2021年7月1日木曜日

プラトンの『メノン』を読む(2)














前回、『メノン』の冒頭を読んだが、最後まで読むことにした

冒頭部分に、あることについて知らなくても方向性くらいは分かる、というところがあった

その理由は、魂には「正しい思わく」が具わっているのでそれを想起すればよいというものだった

魂の永遠に基づく議論だが、知識とは異なるものとして「思わく」を出してきた


徳についての議論を始める前に、徳とは何であるのかを知っていなければならない

しかしその前に、徳は教えられるものか、他の方法で得られるものかについて検討したいとソクラテスは言う

知識は教えられるが、知識でなければ教えられない


まず、徳は善き(すぐれた)もの、善き人間は有益な人間であることにメノンも同意する

我々は、健康、強さ、美しさ、富などを有益なものと言っている

魂に関しては、節制、正義、勇気、ものわかりのよさ、記憶力、度量の大きさを善きものとしている

これらのものは有害にもなり得るが、それは知性を伴っていないときだということに二人は同意する

徳が善きものであるためには知の導きが必要になるとすれば、徳と知が重なり合ってくる

もしそうであれば、すぐれた人物は生まれつきではなく、徳は教えられることになる


しかしソクラテスは次のように考える

教えられるものであれば、それを教える教師とそれを学ぶ生徒がいるはずだ

徳の教師はいるだろうかと問う

自分の子供を医者にしたいと思えば、医者のところに送って技術を学ばせればよい

他の技術についても同様である


そこで話題になるのが、知徳を教えると称して公然と謝金を要求するプロタゴラスに代表されるソフィストである

ソクラテスによれば、彼らは自分の交わる者を堕落させ、前より悪い人間にして返すということを40年も続けていた

しかもその間、全ギリシアがそのことに気付かないどころか、死後も名声が消えることがなかった


徳は教えられるのかどうかの問題に戻ってみたい

国事にすぐれた人格高潔な人物はその徳を教えることができたのだろうか、とソクラテスは問う

何人かの政治家を出しその息子の状態を見ると、技術にすぐれた者はいたが、徳が教えられた形跡はない

徳の教師を唯一名乗るソフィストにしても、やっていることは弁論に秀でた者にするということだけ

つまり、徳は教えられないということになる


しかし、すぐれた人物は存在している

とすれば、徳に至るには知識による以外の方法があるのではないか

そこで思い至るのが「正しい思わく」で、行為の正しさを問題にする時、それは知に劣らないものになる

ただ、「正しい思わく」は人間の魂から逃げ出すので、思考により縛り付けておかなければならない

そうすれば、それが知識になり、さらに永続的なものとなる

これが知識と思わくの違いである


徳は知識ではない

つまり、政治的活動を導いているのは知識ではなく、思わくのよさであった

そこで偉大な成功をおさめる者は、神の恵みを受けた者ということになる

これで徳がどのようにして人間に具わるのかは分かった

そして、これから徳とは何なのかについて議論しようという時、いつものようにソクラテスは答えず去っていく


ところで、メノンがソクラテスのことを次のように評しているところがあった

あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから。(藤沢令夫訳)


 



0 件のコメント:

コメントを投稿