2021年7月19日月曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(3)

























第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味

(4)客観主義と超越主義: 二元論、対象化された心理学

「成る」ということは単に事実に基づくものであったり、原因となる出来事が単純に繋がっているものではない

フッサールによれば、それは「内側から」、時間の内的意識の中から生き直されることである

「内側から」という表現は、観念的な意識ではなく、モナド間の、物理的、本能的、身体的、心理的、精神的な具体性の中ある生きている人間に関わるものである


フッサールが「内側から」と言うのは、心理学のある学派がガリレオの物理学に則って人間の外側だけを扱っているからである

「精神物理学的客観化」をしているからである

ガリレオにおいて自然と美的生活という生きた世界が閉塞されているのと同じように、人間の生活世界が閉塞される精神物理学的客観化は、心身を分ける二元論から生まれるのである


従って、生活世界の閉塞は二元論と結び付いている

つまり、客観主義と超越的主観主義の間にある対比の起源はここにあるのである・・・

フッサールによれば、この二元論はガリレオの物理数学的な科学がすべての科学の唯一のモデルとなったところに由来している・・・

バークリーやヒュームの重要性は、自然化された心理学が不十分であることを明らかにしたことにある

それがカントの超越論的哲学に繋がり、今日の現象学に至っている


フッサールによれば、客観主義と超越主義との闘いには、近代精神の歴史の意味がある

客観主義にとって「在る」ということは、客観的に、物理数学的に、「すでに与えられている」ことである

他方、超越主義における「在る」とは、科学以前の生活世界、我々が現在生き、常に生きてきた日常世界である

この世界は「主観的」、すなわち直接のモナド間の生活であり、一人称の存在の相互関係である


「心理的」生活は生活世界の中にある

それは対象物ではない

現象学は常にこの生活を明らかにし、再発見する

それは超越論的哲学の最終形である


歴史家の仕事は、沈殿し、客観化され、疎外され、死んでいるものを捉え直し、そこに再び命を与えることである

真の歴史科学とは、蘇らせるための継続的な過程であり、隠れた歴史的意味を再発見することである









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