1998年12月5日、トゥールーズで行われたマルセル・コンシュさんの講義『懐疑主義と哲学の意味』から
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デカルトの死後に出た論文集にある未完の対話は「自然の光による真理の探究」と題されている
確かに、哲学の意味とはこのようなものである
「世界で最も共有されているもの」、すなわち良識あるいは理性の助けを借りて真理を探究することである
しかし懐疑主義は、真理は存在しないとか真理には到達できないという
それでは、哲学の意味は何なのか
懐疑主義者が哲学に何も期待しないのだとすれば、哲学をすることはできるのだろうか
大雑把に言えば、これが提出された問いのポイントである
ペリゴールのお城で純粋で簡素な無為に専念すると決意したモンテーニュ
彼の精神が絶え間なく生み出す「キメラと幻想的な怪物」に驚きながら、彼の思想に秩序を齎すためにそれらを書く決心をする
彼は言語の性質について省察し、ホメロスの詩を引用する
言語はどんなことでも、あるいはその反対のことを言うための言葉の豊かな基底を成すものである
わたしはフランス語の言葉の豊かな基底を自由に操る
これらの言葉をどのように関連付けるのか
何のために
あなたは何の役に立つのか
不確定の読者に語り掛けながら、モンテーニュは明確に言う
わたしはこの中で君たちの役に立つことは何も考えていない
しかし『エッセイ』は多くの人の助けになり、役に立っている
しかしそれは役に立つことを目的として書かれたわけではなかった
わたしがリセや大学で教えていた時、生徒や学生に役立つように気に掛けていた
この点では、わたしは哲学者ではなかった
哲学者は有用性について考えないからだ
最も有益なのは幸福に資するものである
つまり、哲学は幸福について考えない
ただ真理だけを考えるのである
しかし、真理はつらく、苦しく、幸福を破壊し不可能にする可能性がある
哲学と異なり、宗教は有用であるカテゴリーに属する
宗教は幸福を約束し、何をすべきか、幸福を受け獲得するためにどうあらねばならないかを命じる
そこでは真理より幻想の方が重要になる
仏教は明らかに真理を有用性の下に置く
ブッダは「人間に平和と幸福を齎すものしか教えなかった」(W・ラフラ)
それゆえロジェ・ポル・ドロワは、「有用性が真理を上回っている」と明言している
究極の目的が幸福あるいは救済、至福である教えは、おそらく宗教であり、知恵だろう
この教えは哲学ではない
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