2021年7月30日金曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(2)















哲学は、それが絶望的であれ致命的なものであれ、真理だけを気に掛ける

それでは、どの真理のことを言っているのか

それは次のものではない

天文学的、物理学的、化学的、生物学的などの現象に関する真理

世界で起こった、あるいは現に起こっていることに関する真理

社会の進化を説明したり記述したりする法則の探究

あるいは、そういうものがあるとして、精神状態や行動を支配している法則

これらすべては科学あるいは諸科学の問題である

これらの科学は、予見、準備、行動するための感覚所与(データ)を我々に知らせてくれる

科学の究極の目的は、有用性と技術である

ファラデーの法則自体に一体だれが興味を示すだろうか

誰もいないのである

しかし、電気分解は膨大な応用が可能である

技術的行為は本質的に限定的なものである

それは必要となる限定的な真理しか科学に要求しない

このようにして科学は常に部分的な真理を提供する

科学は複数でしか存在しない

科学は現実の全体ではなく、感覚所与としか関わりを持たない

そのため、唯一で普遍的な「真理」ではなく、感覚所与から確立される真理にしか辿り着かない

しかし、部分的ではない客観的な他の真理はないのだろうか


哲学が真理を目指しているとすれば、それは感覚所与から確立される真理ではなく、現実の全体に関する真理である

そのためには、感覚所与とそれを超えるものの両方を理解しなければならないのである

感覚所与を超えるものとは、一般に形而上学(métaphysique)と呼ばれる

この言葉は若干不十分である

実際には、physique(物理的)という言葉にはギリシア語のphusis(自然)が入っている

「物理的なものを超えた」ものとしての形而上学は、単に自然を超えたものではない

自然の中には感覚所与を超えたものがあるので、形而上学とは一般的に感覚所与を超えたもののことである





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