2021年7月31日土曜日

7月を振り返って

























静かに過ぎた今月も最終日を迎えた

月の初めにワクチン接種を終えていたが、もうかなり前のように感じられる



相変わらず淡々と長期ブロジェに向き合っていた

その全体がぼんやりと姿を見せてきたが、明確な形になるまではもう少しかかりそうだ

以前であれば終わらそうとしてイライラしたところだろうが、次第に心持ちが変化してきている

特に今年に入ってからは、その中に入って時を過ごすというのがわたし流のやり方として固まってきた

そのため精神的な負担を全く感じなくなっている



下旬には米仏とビジネス関連のやり取りをした

パリとはメールだったのだが、途中で相手をする人が二人になり、その連携がうまく行っていないようだ

数日前に解決したと思っていたが、今度は別の人からメールが入った

ということで、地上の世界は大変である


もう一方のニューヨークとのやり取りは電話だったので、毎晩気合いを入れて対応していた

英語はほんの少しだけ慣れてきたが、調子を取り戻すにはやはり現地に行かなければ駄目だろう

このやり取りの間、この問題は現地にいればすぐに片が付くのものを、と思っていた

そして今回明らかになったのは、現地に行くしか解決の方法がなさそうだということ

現状では、COVIDが改善に向かう気配は全くしない

検査や隔離が面倒なので、もう少し様子を見るしかなさそうである



今月はまた、折に触れてエンツォ・パーチさんの科学論を読んでいた

現象学が前面に出てくるためか、今のわたしにはすんなり入ってこない

暫く寝かせておいた方がよさそうである

それに対して、読み始めたばかりのコンシュさんの哲学観はよく入ってくる

お付き合いが長いせいで、理解するための下地がすでにできているためかもしれない










2021年7月30日金曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(2)















哲学は、それが絶望的であれ致命的なものであれ、真理だけを気に掛ける

それでは、どの真理のことを言っているのか

それは次のものではない

天文学的、物理学的、化学的、生物学的などの現象に関する真理

世界で起こった、あるいは現に起こっていることに関する真理

社会の進化を説明したり記述したりする法則の探究

あるいは、そういうものがあるとして、精神状態や行動を支配している法則

これらすべては科学あるいは諸科学の問題である

これらの科学は、予見、準備、行動するための感覚所与(データ)を我々に知らせてくれる

科学の究極の目的は、有用性と技術である

ファラデーの法則自体に一体だれが興味を示すだろうか

誰もいないのである

しかし、電気分解は膨大な応用が可能である

技術的行為は本質的に限定的なものである

それは必要となる限定的な真理しか科学に要求しない

このようにして科学は常に部分的な真理を提供する

科学は複数でしか存在しない

科学は現実の全体ではなく、感覚所与としか関わりを持たない

そのため、唯一で普遍的な「真理」ではなく、感覚所与から確立される真理にしか辿り着かない

しかし、部分的ではない客観的な他の真理はないのだろうか


哲学が真理を目指しているとすれば、それは感覚所与から確立される真理ではなく、現実の全体に関する真理である

そのためには、感覚所与とそれを超えるものの両方を理解しなければならないのである

感覚所与を超えるものとは、一般に形而上学(métaphysique)と呼ばれる

この言葉は若干不十分である

実際には、physique(物理的)という言葉にはギリシア語のphusis(自然)が入っている

「物理的なものを超えた」ものとしての形而上学は、単に自然を超えたものではない

自然の中には感覚所与を超えたものがあるので、形而上学とは一般的に感覚所与を超えたもののことである





2021年7月29日木曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(1)















1998年12月5日、トゥールーズで行われたマルセル・コンシュさんの講義『懐疑主義と哲学の意味』から


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デカルトの死後に出た論文集にある未完の対話は「自然の光による真理の探究」と題されている

確かに、哲学の意味とはこのようなものである

「世界で最も共有されているもの」、すなわち良識あるいは理性の助けを借りて真理を探究することである

しかし懐疑主義は、真理は存在しないとか真理には到達できないという

それでは、哲学の意味は何なのか

懐疑主義者が哲学に何も期待しないのだとすれば、哲学をすることはできるのだろうか

大雑把に言えば、これが提出された問いのポイントである


ペリゴールのお城で純粋で簡素な無為に専念すると決意したモンテーニュ

彼の精神が絶え間なく生み出す「キメラと幻想的な怪物」に驚きながら、彼の思想に秩序を齎すためにそれらを書く決心をする

彼は言語の性質について省察し、ホメロスの詩を引用する

言語はどんなことでも、あるいはその反対のことを言うための言葉の豊かな基底を成すものである


わたしはフランス語の言葉の豊かな基底を自由に操る

これらの言葉をどのように関連付けるのか

何のために

あなたは何の役に立つのか

不確定の読者に語り掛けながら、モンテーニュは明確に言う

わたしはこの中で君たちの役に立つことは何も考えていない

しかし『エッセイ』は多くの人の助けになり、役に立っている

しかしそれは役に立つことを目的として書かれたわけではなかった

わたしがリセや大学で教えていた時、生徒や学生に役立つように気に掛けていた

この点では、わたしは哲学者ではなかった

哲学者は有用性について考えないからだ

最も有益なのは幸福に資するものである

つまり、哲学は幸福について考えない

ただ真理だけを考えるのである

しかし、真理はつらく、苦しく、幸福を破壊し不可能にする可能性がある

哲学と異なり、宗教は有用であるカテゴリーに属する

宗教は幸福を約束し、何をすべきか、幸福を受け獲得するためにどうあらねばならないかを命じる

そこでは真理より幻想の方が重要になる

仏教は明らかに真理を有用性の下に置く

ブッダは「人間に平和と幸福を齎すものしか教えなかった」(W・ラフラ

それゆえロジェ・ポル・ドロワは、「有用性が真理を上回っている」と明言している

究極の目的が幸福あるいは救済、至福である教えは、おそらく宗教であり、知恵だろう

この教えは哲学ではない







2021年7月28日水曜日

アメリカの影響も蘇らせては















昨日はかなり酷い英語で話をしていたが、それでも昔の精神状態が蘇ってきた

本当に朧げとしか言いようがないのだが、、

それは日本ではなかなか顔を出さない自分の姿でもあると理解される

新しい環境に入ると、それまで抑えられていたところが前面に出てきて、時間の経過とともに置換されるようになる

アメリカにいた当時はまだ若く、仕事をしていたということもあり、その影響を強烈に受けていた

それは考え方とともに行動様式にも変化を及ぼしていたはずである

同様のことはフランスでも起こっていたと思われる

しかし、こちらは外面よりは内面への影響が圧倒的に大きかったと考えている


今日本にいて、それらの言わば別人格のような存在が共存した状態であるのを感じている

それは昔は望めなかったことなので、どこか穏やかな気分にさせている

ただ、折に触れて、中にある異なる存在を再び強調させる機会を持ってもよいのではないか

それは自分の中で永い眠りについていた部分を目覚めさせることになるかもしれない


もどかしさを感じた翌日に浮かんできた感想である








2021年7月27日火曜日

何というもどかしさ



















このところフランス、アメリカとビジネス上の(?)やり取りをしている

フランスとはメールで、アメリカとは電話でだが、どちらもすぐには片付かない

フランスの場合、最初に条件を言わず、こちらが送ったものを見て必要な条件を後から言ってくる

そのため時間が掛かるのだが、もう少しで片が付きそうな感触を得ている


これに対して、アメリカの場合は口頭なので大変である

大昔にはマンハッタン・アクセントなどと言われたこともあるが、長い間使っていないので完全に錆び付いている

それと当然のことなのだが、現実世界への対応力というか意欲も落ちているようだ

今日は電話ミーティングのためにこちらに電話がかかってくる予定だったが、なしのつぶて

後から分かったことだが、会議をセットした方がこちらの電話番号を間違って聞き取っていたらしい

ということで、こちらはいつ終わるのかまだ目途が立っていない


いずれも現地にいればすぐに解決できることなので、何とももどかしい






2021年7月26日月曜日

パスカルの教訓



























疲れをとるため以外は、精神を他に転じさせてはいけない

それも適当な時に限るのである

必要な時にだけ疲れをとらせるべきで、そうでない時はいけない

なぜなら、不適当な時に疲れをとらせようとすると、かえって疲れさす

また、不適当な時に疲れさすと、疲れをとらすことになる

というのは、何もかもほっぽりだしてしまうからである

邪欲の意地悪さかげんというものはそれほどひどいものであって、人がわれわれに快楽を与えることなしに
われわれから何かを得ようとすると、それとは正反対なことをして遊ぶのである

快楽こそ、そのためにわれわれが人の欲するすべてのものを与えてやるところの通貨なのである


(前田陽一、由木康訳)










2021年7月25日日曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(13)
































Milan, 10 septembre 1958

わたしが試みようとしていることは、現象学でイタリアの哲学と文化に影響を与えることである

わたしの現象学は関係主義的で、実存主義を超えることにより現象学の思想史全体を考慮に入れたい

主要なポイントは、フッサールが1904-05年に理解したような時間と、『第5省察』と『危機』に表れた関係である

時間に関するフッサールのいくつかの未発表作品は、『存在と時間』に対する回答である

これからは、我々はもうこの回答なしにはやっていけない

実存主義は関係主義として理解される現象学に変容するのである











2021年7月24日土曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(6)



















第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味

(6)超越的なるものの閉塞と歴史の意味としての漸進的暴露

フッサールによれば、デカルトは日常的なありふれたものを一時中断する

超越的還元は、明々白々な人生を一時中断する

歴史的再構築、すなわち伝統と再生の関係における問題として人生を再発見するためである

デカルトの隠された意味が超越的還元であるとすれば、デカルトに隠されたままであるものは超越論そのものである

実は、彼は自分の発見を「心理主義的な」意味で誤解していたのである

彼はエゴを客観化した魂に還元し、主観主義に「再び蓋をした」のである

それはフッサールにとってみれば、アルキメデス的哲学である


フッサールは、デカルトが「わたし」と「あなた」、「内」と「外」のようなすべての区別が絶対的エゴを構成していることを理解していないと言及している

フッサールが言う「絶対」は形而上学的位置を占めるものではない

それは、我々が我々自身のどこからでも実際に始めることができないという意味での「絶対」である

科学的客観主義がデカルトに及ぼした影響は、意図的行為が行われるエゴに内在するものを問うことを無条件に妨げたのである

超越的主観主義の意味を失い、デカルトはこころを分析することになり、それは客観的心理学につながった

デカルトが発見し、同時に隠したものは志向性そのものであった

彼は世界を幾何学的に理解できると考えたのである

経験論の機能はすでに与えられたものと、理性主義の客観化された超越性に対して反応することである

客観主義的理性主義を批判することにより、経験論は真の超越論の基礎作りに貢献した

しかし、ジョン・ロックもまた心理主義的客観主義に取り込まれた

他方、デイヴィッド・ヒュームはすべての理性的に構築されたものは「架空のもの」であるとした

ヒュームとともに理性的客観主義は自爆したのである。









2021年7月23日金曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(5)

























第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味

(5)近代思想の歴史的背景

生活世界は自らを覆い隠す傾向がある

なぜならそれぞれの哲学者が「世界の中で」、「ありふれた日常の中で」自らを見失っているからである

同じことはグループやトレンドや時代についても言える

わたしは生まれることの中で留まることはしない・・・

すべての人に残された仕事は、ありふれた日常をエポケーすることにより、生活世界を再発見することである


我々が語ったことの中にある、間モナド性と目的論との結びつきに加えて、生活世界への還元と超越論的還元との結びつきに注目せよ

伝統の批判は、「ありふれた」伝統の批判である

より正確に言えば、それは両親から生まれたという事実の批判である

このように生まれるという中には、「閉塞された」わたしの存在やありふれた日常の中で失われたわたしの存在がある

新たにわたし自身を発見するということは、わたし自身を超越論的に還元することである

それは恰も、今わたしは超越論的還元により再び生まれなければならないかのように、わたしの中にある元々の「生活世界」を発見することである

しかし、わたしは再び生まれることはできない

今できることは、隠されたものを再び提示し、わたしに内在するありふれたものと閉塞されたものと闘うことである







2021年7月22日木曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(4)
























第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味

(5)近代思想の歴史的背景

一般的に、フッサールにとってのデカルトは近代思想の真の始祖であり、我々すべてにとっては伝統の一部である

「デカルトの背後には哲学の歴史、ターレスにまで遡る哲学者のコミュニティがある

しかしデカルトは新たに始める

『我々現代の哲学者』もまた新たに始めるのである」

我々には前任者、先祖がいる

従って、我々が新たに始めるということは、『我々が実行できる程度に応じて、記憶すべき歴史的な現在化と結び付いている』

我々は我々自身の中に、今日の哲学者としての存在の中に、今は亡き哲学者たちの『現在の状態』であった存在を現在化する

彼らは「現在の哲学者とその哲学の歴史的想起の目覚め」の中で「記憶の中で呼び覚まされる」

我々は遺産のある部分は受け止め、他の部分は批判的に拒絶する

我々は閉塞に反論し、過去の哲学者には隠されたままであったものを明らかにしようとする

その結果として、彼らは我々の中に、伝統と再生の弁証法、そして「常に現在であるもの」と「新しいもの」との弁証法で構成される「永遠の哲学」(philosophia perennis)の中に再び生き返るのである









2021年7月21日水曜日

少しだけ天空に近いところで

























今日は調べ物があり、朝から図書館へ

張り切って向かったが、求めるものの内、2冊も貸し出し中とのこと

まるで休講の知らせを聞いた時のように気分が跳ねてしまった

図書館はほどほどに、久し振りに天空に上ってみることにした

少しだけ天空に近いところに



おそらく半世紀ぶり位になるのではないだろうか

最初の登りが急なので参ったが、ロープウェイの駅がすぐで助かった

頂上のレストランでゆったりしたデジュネとなった

このようなデジュネも久し振りである

町を広く見下ろし、人生を少しだけ振り返るという感じであった

まさに My Way であり、ピアフの Non, je ne regrette rien になるのだろうか

このところ、いろいろなことが繋がっている








今日はもう一つお話ができた

家に戻ると、お隣の猫がお出迎えをしてくれた

車から降りて近づいて行っても全く姿勢を変えないではないか

これまでにも増して親近感が湧いてきた









































2021年7月20日火曜日

エドガール・モランさんの100歳のお祝い



昨日、朝のセッションから戻り Youtube に行ったところ、これが現れた

UNESCOで行われたエドガール・モラン(1921.7.8 - )さんの100歳の誕生日を記念したセレモニーである

これまで折に触れて何冊か読んできた方なので、早速そのお姿を拝見することにした


セレモニーの間、寝入ってしまわないか心配していたが、杞憂であった

むしろ聴いているこちらの方がウトウトしてしまった

益々お元気で、原稿なしで1時間ほどエネルギッシュに話をされていた

最後は、ご本人は「フランク・シナトラの」と言っていたが、決して完成することのないMon chemin が流れていた

そう言えば、つい先日、ニーナ・シモンさんの歌を聴き比べたばかりであった


もう一つ感じたことは、祝辞を述べる方たちの言葉に対する感受性のようなものである

これはフランスでしばしば感じていたことなので、懐かしくフランスの空気を思い出していた

いずれにせよ、こうありたいと思わせてくれる一つの人生の時間を見る思いであった






2021年7月19日月曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(3)

























第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味

(4)客観主義と超越主義: 二元論、対象化された心理学

「成る」ということは単に事実に基づくものであったり、原因となる出来事が単純に繋がっているものではない

フッサールによれば、それは「内側から」、時間の内的意識の中から生き直されることである

「内側から」という表現は、観念的な意識ではなく、モナド間の、物理的、本能的、身体的、心理的、精神的な具体性の中ある生きている人間に関わるものである


フッサールが「内側から」と言うのは、心理学のある学派がガリレオの物理学に則って人間の外側だけを扱っているからである

「精神物理学的客観化」をしているからである

ガリレオにおいて自然と美的生活という生きた世界が閉塞されているのと同じように、人間の生活世界が閉塞される精神物理学的客観化は、心身を分ける二元論から生まれるのである


従って、生活世界の閉塞は二元論と結び付いている

つまり、客観主義と超越的主観主義の間にある対比の起源はここにあるのである・・・

フッサールによれば、この二元論はガリレオの物理数学的な科学がすべての科学の唯一のモデルとなったところに由来している・・・

バークリーやヒュームの重要性は、自然化された心理学が不十分であることを明らかにしたことにある

それがカントの超越論的哲学に繋がり、今日の現象学に至っている


フッサールによれば、客観主義と超越主義との闘いには、近代精神の歴史の意味がある

客観主義にとって「在る」ということは、客観的に、物理数学的に、「すでに与えられている」ことである

他方、超越主義における「在る」とは、科学以前の生活世界、我々が現在生き、常に生きてきた日常世界である

この世界は「主観的」、すなわち直接のモナド間の生活であり、一人称の存在の相互関係である


「心理的」生活は生活世界の中にある

それは対象物ではない

現象学は常にこの生活を明らかにし、再発見する

それは超越論的哲学の最終形である


歴史家の仕事は、沈殿し、客観化され、疎外され、死んでいるものを捉え直し、そこに再び命を与えることである

真の歴史科学とは、蘇らせるための継続的な過程であり、隠れた歴史的意味を再発見することである









2021年7月18日日曜日

陶芸家、辻村史朗を観る


























昨夜、夜のセッションを終えて帰宅

窓を開けて涼んでいると闖入者があった

暫くその動きを追っていると、目の前に来たので写真に収めた



テレビを付けると、「作ることが、生きること」というタイトルが右上に出ている

辻村史朗という陶芸家を追ったドキュメンタリーであった

初めての方で、オートディダクトであることを知る

凄いもの、枠組みを超えたものが出てくるのはオートディダクトからではないかと考えているので興味深く観た



語りを聴きながら、永く自己との対話を続けて来られた方ではないかと想像する

印象に残った言葉をいくつか

「どう作るかではなく、どう生きるか」

その人の生活を含めたすべてが作品に出てくるのではないかと考えているようだ 


「一人でやることが重要」 

これもわたしの中にあるものと重なる

現代の科学は僅かの例外を除いてグループでやらざるを得ないが、哲学などは本来的に一人でやるものではないか 

ルドヴィク・フレックの言う思考集団(Denkkollectiv)から離れること 

そこにこそ、何か新しいものが生まれる可能性があるように感じられるのだ 


「到達できへんものに憧れてる」

これなどもまさにわたしが考える哲学への態度になるだろう


そして面白かったのが、夫の仕事ぶりを評して奥さんが「前のめり」と形容していたことだ

一昨日、このブログで同じ言葉を使ったばかりだったからだ

 

 

 

 


2021年7月17日土曜日

クロトンのアルクマイオンという自然哲学者














アルクマイオンという紀元前5世紀に活躍した南伊クロトン生まれのギリシア人哲学者がいる

自身の書いたものは殆ど残っておらず、第三者の証言に依らざるを得ないので、実像を捉えることは難しい

彼が医学者なのか、科学者なのかも分からないらしい

また、当時クロトンに教団を持っていたピタゴラスの学派に属していたのかについても議論があるようだ

ピタゴラス率いる教団とアルクマイオンとの間にどのようなやり取りがあったのだろうか

想像を刺激される


そして、この人物の考えの中にも興味惹かれるものがある

例えば、病気についての考え方である

体を構成する対立する力(湿・乾、冷・温など)が平等・均衡状態(イソノミア)にあるときには健康を維持する

しかし、どれか一つの力が支配する君主制(モナルケス)になると病気が発症すると考えた

健康と病理を政治的メタファーを用いて定義したのである

このように対立する力のバランスで健康を解釈する見方は、ヒポクラテス、ガレノスを経て現代まで引き継がれている


また、心や魂が心臓にあると考えられていた時代に、脳がその場であることを最初に指摘した人物とされている

知覚(例えば視覚)は(視神経を介して)脳に結合されていると考えた

さらに、知覚することと理解すること――現代の言葉でいえば、一次意識と二次意識――の違いについて言及した

それだけではなく、魂の永遠を唱え、プラトンにも影響を与えたとされる







2021年7月16日金曜日

「留まって」と「前のめり」の二段構えで


























2日前はフランスの革命記念日であった

当日に気付いたのだが、そのことも遠い彼方に行ってしまった

少しずつ遠くなっているようである



今朝、庭をぼんやり眺めている時、プロジェの進め方についてアイディアが浮かんできた

ひょっとすると、これまでに気付いていたことかもしれない

あるテーマの中に入った当初は、まずその全貌が見えてくるようにしなければならない

ここでは、留まって集中するという状態になる

そこである程度の姿が見えてきた時、今度は前に傾いて集中することが必要になるのではないか

この段階でも「留まって」という意識の中にいると、いつまで経っても前に進まない

つまり、「留まって」と「前のめり」の二段構えで「こと」に当たることが重要になる

このギアチェンジのタイミングを考えなければならないのである



フランスに渡る前はいつも「前のめり」で「留まって」考えることがなかったように見える

そして最近ではいつまでもだらだらと「留まって」いるようになっている

こういう観想が行われたのは、無意識の内に、今まさにギアチェンジの時だと感じていたからかもしれない



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思い出したことがある

ハンナ・アーレントさんがどこかで次のようなことを語っていた

最初に膨大な資料を読み、姿が見えてきた後は一気に仕上げるというもの

わたしの場合、いずれの段階も中途半端であることが見えてくる

これからは、もう少し意識して二つの過程を考えていきたいものだ









2021年7月15日木曜日

寺田寅彦の『ルクレチウスと科学』を読む





























         寺田寅彦(1934)


先日、パーチ日記を読んでいるとルクレティウスが出てきたので、日本語訳で読んでみることにした

その翻訳を探している時、寺田寅彦(1878-1935)の『ルクレチウスと科学』というエッセイが目に入った

どんなことを書いているのか興味が湧き、早速読んでみた

寺田を読むのは、殆んど初めてではないだろうか



読んでみて驚いた

科学についての捉え方あるいは科学との距離感が、わたしと非常によく似ているのだ

それから古典の評価の仕方についても共通するものを感じた

例えば、ルクレティウスやアリストテレスなどが唱えた考えが現代から見ると間違っていたとする

だから彼らは当てにならないと捨て去るのか、当時の状況を思い描いた上で、彼らの頭の使い方を考えるのか



また、今の学生は専門の細かい科目については履修するが、科学とは何かなどを考えることがないと言っている

これなどは、以前のわたしにそっくりそのまま当て嵌まる

専門に埋もれる人を「科学学者」、科学を少し広い視点から考える人を「科学研究者」と呼んでいる

この用語にはやや違和感はあるが、昔から言われてきた事実を確認する



このエッセイ一つでものを言うことは避けなければならないのだろうが、妙な親近感を覚えたことは確かだ

元を辿れば、パーチさんが間接的にではあるが結び付けてくれた繋がりということになる

折に触れて味わっていきたい人がまた一人増えたことになる



ところで、ルクレティウスの日本語訳も少しだけ読んでみたが、いま一つわたしの中で立ち上がるものがない

フランス語訳を自分の言葉に置き換えると、新しいイメージが湧いてくることはないだろうか

フランスからの荷物の到着を待って試してみたい

思わぬ展開となってきた









2021年7月14日水曜日

徳認識論、あるいは「科学の形而上学化」の役割









 

 

 

 

 

 

 

「医学のあゆみ」のエッセイシリーズ『パリから見えるこの世界』第101回のご紹介です

 徳認識論、あるいは「科学の形而上学化」の役割

 医学のあゆみ(2021.7.10)278(2): 180-183, 2021

 

これまで折に触れて書いてきた「科学の形而上学化」という方法を認識論の枠組みの中で考えたものです

どのような認識生活を送るのがよいのかを哲学する「徳認識論」という領域を知り、新たな局面が見えてきました

お目通しいただければ幸いです

よろしくお願いいたします

 

 




2021年7月13日火曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(12)


























Bellaria, 12 août 1958

現象学は感じ、生き、そして人生において真理を発見する一つのやり方である。それは人生における真理の、そして真理における人生の持続的な経験である。科学と技術が生まれるのは、芸術、倫理性、文化一般の形が生まれるのと同じように、この「図式的」で歴史的自然の経験からである。

フッサールが語る厳密さは、本質的なものとしての図式的なものの発見と密接に結び付いている。それは生きた知の基礎としてのプラトン主義のルネサンスである。存在は身体性であり生活世界である。統合、図式は自然と歴史の具体性である。それはプラトンが『パルメニデス』の第三の仮説の中で探求したものである。従って現象学は、技術的で最終的なもので体系的なものという意味における厳密な科学として哲学を発見することはない。フッサール自身、このように偶像化することを恐れていた。

現象学は真理への運動として、持続的な発見と再発見として、知覚しないものの無限の闇と真理の有限の光の間に位置する人生を経験することである。 












2021年7月12日月曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(11)





















 

Milan, 7 juillet 1958
午後、ルクレティウスの『物の本質について』とエンペドクレスの影響についてのいくつかの考えが浮かぶ。エロスはルクレティウスにおける主要なテーマである。それはまさしく、この詩を科学の叙事詩的高揚から曖昧さの劇的な認識に変容させる第VI巻である。人間の文明史はまた、曖昧さのお清めの歴史でもある。

アテネのペストはトゥキディデスと医者との関係について考えさせる。病気としての、そして治癒としての自然(それをヴェルナー・イェーガーは「ヒポクラテスの公理」と呼んだ。すなわち、自然は自分自身を癒すのである)。 ルクレティウスは病気と文明、そしておそらく、狂気と文明との間にある秘密の関係を見抜いていた。その非常識さの神話は詩と密接に結び付いている。ルクレティウスにおいては、ヒトと自然、憎悪と愛情の間にあるエンペドクレス的矛盾が反映している。そして最終的には、エンペドクレスの影響がエピクロスのものより強くなっていることが明らかになる。

ルクレティウスとカトゥルス。カトゥルス同様、ルクレティウスには一つの宗教性があり、『物の本質について』の第VI巻に見られるエロスはアッティスを想起させる。

 




 

2021年7月11日日曜日

ニーナ・シモンの『My Way』を聴き比べる



今日は12年前にポーランドのクラクフで出会ったニーナさんの My Way を聴き直してみることにした

これを耳にした時には体が跳ね上がるような感じがしたものだが、12年経ってもその感覚が蘇ることに変わりはない


今回、さらに二つのバージョンを聴き比べてみた

彼女が自身の音楽哲学を語った後にゆったりした My Way が続くもの

そして、最初のバージョンをアレンジしたライブ映像で、やや遅いが凄味が増しているもの

暫くの間、楽しめそうである











2021年7月10日土曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(2)


 













第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味

(3)ガリレオにおける生活世界の閉塞

フッサールによれば、ガリレオは真に経験され、経験可能な世界、すなわち生活世界を数学のカテゴリーで代替した

理想的な自然が、科学前の直観で捉える自然の上に重なり合うようになったのである

フッサールは言う

  生活世界には幾何学的な空間も数学的時間もない

一般的に言えば、生活世界に「理想化」は存在しない

実は、理想化は生活世界の中で始まり、そこに留まる一連の操作の結果である

従って、この起源が閉塞されると、理想化されたものが現実とされ、具体的なものは抽象化されたものに取って代わられる

生活世界が抽象的な数学の概念でドレスアップされ、生きた経験である起源から隔離されると、誤解され閉じ込められる

これが、ガリレオが彼の技術と方法を発見したやり方である

テクノロジーは今でもこの土台から生まれている

従って、フッサールにとって、この危機の歴史的起源にいるのはガリレオなのである

この状況に我々自身もいるのである

現象学はこのような状況から解放しなければならない

具体的には、抽象的な装いからの解放であり、生活そのものを経験させない、あるがままのものを経験させない、すべての意味が現れる生活世界を経験させない客観化された科学からの解放である







2021年7月9日金曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(10)


























3 juillet 1958

我々が考えている時に我々の中で起こることを記述すること? 記述するとは、動きの中にある思考の形、我々の中で考えられている宇宙、そして我々の中で行われる明確にされるための、光の下に来るための闘いを見ることなのか? 自伝ではなく、我々が考える時に我々の中で起こることの歴史。 哲学的体系とはおそらく、我々の体、世界、無限に開かれた運動の中から出現するより深い真理のダイナミズムが意図的に静的にされた人工的な休止ではないか。





 



2021年7月8日木曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(9)

































11 juin 1958

現象学は真であるもの、生きているもの(真理と生命)に近づこうとする傾向がある。

生命と真理の意図的な収斂はおそらく、フッサールの志向性の最も深い意味である。わたしが現在の実際的な些細なことの中に模範的なもの、典型的なもの、本質的なもの、真実が具現化したものを発見するのは、本質の中で自己の限界を乗り越えることによってのみである。

それを実現しようとして我々の生を生きること、その中に真なるもの、本質的なものの経験を発見しながら生きること。これは時間に基づく一つの生き方である。この生を探求することは、プルーストにとって失われた時の探究に見えたのである。 









2021年7月7日水曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(8)















4 juin 1958

フッサールがデカルトのコギトを現象学の方法の中心に置いた事実を過小評価すべきではない。しかし、このことの意味を間違えてはいけない。哲学がコギトから出発しなければならないという事実は、哲学の領野を分析・数学的方法に還元することではない。コギトから始めるとすれば、その哲学者、そしてその人間は自分自身の中だけに、自身特有の個人の経験の中に、明白な現実の中でそれ自体として提示される生を発見することである。ここでもまた明白なことはとりわけ、我々の生のすべての内容(意味、感情、記憶、想像、見方)を議論の余地のない方法で、我々に直接的で全的に提示することであることにすぐに気付かなければならない。

すなわち、間接的に我々に提示されるものと、我々が直接的に生きているものとの間に最初から区別があるのである。


「我々の人生の意味」(le sens de notre vie) という表現から明らかなように、人生における「意味」とは「方向」(le sens)のことなのである。間接的な人生から直接的な人生へ、あまり実現されていない人生からより実現される人生へ、あまり我々のものでない人生からより我々のものである人生へ、あまり現前していない人生からより現前される人生へ、より限定された人生からより限定されていない人生へ、・・・

つまり、漸進的とでも言える人生の方向がある。より少ないからより多くへ、間接から直接へ、形だけの参加から「生きている現在」(lebendige Gegemwart)が精神的交感であり関係である実質的な参加へと進むように見える方向である。 


 

 


2021年7月6日火曜日

すぐに最終点に辿り着かない認識















これまでどこを見ていたのかと思うことが日常生活(「生活世界」と言い換えることにしようか)にはある

あることをしようとした場合、当然思い付いてよいことに思いが至らないのである

なぜそのことに気付かなかったのかと不思議になるのである

今日、何と長い間貴重な機会を利用していなかったのかという大発見をした

余りにも当たり前過ぎるのでその詳細には触れないが、完全な盲点になっていたのである


このようなことは偶に起こる

直ぐに最終点を認識できても良さそうなのだが、その前に他のところに行かなければ最終点が見えて来ないのだ

今回の例を振り返ってみれば、そのことを必死に求める気持ちがなく、最初から諦めていたようだ

昨日、ある方との会話の中で一つの可能性が提示された

今日それをやっている時、これができるならこれまで諦めていたことも同じようにできることに気付いたのだ

しかも直ぐにではなく、暫く経ってから

全くどうなっているのかという感じだが、こういうことに気付く過程は実に興味深い

今日の発見で可能性が広がり、これから少しだけ自由になるような気がしている






2021年7月5日月曜日

靉光の『眼のある景色』からスクリーンの中の意識へ





昨日の朝の日美で画家の靉光(あいみつ;1907-1946)が取り上げられていた

代表作に『眼のある風景』がある

その風景になぜ眼があるのかについては諸説あるらしい

その中に、次のような考察があった

それは、自分が描いた絵と長い間向き合っているうちに、対象との逆転が起こったのではないかというもの

つまり、自分が描いていたと思っていたものに、逆に自分が見られているという感覚に陥ったのではないかというのだ

それで、そこに目を加えたのではないかという解釈であった



その解釈をわたし自身に引き寄せながら聞いていた

わたしの場合には書いたものがパソコンの画面に現れる

そこに自ずと相互作用が生まれる

対峙する時間が長くなれば、書かれてあるものが逆に語り掛けてくることがある

そこに発見が生まれる

その時、静かな悦びが湧いてくる



最近、このような自分の発見がないものには、自分自身が満足できないようになっている

それは何を意味しているのか

そのような発見があるまで、その中に留まったまま時を過ごすことである

どんなに小さなものであっても発見を求めるのである

書いたものの中に、それまで気付かなかった繋がりが見えることもその一つである

それは自分の考えがより明確になることであり、意識が一段高いところに向かうことである

そう考えるようになっている

このような気付きの機会がこれから増えることを期待するばかりである








2021年7月4日日曜日

驚くべき植物の生命力

























ひと月ほど前に植物が異常に成長しているのに驚いた

昨年、かなりの部分を刈り取ったところである

今日それがさらに増え、昨年を上回る姿を見せているのを発見

去年はよくも刈ってくれたな、とでも言っているような勢いだ

本当にすごい生命力である



同じ驚きを1年ほど中に入っていなかった昔車庫、現在物置の中を覗いて感じた

アスファルトの割れ目という割れ目からいろいろな植物が顔を出し、庭のようになっているではないか

この姿を見ていると、すべては生きているという感覚に導いてくれる

その感覚は悪くない

自分の中にも生命力を吹き込まれるように感じるからだろうか








2021年7月3日土曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(1)



















第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


1 人間のための科学の意味の危機としての科学の危機

(1)科学の危機と存在の危機

フッサールは『危機』の中で、科学の危機について触れている

それは科学そのものというよりは、人間存在にとっての科学に関することである

科学は成功を収めているが、まさにその理由により科学の危機が存在する


心理学の危機は単に心理学に止まらず、他の領域にも及ぶ

心理学が扱う主観性の謎がそれに抵抗するからだ

しかし他の科学は、19世紀後半から事実の科学に還元された

現代人は繁栄と科学の成功によって規定されることを受け入れている

あるいは「単なる事実の人間」であることを望んでいる

それは心理学を事実の科学に変容させることになる

それは主観性や世界における自由、理性的に自己、自分の人生、自分の歴史を形成する自由を破壊する


科学が危機になるのは、すべての主観的なものを排除し、事実の科学になる時である

「人生の意味」は問題ではなくなり、科学的に解析できない問題になる

しかし、科学はこの問題に解を与えることができるし、それこそが「科学性」の機能である

科学の危機は、この「科学性」と縁を切ったことによる

客観的に確認できる事実だけが真理ではない

科学に命を与え、人生に意味を与える理性の概念もまた真理である

真理は客観性に宿るだけではなく、それを超えるものである

科学の危機は、真理が事実にあり、意味は客観性に還元されると主張することによる


志向性に基づいている現象学は、自然科学であろうが社会科学であろうが、真理を事実に還元することに抗する

生命、魂、精神などは事実の科学では理解されない

フッサールによれば、真の知識は事実や客観性ではなく、それが厳密に基礎付けられているかどうかによる

実証主義による科学は、科学自身の明白な機能を誤解している


古代において重要であり、ルネサンス期に回復しようとしたものは、哲学的存在であった

哲学は哲学者だけではなく、人間を解放する

ルネサンスのプラトン主義は、我々の倫理的な再構成だけではなく、世界あるいは政治・社会的生活の再生を目指した

哲学はいろいろな科学の分野を統合しようとするものである

実証主義は形而上学を排除した

しかし、形而上学的問いを出すということは、事実性を超越した理性のレベルに彼自身を持ち上げることである

その意味では、形而上学は有効なのである


ルネサンス期に勝利したのは、哲学とその方法への信頼である

しかしその後、理性的人間の基盤としての哲学という考えは弱まっていった

現象学は主観性を人間に返そうとしている

人間を被っているものから自由にしようとしている

それは、人間が本来あるところのものを明らかにすること

ベールを取り払い、自分自身の真理を発見することである


哲学は人類の真の意味を獲得するために戦っている

哲学が今日可能であるとすれば、今ある自分に安住するのではなく、人間を作り直し、真の人間への道を開くことである

新しい哲学、新しい科学としての形而上学は、隠れているものに光を当てなければならない

隠れているものとは、真の原初の人間である

フッサールにとって、新しい科学としての哲学は潜在性から顕在性への歴史的運動である

そこから現れ、現象となるのは、我々の中に隠れている真の生命である


現象学は人間を自己意識へ、自己の基盤へ、自己の性向へ、超越的基盤へと導くことを考えている

それが可能になるのは、事実に過ぎないこと、および実証主義の「実証的」ということをカッコに入れる時である

超越的基盤は純粋な主観性に還元されることが求められる

一人称でいることである

この還元を被うものは常に現れ、生活世界を見え難くするので、純粋な主観性を取り戻すことである






2021年7月2日金曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(7)















18 novembre 1957

現象学、関係主義、道徳問題。あらゆる知覚において一つの典型、一つの本質を見ることが可能であるという事実の重要性。本質は常に関係の中にあり、「社会的」である。独我論に関するフッサールの言説の新しい側面。それはまさしく、わたしを他者と結び付けている本質的構造をわたしが発見するのは独我論の中である。知るということは、個人の中にモデル、典型、規範を発見することを意味している。


25 mars 1958

現象学的態度は、時に我々を考えさせ、時に哲学を生きさせる。しかし、それは我々を書く気にさせたり、我々の考えを固めさせたりしない。その意味では、現象学的態度はソクラテス的なのである。 


28 mars 1958

『危機』(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)の視点から、わたしは再考する。地域の存在論、あるいは形相的、視覚的であると同時に超越的な知の未だ定義されたことのない概要について。プラトン主義、理想的な目的としての理性の明晰さの価値、そして文明と歴史の意味を新しい形の下に生まれ変わらせる形相的直観の再評価。有機的な知、常に新しい見方を開く志向性の視点は、「生活世界」(Lebenswelt)の絶えざる奪還と相関している。まさに、新しい地平を我々に開き、経験の具体性の中で我々を生きさせるための判断の中断(épochisation)。経験と理性的な視点は、過去や未来がそうであるように無限である。無限は可能性と曖昧さを持つ何かのように我々を包んでいるが、それは我々の有限の時間の具体性の中に生きている。フッサールに由来するこの示唆は有機的であり、方向付けされている。この視点から見ると、ホワイトヘッドの哲学的観点との相同性を免れるものではない。今日、何年か前にどのようにホワイトヘッドについて書くべきだったのかを知る。

ホワイトヘッドの言う「感情」(feeling)は生活世界」(Lebenswelt)である。「感情」において、宇宙は出来上がった理論の中に閉じ込められ終わることはない。そうではなく、ある過程の中、異なる生活の歴史の中、時間の中での出来事のあらゆる関係性の中で更新されるのである。「もの・こと」は、過去と未来の中で、他の無限のモナドと結び付けられている開かれたモナドになる。まさにこれらのモナドは時空の中心であり、閉じたモナドではないため、互いに交差し出会うのである。時空の中で他の出来事の集合と関係を持つ出来事の集合、出来事の社会性。フッサールの志向性はホワイトヘッドの「美的」感覚と類似している。


 

 




2021年7月1日木曜日

プラトンの『メノン』を読む(2)














前回、『メノン』の冒頭を読んだが、最後まで読むことにした

冒頭部分に、あることについて知らなくても方向性くらいは分かる、というところがあった

その理由は、魂には「正しい思わく」が具わっているのでそれを想起すればよいというものだった

魂の永遠に基づく議論だが、知識とは異なるものとして「思わく」を出してきた


徳についての議論を始める前に、徳とは何であるのかを知っていなければならない

しかしその前に、徳は教えられるものか、他の方法で得られるものかについて検討したいとソクラテスは言う

知識は教えられるが、知識でなければ教えられない


まず、徳は善き(すぐれた)もの、善き人間は有益な人間であることにメノンも同意する

我々は、健康、強さ、美しさ、富などを有益なものと言っている

魂に関しては、節制、正義、勇気、ものわかりのよさ、記憶力、度量の大きさを善きものとしている

これらのものは有害にもなり得るが、それは知性を伴っていないときだということに二人は同意する

徳が善きものであるためには知の導きが必要になるとすれば、徳と知が重なり合ってくる

もしそうであれば、すぐれた人物は生まれつきではなく、徳は教えられることになる


しかしソクラテスは次のように考える

教えられるものであれば、それを教える教師とそれを学ぶ生徒がいるはずだ

徳の教師はいるだろうかと問う

自分の子供を医者にしたいと思えば、医者のところに送って技術を学ばせればよい

他の技術についても同様である


そこで話題になるのが、知徳を教えると称して公然と謝金を要求するプロタゴラスに代表されるソフィストである

ソクラテスによれば、彼らは自分の交わる者を堕落させ、前より悪い人間にして返すということを40年も続けていた

しかもその間、全ギリシアがそのことに気付かないどころか、死後も名声が消えることがなかった


徳は教えられるのかどうかの問題に戻ってみたい

国事にすぐれた人格高潔な人物はその徳を教えることができたのだろうか、とソクラテスは問う

何人かの政治家を出しその息子の状態を見ると、技術にすぐれた者はいたが、徳が教えられた形跡はない

徳の教師を唯一名乗るソフィストにしても、やっていることは弁論に秀でた者にするということだけ

つまり、徳は教えられないということになる


しかし、すぐれた人物は存在している

とすれば、徳に至るには知識による以外の方法があるのではないか

そこで思い至るのが「正しい思わく」で、行為の正しさを問題にする時、それは知に劣らないものになる

ただ、「正しい思わく」は人間の魂から逃げ出すので、思考により縛り付けておかなければならない

そうすれば、それが知識になり、さらに永続的なものとなる

これが知識と思わくの違いである


徳は知識ではない

つまり、政治的活動を導いているのは知識ではなく、思わくのよさであった

そこで偉大な成功をおさめる者は、神の恵みを受けた者ということになる

これで徳がどのようにして人間に具わるのかは分かった

そして、これから徳とは何なのかについて議論しようという時、いつものようにソクラテスは答えず去っていく


ところで、メノンがソクラテスのことを次のように評しているところがあった

あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから。(藤沢令夫訳)