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2022年4月22日金曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(4)

























「『自然主義』の不安定性」(2)


「自然主義者」自身によって最も還元主義的説明に抵抗するので、彼らから見れば問題があると見做されてきた言説の領域は、直接の言及、意味、信念、欲求のような「志向性のある」言説である

ただ、数学も同様に、しばしば問題と見做されている

なぜなら、よく言われるように、「我々は数学的実体と因果関係をもって相互作用できないから」

すでに19世紀にはブレンターノが自然主義的で物理主義的な心の説明を論駁するために、志向性の還元不可能性を取り上げていた

クワインは志向性が還元不能であるという点でブレンターノに喜んで同意するが、それは真の現象ではないと結論した
「ブレンターノの考えは、志向に関わる表現が不可欠であることと志向の自律的な科学の重要性を示すものとして、あるいは思考に関わる表現の根拠のなさと志向の科学の空虚さを示すものとして受け入れることができるかもしれない」
わたしの立場は、ブレンターノとは異なり、後者になる













2022年4月21日木曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(3)

























「『自然主義』の不安定性」(1)


第1級の概念システムに含まれるものに関して言えば、クワイン(今日で言えば、サイモン・ブラックバーン)とバーナード・ウィリアムズはミニマリズムと呼ばれるものを代表しているが、そんなに多くの我々の言説を「第2級の概念システム」の範囲に退けるという考えに多くの自然主義者が居心地よく感じないのは理解できる

そしてこの居心地の悪さは、一部の「自然主義者」を以下のプロジェクトに駆り立てた

彼らは、クワイン、ブラックバーン、ウィリアムズらが第1級のシステム(ウィリアムズによれば「世界の絶対的概念」)から追い出した大部分は、実は第1級のシステムに「還元される」ことを示そうとしたのである

つまり、「自然主義者」の一翼が(物理主義的)「存在論的還元主義」の方向に押されたのである

リチャード・ボイド、そしておそらくジョン・レイルトンのような最も野心的な存在論的還元主義者は、倫理的に善であることの性質までも復権しようとしたが、そこまで行く哲学者は稀であった

ジェリー・フォーダーが有名だが、他にも「意味」の物理主義的説明をしようとした人たちがいる

さらに、ハートリー・フィールドペネロプ・マディのような人たちは、数学の内容についても物理主義的説明をしようとした

問題は、このような存在論的還元主義が身近なサークルや少数の友人や教え子以外に支持者を得られなかったことである

そして、哲学においては常である「後ずさり」が始まるのだが、一体「自然主義者」はどこに後ずさりするのだろうか








2022年4月20日水曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(2)

























「多元主義」


すべての認知のためには一つの言語ゲームで十分であるという考えを否定するのが概念的多元主義であると定義することは可能である

しかし、それはあまり助けにならない

「自然主義者」も条件付きで、そう認めるからである

最も一般的な条件は、クワインが言う第1級の概念システム(科学、あるいは適切に形式化された科学)と「第2級の概念システム」の識別に代表されるものである

周知のようにクワインの主張は、第1級の概念システムだけが我々が真面目に相手にすべき世界を含んでいるというものであった

例えば、物理学の概念システムには「意味ありげな事実」に対応するものは何もない

そのような事実に最も近づくことができるのは、わずかにスキナー(1904-1990)流の行動主義心理学である

もしスキナーの心理学が意味の説明をできないのだとすれば、意味にとっては最悪である

他の「自然主義者」は第1級と第2級の間の線を別のところに引くかもしれない

「自然主義」の大部分のバージョンに共通するのは、狭義の科学的第1級のシステムに合致しない概念的力や活動は、正真正銘の理性的な言説には満たないものと見做されるということである


わたし自身の概念的多元主義の核心にあるものは、「自然主義者」によって十分に理性的言説になっていないと見做されるいろいろな言明は、ジェームズ・コナント(1893-1978)が言ったように、「他のいずれの言明と同じように、真理と正当性の規範によって十分に支配されている」正真正銘の言明であるという主張である










2022年4月17日日曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(1)
























数日のブレイクであったが、少しスッキリしたように感じられる

気分が変わったところで、新しいパットナムさんを読むことにしたい

今回は、2004年の「自然主義の中身と魅力」というエッセイである

早速、最初のセクションから始めたい


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タイトルが示唆するように、わたしが問題にする「自然主義」に関して二つの問いがある

一つは、「自然主義者」であるということは何を意味しているのか

もう一つは、この立場が極めて不明確で多くの問題を抱えているにもかかわらず、なぜ「自然主義」がかくも魅力的なのか


「『自然主義』の中身」


今日、最も一般的な「自然主義」の使われ方は以下のようになるだろうか

哲学者は――形而上学、認識論、心の哲学、言語哲学について書いている大多数の哲学者がそうだと思われるのだが――彼らのエッセイや自著の目立つところで、自分は「自然主義者」であること、あるいは擁護されるべきは「自然主義的な」見方であることを宣言している

この宣言は、スターリンのソ連で書かれた論文における、ある見方はスターリン同志のものに一致するという宣言と似ている

つまり、「自然主義的」でないもの(スターリン同志の見方に一致しないもの)はすべて受け入れ難いものであり、正しいものではあり得ないことになる

それから一般的な特徴として、「自然主義」が定義されていないことが挙げられる


唯一つの例外として、ボイドギャスパートラウトの『科学の哲学』がある

この本の用語説明に、自然主義は以下のように定義されている
すべての現象は自然法則に支配される、あるいは・そして自然科学の方法があらゆる研究領域に適用されるという立場
しかし、この定義は「選言的」であり、2つの異なる要素がある

我々は2つの「自然主義」の定義を提示されているのである

この点について考えてみよう


最初の定義によれば、自然主義者とは「すべての現象は自然法則に支配される」と信じる哲学者のことである

これは何を意味しているのだろうか

次の「現象」について考えてみよう

普段は明快な文章を書く人が、理解不能のパラグラフを書いたとする

この定義による自然主義者は、この現象は自然法則の支配下にあると考えなければならない

これが意味するところは明確だろうか

この難解な文章を書いた人は、もちろん自然法則を侵してはいない

もし自然主義者であるために必要なことが自然法則を侵す現象はないと考えることだけだとすれば、「自然主義者」でない人はいるだろうか

あるいは、自然主義者は「難解」という概念を含む自然法則があると信じることを求められるのだろうか


他方、第2の定義によれば、自然主義者とは「自然科学の方法がすべての研究領域に応用可能である」ことを信じる哲学者になる

それでは、自然科学の方法を「文章解釈」に適用するとはどういう意味だろうか

あるいは、文章解釈は「研究分野」ではないというのだろうか

もし、すべてのこと(例えば、論理実証主義者がかつて唱えたように歴史は科学である)には物理学に似た科学があると信じることが関係しているとするならば、なぜそのようなあり得ない見方を採らないことがまともとはされないのだろうか


一見すると、非常に多くの哲学者がその意味するところをはっきり説明することなく、自身を「自然主義者」と堂々と宣言するということは、「自然主義」には明確な中身が全くないということを示唆しているのかもしれない

しかしその考えは間違いで、わたしが批判しているこの言葉の科学的理解における「自然主義」には中身がある

しかし、不幸な言葉である「自然主義」は、その中身を明らかにするのではなく、隠してしまうのである

それが何なのかを知るためには、科学的自然主義の「敵」が何を擁護しているのかを考えなければならない

彼らが擁護しているのは勿論「超自然」でも「オカルト」でもない

ただ「自然主義」は、敵が擁護するのはこれらのものであると示唆するのではあるが、、、、

彼らが実際に擁護しているのは寧ろ、「概念的多元主義」なのである

それでは「概念的多元主義」とは何なのか












2022年4月13日水曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」を読んで
























今回ひょんなことから読んでみたパットナムだったが、表現と論理展開が「分かりやすい」ものであった

「易しく」書くという意味ではなく、明晰なのである

これは大陸哲学との違いの表れなのだろうか

それから、科学と哲学の捉え方はわたしのものとほとんど重なるという印象を持った

僭越だが、よい捉え方をしていると言えるだろう

もう少し読んでいきたいと思わせてくれる最初のエッセイであった








2022年4月12日火曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」8
































「歴史のもう一つの見方」


ハイデッガーの『存在と時間』によってヨーロッパに広がった哲学の「危機」についての見方がある

それはハイデッガーのような元神学生にとっては自然なのだが、伝統的哲学を神と存在の神学(ontotheology)と見ていたことである

もう一つの「危機」の説明は、バートランド・ラッセル論理実証主義者の著作に見ることができる

それは、哲学が決着しない議論に導くことと、「新しい論理」によってその解決が可能になるので、伝統的な哲学は完全に置換されなければならないという認識であった


哲学における「進歩」は、問題を最終的に「決着すること」である必要はない

この問題は古い歴史を持っており、確かに中世では哲学はそのように要求されたが、単に神学を支えていたわけではなかった

一つだけ例を挙げれば、物理科学における観察できないものについての言説は真に「表象主義的」であるのかという問題がすでにバークリーヒュームの時代に見られたのである

量子力学をどのように解釈するのかという問題は、現代におけるスピンオフに過ぎない

哲学は決して存在神学ではなかったのである

これが哲学の「危機」とか「哲学の終焉」という考えが全くの間違いであることの理由である

そして、もし哲学の問題が常に我々とともにあるという意味で解決不能であるとするならば、それは残念なことではなく、寧ろ素晴らしいことなのである

(了)







2022年4月11日月曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」7

























「科学的イメージと見えたままのイメージ」


我々が世界を理論化する際に「見かけを守る」必要性、すなわち、見えたままのイメージ(Manifest Image)を正当に評価することは、哲学が始まった時からの重要な願望であった

アリストテレスが形而上学は見かけを守らなければならないと主張したことは、プラトン的推論に対して普通の言語への敬意を示したものと見ることができるだろう

もし「普通の言語」が軽蔑されるものに過ぎないとすれば、我々が人間の言葉を記述するために用いるすべての語彙は軽蔑されるか、あるいは社会科学の「ニュースピーク」に置換されるのだろうか


トルストイジョージ・エリオットの小説にある人間の生活の描写は単なるエンターテインメントではなく、社会生活や個人生活で起こっていることを理解できるようにしてくれる

そして、そのような描写には普通の言語が我々に提供してくれる多くの微妙な違いが必要になる

「我々がどのように語るのか」の妥当性や非妥当性の問題は哲学者の問題だけではない

普通の言語が一度笑い飛ばされてしまうと、哲学的理論は我々の話し方、生き様に全く責任を持てなくなるという点で、これは哲学者の問題になる

しかし、これは哲学者を超える問題である

なぜなら、普通の言語に対する軽蔑は、根本のところですべての人類に対する軽蔑になるからである









2022年4月10日日曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」6

























「科学と規範性」


科学と哲学の関係を見る場合の難しさは、日常生活に溢れる科学と哲学に関する間違った考えであるのは明らかである

その中には、科学をやるための「アルゴリズム」のようなものがあるという有力な考えも含まれている

しかし、この考えはわたしが知っている科学者が信じているものではない

何年か前、少なくとも50名のノーベル賞学者がいた聴衆に向かって、以下のように話したことがある
道理に叶っているという判断が暗黙のままであるとしても、そのような判断は科学的研究によって前提とされているとわたしは主張した

道理に叶っているという判断は客観的であり得ると主張した

そして、それらの判断は「価値判断」の典型的な性質をすべて持っていると主張した

つまり、「事実の知識は価値の知識を前提とする」と言ったわたしのプラグマティストの教師は正しかったと主張した

しかし、過去半世紀の科学の哲学史は大部分、この問題を避ける試みの歴史であった
明らかに、どんな空想であれ、実証主義の最後の?ドグマ――事実は客観的で価値は主観的であり、両者は決して交わらない――を考え直すことより望ましいと見られているのだ

その空想には、演繹の論理だけで科学を行うという空想(ポッパー) 、科学をアルゴリズムを単純に試すことに還元するという空想(カルナップ)などがある

科学者の誰一人としてわたしに異議を申し立てなかった


にもかかわらず、我々が「帰納の論理の神話」と呼ぶものに科学者自身が同意していないとしても、一般人や科学哲学者を含む哲学者の科学に対する考え方に強い影響を及ぼしていた

「事実」に対する信仰は価値に対する「態度」と根本的に違わなければならないとする考えは、価値は「認知されない」という考えの有力は擁護者であったチャールズ・スティーブンソンに支持されていた

彼は「情緒主義」(emotivism=価値判断は単なる情緒的な「説得」に過ぎないとする主義)の父で、価値判断は「帰納と演繹」によって検証できないとした(しかし「事実についての信仰」はできると考えたのだろう)

従って、「帰納」の問題という認識論における技術的な問題として始まったものは、価値の問題を理性的に議論できる可能性に決定的な役割を果たしたのである


事実と価値が深く絡み合っているという考えの事例は、過去100年の最良の哲学研究のいくつかに依拠している

わたしは何年もの間、科学、特に社会科学においては、事実と理論と価値の絡み合いを扱わないわけにはいかないということを主張してきた

それは三本脚の椅子のようなもので、全ての脚が揃っていなければ倒れるのである

もし何かが「価値判断」であれば、それは完全に「主観的」であるはずだという余りにも一般的な考えは、危うい基盤の上にあるだけではなく、完全に崩れ去った基盤の上に立っているのである

このことを理解することは、「価値についての理性的な議論」の可能性と重要性に対する信頼を取り戻す時に決定的になるとわたしは考えている

 








2022年4月9日土曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」5

























「科学は哲学を必要としているのか」


哲学が科学と同一視されるべきではないということは、科学と哲学の密接な関係を否定するものではない

科学がやることは実験結果を予測することであるという実証主義者の考えは、ある科学者には未だに一般的だが、それは常に基礎となる重要な問いを避けることに繋がる

例えば、量子力学を理解するという問題がある――すなわち、我々の最も基本的な物理理論がうまく働くために、物理的現実はどのようになければならないかという問題である――という認識が広まっているが、その認識はニールス・ボーアの「コペンハーゲン解釈」がすべての問題を解決したという主張によって長く遅らされた

しかし、ボーア・バージョンの「コペンハーゲン解釈」は、人間の心は量子の宇宙がどのようになっているのかをおそらく理解できないだろうという曖昧な哲学的主張にしかならなかった

従って心は、古典的な物理学――すなわち非量子力学――の言葉で予測を記述可能にするために量子力学を使う方法を我々に語ることに専念すべきなのである

わたしが最初に「空気」が変わったことに気付いたのは、1975年頃、マレー・ゲルマンが講演で「量子力学のコペンハーゲン解釈というものは存在しません。ボーアが物理学者を洗脳したのです」というのを聞いた時だった


物理学者が量子力学を単なる予測マシンとして見ることを止め、量子力学の問題に真剣に取り組み始めた後、多くの新しい道が開けた

ひも理論量子重力理論客観的収縮理論などがその一例である

ジョン・スチュアート・ベルの有名な定理は「観測問題」に関する我々の理解を変容させたが、もしベルが量子力学の意味について、深いが当時は極めて人気のなかった興味を持つことがなかったならば証明できなかっただろう


宇宙論においては不幸にも、一般相対性理論の意味について問うことに対する実証主義者の侮蔑が復活している

しかし、物理学の理論は単なる形だけのシステムではないと認識していたアインシュタインの影響で、多くの天体物理学者は宇宙の時空の性質などを理解しようとしている

スティーヴン・ワインバーグが強く主張しているように、ある時にはこの理論が有効であり、またある時には他のものを使う方が有効であり、どちらが正しいのかと問うことに意味はない

基礎物理学のレベルでは、実証主義者が見たと思った形而上学と物理学の明確な乖離は批判に耐えない

物理学と形而上学が相互に作用、浸透した時、両方が最も繁栄する

それは、両者がセラーズの問い「可能な限り広い意味での「もの・こと」が、可能な限り広い意味でどのように結び付いているのか」を追求する時である











2022年4月8日金曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」4
























「哲学の重要性と価値」


もし、哲学を科学に取り込むという実証主義や科学は作り話であると主張するポストモダニストが筋道が通っていないということになれば、一体何が残るのだろうか

わたしが「哲学をやってきた」60年を振り返れば、2つの哲学の定義がわたしに最も訴えかけてくる

そして、それぞれの定義はお互いに補完されなければならないことが見えてくる

一つは、スタンリー・カヴェルの名著『理性の主張』(The Claim of Reason: Wittgenstein, Skepticism, Morality, and Tragedy)からのものである

少し長くなるが、以下に引用したい
もし子供が次のように訊いてくるとする

「なぜ我々は動物を食べるのか」「なぜ豊かな人と貧しい人がいるのか」「神とは何か」「なぜ学校に行かなければならないのか」「白人と同じように黒人を愛することができるのか」「誰が土地を所有しているのか」「なぜ何かが在るのか」「神はどのようにしてここにやってきたのか」

わたしの回答は内容の薄いものに感じ、これがわたしのやっていることで光栄に思うと言う以外になくなるように感じる 

そして、わたしのこれまでの結論は「わたし」が辿り着いた結論ではなく、単に出回っているものを飲み込んだものに過ぎなかったと感じるのである

わたしはその理解を欺瞞や冷笑や居丈高さによって鈍らせるかもしれない

しかしこの機会を利用して、わたし自身の文化に還り、なぜ我々がやるようなことをやり、我々が判断するように判断するのか、そしてどのようにそこに辿り着いたのかを問いたい

・・・

哲学することにおいて、わたしの言語と生活を想像力の中に持ち込まなければならない

わたしが必要としているのは、わたしの文化の基準を集めて会合を開くことである 

それによって、わたしが求め想像したわたしの言葉と人生を、文化の基準と対峙させるのである

これが哲学の名に値する仕事であるようにわたしには見える・・・その意味で、哲学は成人の教育・教養になるのである 

第二の定義は、ウィルフリド・セラーズのエッセイ『哲学と人間の科学的イメージ』によるものである

彼は書いている

哲学の目的は、可能な限り広い意味での「もの・こと」が、可能な限り広い意味でどのように結び付いているのかを理解することである


カヴェルの定義である「成人の教育・教養」 と彼が子供の疑問として挙げた例は、成人が教育・教養を必要としていることを示すものだが、それはわたしが哲学の「道徳的」側面と呼ぶものを指し示している

その側面とは、現在までの我々の人生と文化を問いただし、そのいずれをも改善するように迫るものである

セラーズの定義は、わたしが哲学の「理論的」側面と呼ぶもので、それは我々が知っていると思っていることを明確にし、それらすべてがどのように「結び付いているのか」を解き明かすことを我々に要求するものである

確かに、カヴェルの定義はセラーズの定義を含んでいる

なぜなら、「もの・こと」がどのように結び付いているのかなどどうでもよいと思っている大人は「教養人」とは数えられないからである


論理実証主義は哲学の理論的側面を保持しようとしたが(ただ、多くの理論的側面を「形而上学的」として無視した)、道徳的側面を完全に排除した

他方、ポストモダニズムは理論的側面を犠牲にして、道徳的側面を保持しようとした

ただその道徳的側面は、かつてリチャード・ローティが「マルクス主義と、ポール・ド・マンフーコーというポスト・マルクス主義者の幻覚効果」と言ったものに還元するものではあったのだが、、

わたし自身の見方は、最善の哲学はいつの時代も道徳的側面を代表する哲学者と理論的側面を代表する哲学者に加えて、この両面を統合する洞察力を示した天才を持っていたというものである

このいずれかの側面を切り捨てるということは、単に哲学というものを殺すだけではなく、知的、精神的自殺を意味している


 

 

 







2022年4月7日木曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」3
























「もう一つの失敗としてのポストモダニズム


論理実証主義が科学によって哲学が陳腐なものにされる危険性に抗そうとしたとすれば、ポストモダニズムは科学を捻じ曲げることによって哲学の威信を取り戻そうとした

我々が「事実」を記述したと思っているものは、ただの作り話に過ぎないとしたのである

ポストモダニストは欺瞞のない他の言説があると考えていたわけでもなかった

寧ろ、少なくともジャック・デリダ一派の手にかかると(他のグルの下でも同様なのだが)、言説そのものが「本質的に」欺瞞的であると見られていた

ポストモダニストは現実を真に表象したものなど存在しないし、存在し得ないと主張したのである


普通、このような革命的な主張は強力な論拠に支えられていると思うだろう

しかし、この運動に引き寄せられた分析哲学で鍛えられた最も知性的な哲学者であるリチャード・ローティでさえ、デリダの議論の多くが「ただただ酷いものだ」と書いている

ローティがポストモダニストの見方を擁護する時には分析哲学者(セラーズクワインデイヴィッドソン、そしてわたし)の議論に合わせて行う

しかし、このゴタゴタした状態を議論するよりは、次のことをに言わせてほしい

現実の部分や局面を言語で表象できるとする「表象主義」は「実在論」と言われていたものであり、実在論は多くの教授が「表象主義」という新しい名前を与えたからといって見下すべき酷い誤謬にはならない







2022年4月6日水曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」2



























「哲学の機能に対する解としての論理実証主義は失敗であった」


論理実証主義とは、エルンスト・マッハの実証主義とバートランド・ラッセルホワイトヘッドが完成させた新しい論理学の手段が古い哲学の問題を一掃するという信念が融合したものの産物である

カルナップは1928年の名著『世界の論理的構築』ではまだ言っていなかったが、1934年には次のようなことを言い出した
形而上学や(形而上学的)認識論に属するすべての言説は、証明できないので非科学的である。ウィーン学団ではそのような言説を「ナンセンス」と言っている。

ここに論理実証主義の本質がある

それは、以下の2つの原理から成っている

1)我々の言語において意味のある言説は、(科学の方法により)検証、証明できるものであり、それ以外は議論できる内容を欠いた「ナンセンス」である

2)形而上学、倫理学、認識論に分けられる伝統的な哲学のすべての領域は、「ナンセンス」から成っているので放棄しなければならない

もしそうだとすると、哲学に何が残っているのか

論理実証主義者は大学の哲学科でどのような活動をするのか

カルナップは1935年の『論理的構文論』において、それまで哲学と呼ばれていたものをやるのではなく、「科学の論理」を研究することであると答えている

しかし、彼は哲学論争においては重要な貢献をしたが、今日、それらは何一つ「科学の論理」の研究としては認められていない

彼らが願ったように、哲学を科学の中に包み込むことに成功しなかったのである









2022年4月4日月曜日

ヒラリー・パットナムを読んでみる

























その昔読んだことがあるヒラリー・パットナムにもう一度当たってみたい

以前の印象は、議論を早いテンポで展開するので小気味よいところがあるというものだった

ただ、議論に登場する概念が多岐に亘っているので、付いていくのが大変だった

今回は、論文集 Philosophy in an Age of Science(2012)からその時の気分に合ったものを選びながら読んでいきたい 

まず、2010年の「科学と哲学」から始めたい


最初のセクションは「我々はなぜ哲学を必要としているのか」と題されている

哲学は長い間「神の概念」と「魂の非物質性の概念」を扱っていたが、20世紀になると科学も分析哲学も世俗的になった

進化論がそれまでの哲学を粉砕した

ただ、それは宗教を信じる科学者や哲学者がいなくなったということではない

パットナムさんはデューイに近く、理想を体現しているものとして神を捉えているようだ

多くの自然科学者は伝統的な哲学に敵意を示し、時代遅れとして喜んで捨てるのである

科学は、人文科学を重要な領域であるとしてその立場を危うくはしなかったが、哲学の存在理由は問うことになった

哲学は、廃棄あるいは何かに置換すべき過去の遺物に過ぎないのだろうか