「ブレンターノの考えは、志向に関わる表現が不可欠であることと志向の自律的な科学の重要性を示すものとして、あるいは思考に関わる表現の根拠のなさと志向の科学の空虚さを示すものとして受け入れることができるかもしれない」
2022年4月22日金曜日
パットナム「自然主義の中身と魅力」(4)
2022年4月21日木曜日
パットナム「自然主義の中身と魅力」(3)
2022年4月20日水曜日
パットナム「自然主義の中身と魅力」(2)
2022年4月17日日曜日
パットナム「自然主義の中身と魅力」(1)
すべての現象は自然法則に支配される、あるいは・そして自然科学の方法があらゆる研究領域に適用されるという立場
2022年4月13日水曜日
ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」を読んで
2022年4月12日火曜日
ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」8
2022年4月11日月曜日
ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」7
2022年4月10日日曜日
ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」6
道理に叶っているという判断が暗黙のままであるとしても、そのような判断は科学的研究によって前提とされているとわたしは主張した
道理に叶っているという判断は客観的であり得ると主張した
そして、それらの判断は「価値判断」の典型的な性質をすべて持っていると主張した
つまり、「事実の知識は価値の知識を前提とする」と言ったわたしのプラグマティストの教師は正しかったと主張した
しかし、過去半世紀の科学の哲学史は大部分、この問題を避ける試みの歴史であった
明らかに、どんな空想であれ、実証主義の最後の?ドグマ――事実は客観的で価値は主観的であり、両者は決して交わらない――を考え直すことより望ましいと見られているのだ
その空想には、演繹の論理だけで科学を行うという空想(ポッパー) 、科学をアルゴリズムを単純に試すことに還元するという空想(カルナップ)などがある
科学者の誰一人としてわたしに異議を申し立てなかった
にもかかわらず、我々が「帰納の論理の神話」と呼ぶものに科学者自身が同意していないとしても、一般人や科学哲学者を含む哲学者の科学に対する考え方に強い影響を及ぼしていた
「事実」に対する信仰は価値に対する「態度」と根本的に違わなければならないとする考えは、価値は「認知されない」という考えの有力は擁護者であったチャールズ・スティーブンソンに支持されていた
彼は「情緒主義」(emotivism=価値判断は単なる情緒的な「説得」に過ぎないとする主義)の父で、価値判断は「帰納と演繹」によって検証できないとした(しかし「事実についての信仰」はできると考えたのだろう)
従って、「帰納」の問題という認識論における技術的な問題として始まったものは、価値の問題を理性的に議論できる可能性に決定的な役割を果たしたのである
事実と価値が深く絡み合っているという考えの事例は、過去100年の最良の哲学研究のいくつかに依拠している
わたしは何年もの間、科学、特に社会科学においては、事実と理論と価値の絡み合いを扱わないわけにはいかないということを主張してきた
それは三本脚の椅子のようなもので、全ての脚が揃っていなければ倒れるのである
もし何かが「価値判断」であれば、それは完全に「主観的」であるはずだという余りにも一般的な考えは、危うい基盤の上にあるだけではなく、完全に崩れ去った基盤の上に立っているのである
このことを理解することは、「価値についての理性的な議論」の可能性と重要性に対する信頼を取り戻す時に決定的になるとわたしは考えている
2022年4月9日土曜日
ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」5
2022年4月8日金曜日
ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」4
もし子供が次のように訊いてくるとする
「なぜ我々は動物を食べるのか」「なぜ豊かな人と貧しい人がいるのか」「神とは何か」「なぜ学校に行かなければならないのか」「白人と同じように黒人を愛することができるのか」「誰が土地を所有しているのか」「なぜ何かが在るのか」「神はどのようにしてここにやってきたのか」
わたしの回答は内容の薄いものに感じ、これがわたしのやっていることで光栄に思うと言う以外になくなるように感じる
そして、わたしのこれまでの結論は「わたし」が辿り着いた結論ではなく、単に出回っているものを飲み込んだものに過ぎなかったと感じるのである
わたしはその理解を欺瞞や冷笑や居丈高さによって鈍らせるかもしれない
しかしこの機会を利用して、わたし自身の文化に還り、なぜ我々がやるようなことをやり、我々が判断するように判断するのか、そしてどのようにそこに辿り着いたのかを問いたい
・・・
哲学することにおいて、わたしの言語と生活を想像力の中に持ち込まなければならない
わたしが必要としているのは、わたしの文化の基準を集めて会合を開くことである
それによって、わたしが求め想像したわたしの言葉と人生を、文化の基準と対峙させるのである
これが哲学の名に値する仕事であるようにわたしには見える・・・その意味で、哲学は成人の教育・教養になるのである
第二の定義は、ウィルフリド・セラーズのエッセイ『哲学と人間の科学的イメージ』によるものである
彼は書いている
哲学の目的は、可能な限り広い意味での「もの・こと」が、可能な限り広い意味でどのように結び付いているのかを理解することである
カヴェルの定義である「成人の教育・教養」 と彼が子供の疑問として挙げた例は、成人が教育・教養を必要としていることを示すものだが、それはわたしが哲学の「道徳的」側面と呼ぶものを指し示している
その側面とは、現在までの我々の人生と文化を問いただし、そのいずれをも改善するように迫るものである
セラーズの定義は、わたしが哲学の「理論的」側面と呼ぶもので、それは我々が知っていると思っていることを明確にし、それらすべてがどのように「結び付いているのか」を解き明かすことを我々に要求するものである
確かに、カヴェルの定義はセラーズの定義を含んでいる
なぜなら、「もの・こと」がどのように結び付いているのかなどどうでもよいと思っている大人は「教養人」とは数えられないからである
論理実証主義は哲学の理論的側面を保持しようとしたが(ただ、多くの理論的側面を「形而上学的」として無視した)、道徳的側面を完全に排除した
他方、ポストモダニズムは理論的側面を犠牲にして、道徳的側面を保持しようとした
ただその道徳的側面は、かつてリチャード・ローティが「マルクス主義と、ポール・ド・マンとフーコーというポスト・マルクス主義者の幻覚効果」と言ったものに還元するものではあったのだが、、
わたし自身の見方は、最善の哲学はいつの時代も道徳的側面を代表する哲学者と理論的側面を代表する哲学者に加えて、この両面を統合する洞察力を示した天才を持っていたというものである
このいずれかの側面を切り捨てるということは、単に哲学というものを殺すだけではなく、知的、精神的自殺を意味している
2022年4月7日木曜日
ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」3
2022年4月6日水曜日
ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」2
形而上学や(形而上学的)認識論に属するすべての言説は、証明できないので非科学的である。ウィーン学団ではそのような言説を「ナンセンス」と言っている。












