第一部 科学の危機と現象学における時間の問題
1 人間のための科学の意味の危機としての科学の危機
(1)科学の危機と存在の危機
フッサールは『危機』の中で、科学の危機について触れている
それは科学そのものというよりは、人間存在にとっての科学に関することである
科学は成功を収めているが、まさにその理由により科学の危機が存在する
心理学の危機は単に心理学に止まらず、他の領域にも及ぶ
心理学が扱う主観性の謎がそれに抵抗するからだ
しかし他の科学は、19世紀後半から事実の科学に還元された
現代人は繁栄と科学の成功によって規定されることを受け入れている
あるいは「単なる事実の人間」であることを望んでいる
それは心理学を事実の科学に変容させることになる
それは主観性や世界における自由、理性的に自己、自分の人生、自分の歴史を形成する自由を破壊する
科学が危機になるのは、すべての主観的なものを排除し、事実の科学になる時である
「人生の意味」は問題ではなくなり、科学的に解析できない問題になる
しかし、科学はこの問題に解を与えることができるし、それこそが「科学性」の機能である
科学の危機は、この「科学性」と縁を切ったことによる
客観的に確認できる事実だけが真理ではない
科学に命を与え、人生に意味を与える理性の概念もまた真理である
真理は客観性に宿るだけではなく、それを超えるものである
科学の危機は、真理が事実にあり、意味は客観性に還元されると主張することによる
志向性に基づいている現象学は、自然科学であろうが社会科学であろうが、真理を事実に還元することに抗する
生命、魂、精神などは事実の科学では理解されない
フッサールによれば、真の知識は事実や客観性ではなく、それが厳密に基礎付けられているかどうかによる
実証主義による科学は、科学自身の明白な機能を誤解している
古代において重要であり、ルネサンス期に回復しようとしたものは、哲学的存在であった
哲学は哲学者だけではなく、人間を解放する
ルネサンスのプラトン主義は、我々の倫理的な再構成だけではなく、世界あるいは政治・社会的生活の再生を目指した
哲学はいろいろな科学の分野を統合しようとするものである
実証主義は形而上学を排除した
しかし、形而上学的問いを出すということは、事実性を超越した理性のレベルに彼自身を持ち上げることである
その意味では、形而上学は有効なのである
ルネサンス期に勝利したのは、哲学とその方法への信頼である
しかしその後、理性的人間の基盤としての哲学という考えは弱まっていった
現象学は主観性を人間に返そうとしている
人間を被っているものから自由にしようとしている
それは、人間が本来あるところのものを明らかにすること
ベールを取り払い、自分自身の真理を発見することである
哲学は人類の真の意味を獲得するために戦っている
哲学が今日可能であるとすれば、今ある自分に安住するのではなく、人間を作り直し、真の人間への道を開くことである
新しい哲学、新しい科学としての形而上学は、隠れているものに光を当てなければならない
隠れているものとは、真の原初の人間である
フッサールにとって、新しい科学としての哲学は潜在性から顕在性への歴史的運動である
そこから現れ、現象となるのは、我々の中に隠れている真の生命である
現象学は人間を自己意識へ、自己の基盤へ、自己の性向へ、超越的基盤へと導くことを考えている
それが可能になるのは、事実に過ぎないこと、および実証主義の「実証的」ということをカッコに入れる時である
超越的基盤は純粋な主観性に還元されることが求められる
一人称でいることである
この還元を被うものは常に現れ、生活世界を見え難くするので、純粋な主観性を取り戻すことである
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