ラベル Berkeley の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Berkeley の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年11月10日木曜日

コリングウッドによる自然(40): 18世紀(3)






















 John Smibert (1688-1751), The Bermuda Group (Dean Berkeley and His Entourage)



バークリー(1685-1753)のつづきである

昨日のまとめたバークリーの議論の本質に間違いはない

彼はしばしば 性急に自分自身を表現するため、とても健全とは言えない議論で自己防衛しようとした

しかし、細部の批判は彼の主要な立場には触れなかった

彼が対峙した問題を理解するやいなや、唯一のやり方で解決したと人は気付くのである

精神と物質の概念を17世紀の宇宙論で定義されたように定義するのであれば、両者の関連を発見するという問題は、バークリーが解いたようにしかできないと認めざるを得ないのである

ただ、なぜ精神が二重の働きをしなければならず、それによって物質を創り出すのかという問題はそのまま残った

これは『純粋理性批判』の「先験的分析論」のところでカント(1724-1804)が問うた問題であった

そして彼の答えは、もし広まっている精神の理論が正しければ、物理学者が物質世界に存在することを見出す特徴は、まさに悟性によってそれ自身のために構成されたどんな対象にも存在するものであろう


しかし、バークリーもカントも十分に扱わなかったもう一つの問題があった

もし自然が精神活動の産物として精神によって創られるならば、その精神とは一体どのようなものなのか

それは人間個人の精神ではないだろう

バークリーもカントもその後継者たちも、コペルニクス(1473-1543)やケプラー(1571-1630)やニュートン(1642-1727)が創造したとは思っていなかった

バークリーは、物理世界の創造者は人間や有限の精神ではなく、無限で神的な精神、絶対的な思惟者としての神であると主張した

こうして彼は、ルネサンス期の汎神論、すなわち神の体としての物質世界という考えを一掃したのである

プラトン(427 BC-347 BC)やアリストテレス(384 BC-322 BC)、あるいはキリスト教神学にとってと同様、バークリーにとっても神は純粋な思惟であり身体は持っていないのであった

世界は神ではなく、神の思惟の活動による創造物だった

それでは、無限の精神と人間の有限の精神との関係はどういうものなのか

バークリーにとって、この2つは全くの別物であった

神の精神は、それが思惟するものを創るアリストテレスの能動的理性intellectus agens)に似たものになり、人間の精神は神に与えられた秩序を理解する受動的理性のようなものになる

しかし、これはバークリーの出発点とは一致しないものであった

なぜなら、精神は少なくとも自然の一部、第二性質を創造するという考えを彼がロックから受け継いだ時、その精神は人間の精神を意味していたからである

それを否定すれば、彼の観念論の全構造は崩壊するのである








2022年11月9日水曜日

コリングウッドによる自然(39): 18世紀(2)































精神と物質の問題にバークリー(1685-1753)が一つの解決法を提示した

彼は、17世紀の自然観、すなわち物質――それはすべての運動が外力(vis impressa)によってもたらされる外的作用因によるものだが――の複合体であり、質的な要素を完全に欠いた純粋に量的な言葉ですべてが記載可能な複合体であることを受け入れたところで、この考えが抽象的である――部分的な説明にしかなっていないので不完全なものである――ことを指摘した

デカルト(1596-1650)、ガリレオ(1564-1642)、そしてロック(1632-1704)から受け継いだ言葉を用いれば、物理学者による物質世界は第一性質だけを持つが、我々が知っている自然は第二性質も持っている

より正確な言葉を使うとすれば、自然のどこにも質を欠いた純粋に量だけのものは存在しない

質のない量は抽象であり、その世界は思惟による観念的な存在(ens rationis)である

実在の一部の選ばれた側面についての図式的な見方なのである

これがバークリーの議論の第一歩である

第二のステップは、やはりデカルト、ガリレオ、ロックから受け継がれた教義が、自然の質的な相違をすべて心の営みの結果にしていることである

もしそうであるならば、実際に存在している自然における不可欠な要素は心の働きということになる

心がなければ自然が存在しないのだとすれば、自然の全体は心の作り出したものということになる


ここで我々は全く新しい形而上学的立場を手に入れる

伝統的な17世紀の宇宙論を取り入れ、それを並び替えることにより、バークリーは次のことを示した

もし実体がそれ自体で存在し、それ以外には依存しないものだとすれば、存在を主張できるのは心だけということになる

我々が日常的に感受している自然は心が創ったものであり、ガリレオの言う物理学者の量的自然はそこからの抽象ということになる

ここまでを纏めると

第一に、我々は心の力により、日常的に感受している生身の自然界を創り出している

第二に、抽象的思考により、生身の部分を除き骨格だけにするが、それが物理学者の言う「物質世界」である

(この項つづく)