のせせらぎやホーホケキョを聞きながらのサイクリング
最高である
これからのお仕事に良い影響は出るのだろうか





帰りに海にも寄ってみた
こちらも今季初である
地中海を思い出させる海の色に驚く
カメラよりは自分の目を信じたい
どこまでも広がる水平線にも無限を感じさせるものがあった





2019年5月8日水曜日

サイファイ研ISHEの5月の催し物、迫る




5月のサイファイ研究所ISHEの活動をお知らせいたします

● 第5回サイファイ・フォーラムFPSS
  日時: 2019年5月18日(土)13:40-16:40
  会場: 日仏会館 509会議室
  テーマ:
  1)「生き方としての哲学」はいま可能か:
     Pierre Hadot の「読むことを学ぶ Apprendre à Lire」と学問の古典(林 洋輔)
  2)現役科学者にとって哲学することは可能なのか(阿戸 学)

  サイト ポスター

● 第5回ベルクソン・カフェ
  日時: 2019年5月21日(火)+ 5月28日(火)18:00-21:00
    (1回だけの参加でも問題ありません)
  会場: 恵比寿カルフール B会議室
  テクスト: Pierre Hadot  « Apprendre à lire »(ピエール・アドー「読むことを学ぶ」)
  Exercices spirituels et philosophie antique (Albin Michel, 2002) pp. 60-74

  サイト ポスター


このほか、来月には以下の特別講演をすることになりました

● 第190回日仏生物学会例会
  日時: 2019年6月8日(土)14:00-
  会場: 東京女子医科大学
  テーマ: 免疫を哲学する(要旨

  サイト

よろしくお願いいたします


 




2019年5月3日金曜日

半世紀前のメッセージを発見



朝、木曽路を旅するフランス人親子の20年前の番組が流れていたので観る
いろいろ考えさせられる場面もあり、よい番組だった
番組が終わりに差し掛かった時、なぜか島崎藤村の『破戒』が頭に浮かんできた
早速、学生時代の本棚に向かうと見つかり、可能であれば読んでみたいと思っている

その時、その近くにヒルティの『眠られぬ夜のために』があり、紙切れが挟まっているのが目に入った
興味津々で開いてみると、次の言葉が並んでいた

「日の出に対して信心を持つんだ。一年後のことや十年後のことなど考えるんじゃない。今日のことを考えるがいい。お前の理屈など捨てちまうんだ。・・・生活に無理をしてはいけない。今日に生きるんだ。一日一日に対して信心を持つんだ。一日一日を愛するんだ。一日一日を尊敬するんだ。特に、それをしおれさせちゃいけない。それが花を咲かせるのを邪魔しちゃいけない。きょうのように、灰色で陰気な一日でも愛するんだ。心配することはない。ごらん。今は冬だ。すべてが眠っている。強い土地は目をさますだろう。強い土地でありさえすればいい。強い土地のように辛抱強くするんだ。信心を持つがいい。そしてお待ち。もしお前が強ければ、すべてがうまくいくだろう。たといお前が強くなく、弱くて、成功しないとしても、それはそれなりでまた幸福でなければならぬ。もちろんそれ以上にはできないからだ。それなのに、なぜ、それ以上のことを望むんだ?なぜ自分でできないことを悲しむんだ?自分でできることをしなければいけない。自分のなしうる限りをね。それでも、誰よりも多くのことをしてるのだよ。英雄ってのは、自分のできることをする人だとわしは思うんだ。ほかの人たちは、それをしないんだよ。」(『ジャン・クリストフ』、新庄嘉章訳)

「そしてお待ち」の一文に赤線が引いてある
それはどうしてだったのか

ヒルティの本は大学に入った年に買ったことになっている
『ジャン・クリストフ』は同じ年の夏の暑い日に購入し、秋に読み終わったとのメモあり
18歳当時の筆跡を見るのは不思議な気分である
このメッセージの意味するところも考えてみたいものである
もうかなりの間待ったのだから