2018年11月19日月曜日
瞑想から思考の充実へ
昨日、暫く眠っていたプロジェに急遽対応しなければならなくなった
かなり時間がかかると思ったのだが、今日の夕方には片付いていた
自分でも考えられないことである
考えを纏める上でも瞑想や思考空間の広さが関係してくるのだろうか
「瞑想 → こころの安定:思考空間の広がり → 繋がりの見つけ易さ → 思考の充実」
想像しているだけだが、こんな流れがあるのではないだろうか
ただ、これはあくまでも主観の世界で、そのアウトプットを評価するのは他の人に任されている
いずれにせよ、明日すっきりしてフランスに向かうことができそうである
2018年11月18日日曜日
滞在の最後も忙しいのだが・・・
昨日の会で今回の滞在の行事を終えたことになる
今回もまた、来る前には想像もできなかったようなものを齎してくれたように思う
この数か月を向こうで過ごしていたのでは得られなかったことが起こったとも言えるだろう
ただ、現在抱えている他のプロジェに当たる気分にはならなかった
日本の準備が整わない状態で来ているため、頭が他のプロジェに向かわないからだ
これからの静かな時間がそのための空間を用意してくれるだろう
このようなやり方の方が、リズム感が出てよいのかもしれない
しばらく様子を見ることになりそうだ
ところで、上のプロジェとは別のプロジェに急いで当たらなければならなくなった
日本を出る前に終わらせなければ間に合わないかもしれない
最後まで息が抜けない滞在になりそうだ
最後くらいはのんびりしたいと思ったのだが、致し方ない
ただ、この状態でもこころは穏やかなままなのは驚くべきことである
何度も触れているが、仕事をしていた時には考えられないことだからである
これは、ここ10年の瞑想の効果だと決めてかかっている
2018年11月17日土曜日
第4回サイファイ・フォーラムFPSS、無事終わる
今日の午後、日仏会館において第4回のサイファイ・フォーラムFPSSを開催した
今回は日程が合わない方が多く、直前で都合が悪くなった方もおられたが、7名の参加をいただいた
また、最初の演題募集では希望者がいなかったが、再募集で2名の方が応募された
その伊藤明子、岩倉洋一郎両氏に発表をお願いした
前回より発表時間と討論時間を長く取り、それぞれ25分、45分に設定した
それでも何とか時間内に収めることができたという感じであった
皆様のご協力に感謝したい
以下に、わたしの視点から見た簡単なまとめを記しておきたい
発表の詳細は近いうちに専用サイトにまとめる予定である
伊藤氏のテーマは目的論で、カントの有機体論との絡みで分析を進められていた
アリストテレスの4原因説では、質料因、形相因、作用因、目的因が設定されている
この見方は長い間定説として機能していたが、現代科学では目的因が排除されている
何のために?という問いは、それを決めている何かを想定しなければならないからだろうか
現代の生物学者は、なぜ?という問いを発しない
目的論を相手にしないところがある
ここでは、この問題に対するわたしの捉え方について、簡単に触れておきたい
目的論というものは、一つの考え方として確かに存在している
現代生物学がそれを排除したとはいえ、元は共にあったものである
であれば、それがどういうものなのかを知ろうとする態度を採る
その上で、科学における目的論の位置を改めて検討することになるだろう
現代生物学の外にあるとされる目的論
しかし、このような問題も科学の中にあるものとして捉え直す必要があるのではないだろうか
それは、科学に関する教養と言ってもよいものである
科学を取り巻く問題についても考えてみるという態度が、これからは欠かせないだろう
岩倉氏のテーマは、発生工学技術の進歩とそれが齎す問題についてであった
最初に発生工学技術の実際と発展の歴史について概説された
その後、ご自身の研究の進展過程で生まれた疑問について提示された
生殖系遺伝子の改変技術には、いくつかの問題が内在している
例えば、技術自体の不安定性や不確実性、遺伝子改変による発がん性や想定外の副作用など
しかし、これらの問題はいずれ解決されると見ていた
解決が難しい問題として残るのは、倫理に関わるものである
例えば、そもそも遺伝子操作はすべきものなのか、そうでないのか、善か悪かという問題
これは単に病気の治療だけではなく、健康な人の能力増強のための遺伝子操作も含まれる
これらの問いに答えるためには、人間や生命についての価値観の共有が不可欠である
しかし、それをどのようにして達成するのか
さらに、原子力、人工知能、遺伝子操作の研究の進展を我々は制御できるのか、すべきなのか
あるいは、制御という問題をどのように考えるのか
これらの問題はまだ解決されておらず、今まさに哲学的思考が求められる時に来ている
哲学の側は科学をより学び、科学の側も科学を取り巻く哲学的な問題に目を開く必要がある
このような相互作用が必要になると結論されていた
二つの発表から見えてきたことがある
それは、科学だけでは処理しきれない科学の現場を超えた問題が浮かび上がっていること
今回の場合は、目的論という哲学的な問題であり、科学技術を扱う際の倫理的な問題である
これらの問題は、科学だけではなく、哲学や倫理の知も動員しなければその輪郭が見えてこない
ましてや解決など覚束ない
このような問題が次々に現れるのが現代の状況ではないかという印象を強くした
その意味でも、知に関わる人たちは広い構えを持った内的空間を準備しておく必要があるだろう
2018年11月16日金曜日
恒例の歓談
今日はこのところ恒例になっている学友とのデジュネがあった
お二人とも仕事をされており、そういう学友が殆どなので、日本にいると自分が異常に見える
実際、そうなのかもしれない
いつも話題に上がるのは日本の状況
その精神性の問題である
精神性に優れたものがなければ、世界からは真の尊敬は得られない
わたしは、最近書いたエッセイを基に話を進めた
それは、広く見れば現代世界の問題にもなるだろう
非常によく理解していただいたようである
その他にも「話に花が咲いた」話題がいくつかあった
来年もまた花を咲かせたいものである
2018年11月15日木曜日
第4回ベルクソン・カフェの二日目終わる
本日は第4回目になるベルクソン・カフェの二日目を開催した
2名の欠席があったが、写真の9名の皆様に参加していただいた
今回は参加者の皆様に積極的に読むところに加わっていただいた
そのせいかどうかわからないが、いつになく質疑応答が充実していたように感じた
その中で、講師の解釈に誤りが見られ宿題となった部分もあった
今回も中休みが参加者だけではなく講師にとっても好い効果を及ぼしたようだ
最後まで読むのは難しいと予想したのだが、かなりはしょったものの終えることができた
お忙しい中、参加していただいた皆様に改めて感謝したい
今日はピエール・アドーさんの「死ぬことを学ぶ」の後半を読んだ
今回のテーマに、自然学(la physique)も魂の鍛錬になるということがある
一つの例としてアリストテレスの自然学があるが、それはこんな具合だ
自然学はそれ自体が目的になる観想的営みで、日常の心配事を除くことにより平静と悦びが得られる
原因に遡ることができる真の哲学者であれば、自然はその素晴らしさを研究する者のためにある
ストア派のエピクテトスは、我々の存在意義はこの観想の中にあるとまで言っている
つまり、我々は神の作品を観想するためにこの世に生まれた
そのため、奇跡的傑作を観、自然と調和して生きた後でなければ死んではならないと言う
この感覚はわたしの中にも生まれているので、ストアの影響が現れているのだろうか
二つ目は、フィロンやプルタルコスの空想的自然学がある
これはアリストテレスの自然学に比べると、科学の度合いが薄くなる
彼らの自然学は、思考の中で月や太陽や他の星と一体になるというような考え方をする
彼らの体は地上にあるが、魂には翼が具わっていてエーテルの上を歩き、地上を観想できる
まさに世界市民に相応しい
彼らはすべての人生を祝祭にするのである
それから、全体を視野に入れ、普遍的思考へと上昇するレベルがある
ここでプロティノスの全なるもの(le Tout)が出てくる
以下は表面的理解に基づくものである
我々は元々全なるものであったが、そこに何かを加え、自分ではないものになっていく
全なるもの以外を拒否すれば、全なるものはそこにあるのが見えてくる
それによって成長することになる
新プラトン主義では魂の進歩という概念を取り入れた
プロティノスの弟子で著作の編纂者でもあったポルピュリオスは、進歩を3段階に分類している
「体からの分離による魂の浄化」、「感覚的世界の超越」を経て「知性と一者(l'Un)への回心」と進む
一者とは、存在するすべてが由来する存在を超えた第一原理を意味しているようだ
プロティノスは、ものの本質は純粋な状態で検討しなければならないと言う
それ自身でないものを取り除いて、そのものを検討するのである
それを外の対象だけではなく、自分自身に対しても行うこと
自分自身の純粋な状態を調べると、魂の不死性も信じることができるようになる
この過程には魂の鍛錬が決定的に重要になる
魂の非物質性と不死性が見えないのは、この営みが欠けているからである
魂の鍛錬により、単に善を知るだけではなく、善と一体になることがある
最早自分自身ではなくなり、一者と一つになることもあるという
ここまで来ると神秘的な世界である
今日のまとめは、近いうちに専用サイトに掲載する予定です
ご覧いただき、コメントなどをいただければ幸いです
2018年11月14日水曜日
日本パスツール財団再訪
本日、日本パスツール財団を訪れた
財団のプロジェクトについてお話を伺った
今年は来月18日の日仏セミナーを残している
テーマは「アジア・アフリカにおけるエビデンスに基づいた感染症対策の発展」
興味をお持ちの方は、上のサイトをご覧いただければ幸いである
来年も春夏秋冬にいろいろな会が計画されているようである
その中の一つに、わたしが関係するものが入るかもしれない
それは、現在出版準備中のパスカル・コサール著『これからの微生物学』(仮)に関係している
今年6月のフィリップ・クリルスキー博士の講演会のような会ができないかというものだ
このようなプロジェクトに関わることは、サイファイ研ISHEのミッションとも一致する
まだ実現するかどうかわからないが、そこに向けてできることはやって行きたい
そう考えながら財団を後にした
2018年11月13日火曜日
奈良再訪
午前中は木曜のベルクソン・カフェの準備をする
会の直前までかかるかと思ったが、奇跡的に何とか最後まで目を通すことができた
ということで、午後から奈良の町を散策することができた
今回は時間がなかったので、奈良公園の方に歩く
途中、宗教団体の20-30人のグループが声を上げながら歩いてきた
全身に力が漲っているようであった
まず興福寺へ
何年か前に瓦を寄進した中金堂も完成して中を見ることができた
入場券を売っている人によると、瓦は屋根に上がっているかもしれませんと頼りない
法相宗の始祖を柱に描いた法相柱は新しく、興味深いものがあった
中金堂では大黒天立像が気に入った
それから国立博物館へ
正倉院展を観ようと思ったが、昨日で終わっていた
係の人によると、日美で取り上げられるといつも人で溢れるという
特に昨日は大変な人出だったという
今日は新館が閉館、なら仏像館だけが空いていたようだ
そこで豊穣の2時間を過ごした
途中ボランティアによる解説があるとの放送があり、目の前が受付だったので申し込む
聞き慣れない言葉が次々に出てくる中、仏像の見方の初歩を教えられていたようだ
これからの参考にしたいものである
参加者の中には、いろいろなお寺を巡っている方もおられ、解説者と話がよく噛み合っていた
仏像館のカフェでこの記事を書く
空は今にも降り出しそうな曇りで、寒い
2018年11月11日日曜日
第4回サイファイ・フォーラムFPSS、迫る
第4回サイファイ・フォーラムFPSSが今週の土曜に迫ってきた
今回議論するテーマは、目的論と発生工学の技術にまつわる問題についてである
以下にその要旨を紹介したい
(1)伊藤明子: 目的論の有用性と実在性について
アリストテレスが唱える事物の生成変化の四原因の一つである「目的因」は、近代科学の幕開けとともに否定され、ダーウィンの登場に至っては、科学からはもとより、哲学からも完全に駆逐されたと一般には捉えられています。しかしその間、カントは有機体の考察にあたってアリストテレスに遡る「目的論」という概念を敢えて採用し、「目的因」を復活させました。本発表では科学哲学の論文や分子生物学者の試論を参照しながら、目的論の今日における「有用性」と「実在性」について検討していきます。これは、発表者が現在取り組んでいるカントの『判断力批判』について考察した「有機体論の新たな解釈の可能性について」の研究の一部です。特に科学研究者からの忌憚のないご意見を頂戴できれば幸いです。
(2)岩倉洋一郎: 発生工学技術の進歩と人間存在について
近年の発生工学技術の進歩は目覚ましく、胚や体細胞から多分化能を持つ全能性の幹細胞を作り出し、これを子宮に戻してコピーを作り出す手段を獲得した。また、これらの全能性幹細胞、あるいは胚の遺伝子を操作することにより、これらの遺伝形質を改変した個体を作出する技術も手に入れた。したがって、今や我々は従来我々の固有の遺伝形質と考えてきた種々の表現型、つまり、容貌や身体能力、知的能力、病気に対する感受性などを自由に改変できる可能性を持つことになった。このことは、我々にそのような技術の利用をどこまで許すのかという倫理的な問いと同時に、人とは何か、生物とは何かという根源的な問いかけを投げかけることになった。発生工学技術の紹介をしながら、みなさんと一緒にこうした問題について考えてみたい。
日時: 2018年11月17日(土)13:40~16:30
会場: 日仏会館5階 509会議室
よろしくお願いいたします
2018年11月10日土曜日
今日は、死に方を学ぶ
死ぬことを学んだ昨日の今日なのだろうか
ネットに繋がると、すぐにこの映画が現れた
『ガンジスに還る』
死期を悟った父親が聖地バラナシで最期を迎える
その間に彼を取り巻く人間関係が描かれるが、今の自分にはさざ波程度にしか見えなかった
ということで、強い印象を残すところまでは行かなかった
その昔、我々の研究室でバラナシ出身の研究者が2年ほど研究していたことがある
最初の日、バラナシについて書かれたペンギンブックスを手渡してくれた
それ以来、この地には興味を持っていたので、町の景色にはなぜか懐かしいものがあった
今行っても今日の映画のままにあるのだろう
劇場のサイト情報では席に余裕がありますとのことだったが、ほぼ満員
死を巡る問題は多くの人の関心事になっているのかもしれない
第4回ベルクソン・カフェ、初日終わる
今日、第4回のベルクソン・カフェを開催した
4名の方が欠席となったが、写真の6名の方が参加された
お忙しい中、参加いただいた皆様に改めて感謝したい
今回のテーマは「死ぬことを学ぶ」で、半分の4ページを終えることができた
準備段階では終えるのは難しいのではないかと考えていたので、驚いた
これまでは休憩なしで3時間読み続けたが、今回、中休みを入れることにした
その時にいろいろなディスカッションが出てきて、講師も気分転換されたのだと思う
それが後半に勢いをつけたのではないかと疑っている
ピエール・アドーさんのテクストの簡単なまとめを以下に
いつものように対立する概念が出てきて、頭が整理される
そのような論の進め方をする
不変の規範の世界、普遍的な理性を要求するロゴス
それに対して、永遠の生成、肉体の変わりやすい欲求
この対立の中で、ロゴスに忠実な人間は生命が危険に晒される
ソクラテスはそのために命を失ったのである
これがプラトニズムの基礎を成している
つまり、優れた魂は肉体の生の上に善や徳を置く
ソクラテスは良心が要求することを放棄するより死を選んだのである
この選択はまさに哲学的選択で、哲学は死の鍛錬であり、学習であると言えるだろう
プラトンの『パイドン』で論じられているように、問題となる死は魂と肉体の分離である
魂が肉体の感覚に関係する情動を取り除くことである
それは一方的で感情的な視点から解放し、思考を普遍的で規範的な視点に高める努力である
この鍛錬は、自分自身への思考の集中、瞑想、内的対話を前提としている
「死の鍛錬としての哲学」というフォルミュールは、西欧哲学の中に大きな影響を及ぼした
プラトン主義に敵対するエピクロスやハイデッガーもそれを取り入れた
このフォルミュールを前にすると、すべての哲学的お喋りは空っぽのものに見える
哲学者が死について書いたものには、「明晰さ」という特別の徳が見られる
エピクロスによれば、死を考えることは存在の有限性を意識すること
それが瞬間に無限の価値を与える
ストア派の人は、死の学習の中に自由の学習を見る
モンテーニュに、「哲学することは死ぬことを学ぶこと」という有名なエッセイがある
そこでセネカを剽窃して、死ぬことを学ぶとは隷属することを忘れることだと言った
死を考えることは、内的生活の品位と水準を変容させる
ハイデッガーにとっても、哲学とは死の鍛錬である
死を明晰に理解することがオーセンティック(真正)な自分を発見し、創造する切っ掛けとなる
つまり、死が自分の身にも降ってくることを理解した時、自分の意識は内に向かうようになる
真の自分を求めようとする
真の自分への道を開く「明晰さ」か、あるいはそこから目を逸らす「気晴らし」か
その選択は各人に任されている
まさに哲学的選択である
死の鍛錬とは、「全体」の瞑想と、個人的な主観から普遍的な客観性への移行とに関連する
つまり、純粋な思考の鍛錬のことである
哲学者のこの特徴は、古代には「魂の高貴さ」と言われた
それは思考の普遍性の果実である
哲学者の思弁的で瞑想的なすべての仕事は魂の鍛錬になる
今日のまとめは、近いうちに専用サイトに掲載する予定です
2018年11月7日水曜日
明晰さか気晴らしか、ベルクソン・カフェ近づく
当地の滞在も終わりに近づいてきた
最近になり、いい感じの生活のリズムが掴めてきたと思ったところだったのだが、
いつもこういうものである
丸山健二氏が言うように、コツがわかった時には終わっているのだ
さて、第4回のベルクソン・カフェも近づいてきた
今回は「死ぬことを学ぶ」がテーマだが、それはどういうことなのか
死を前にしてどう生きるのか、ということになるのだろうか
死に向かう存在が人間だとすれば、この問いは人間はどう生きるのかということに帰着する
そのために重要になる一つが、「明晰さか気晴らしか」の選択ではないだろうか
かなりの分量なので、どれだけこなせるかが課題になりそうだ
2018年11月4日日曜日
そろそろ変なおじさんか
昨夜カフェに行くと、ジャズトリオの演奏が始まるところだった
店員さんに訊くと、地元の若者だという
今回は女性のピアニストが売り込んできたようである
彼女のパリ訪問時にエッフェル塔から見た夜景に触発されて書いたという曲も演奏していた
想像以上に良い演奏だったのではないだろうか
カフェで演奏をやるのは稀とのこと、思わぬプレゼントをいただいたようである
今日も申し分のない天候で、気分良く一日をスタートした
図書館が生徒さんで満員になっていたため、午前、午後とも同じカフェとなった
もうそろそろ変なおじさんになっているかもしれない
このところ感じている「こと」の流れの特徴がある
それは、そうなるよう想像していたことが想像もしなかったようなやり方で起こるということ
結果は同じなのだが、そこに至る道が想像を超えているのだ
そこにわたしの力は全く働いていない
実に不思議である
2018年11月3日土曜日
自然の中での瞑想とサイクリング
今日は驚くほどの快晴で、これぞ日本晴れか
しかもここでは日常となる風が全くない
日の光を浴びていると、予定を変え、今回発見した秘密?の公園に出かける気分になってきた
ということで、朝から出かけた
川縁に椅子を出し、暫しの間瞑想
わたしの瞑想は無を目指すのではない
寧ろ、いろいろな考えが浮かび上がるように、こころの状態を緩く構えるのである
仕事をされている方には、専門の境界を取り払うと言えば分かりやすいだろうか
こういう時に、使えそうなアイディアが出ることもあるし、何もないこともある
しかし長期的に見ると、思考空間を広くする効果があるのではないかと想像している
午後からは軽いサイクリング
大分慣れてきたようで、自然の中を風を切って進むのは実に気持ちがよい
自然の中での瞑想と言い、自然の中で体を動かすことと言い、こころが外に浸み出す感じがする
extended mindという考え方を思い出す
extended cognitionの一つとされている
どこかの雑誌にでも出ていそうな写真を一つ
2018年11月2日金曜日
イゴール・ミトライさん、発見
今日も淡々とした作業を進めた日であった
その中で、これまで別々にあったものが繋がるという発見があった
一つは、先日も触れたクラクフの中央広場で見た彫刻
もう一つは、アンジェの美術館前で何度も見ていた彫刻
アンジェでは気に入ったものだったが、クラクフでは気になるという感じだった
実は、この二つが同じ作者の作品だったのだ
作者は、ポーランド出身のイゴール・ミトライ(Igor Mitoraj, 1944-2014)さん
クラクフのものは、『エロス・ベンダート』(Eros Bendato)
アンジェのものは、『ペル・アドリアーノ』(Per Adriano)という作品であった
ただそれだけと言ってしまえばそれまでだが、わたしにとっては代えがたい発見になる
その時、なぜかわからないが悦びが込み上げてきた
2018年11月1日木曜日
海から始まった一日
月並みだが、早いもので今年も残り二か月になった
これからの時間で何ができるだろうか
見守りながら歩みたいものである
今朝、海へ足が向いた
人影もなく、静かな景色であった
広がる海を前に体を動かすのも悪くない
海辺を散策している時、今日の設計図が浮かんできた
いつも前に図があるとうまく行かないのだが、今日はどうだろうか
午前中に先週のサイファイ・カフェSHE札幌の纏めをすることができた
ハイデッガーの技術についての考えを中心にしたものである
こちらをご覧いただき、お気づきの点などお知らせいただければ幸いである
ところで、カフェで纏めをやっている時、お隣の女性3人組の会話が耳に入ってきた
こんな具合である
「この前なんか、うちの旦那、連絡もしないで呑みに行ったきり帰ってこない。電話してどこにいるのか訊いても答えないのでもう勝手にしなさいと言って携帯を切ると、5分もしないうちにこっそり帰ってきた。しかし、一言の謝りもないので頭(あったま)にきてそれから3日間一言も口をきいてやらなかった」と言って笑い飛ばしていた
それを聞いて、思わず心の中で「にんまり」
それが外に出ないようにと苦労した
現世に降りると、なかなか大変である
午後からは淡々とコサールさんの翻訳の見直しをやる
充分に摘み取った一日と言えるだろう
2018年10月31日水曜日
翻訳の秋?
秋が深まり、あるいは日本での時間が経ったためか、落ち着いてきたように感じている
やっとコサールさんの本の最初のゲラを見直す気分になってきた
1週間くらいで終わらせたいものだが、おそらくそうは問屋が卸さないだろう
今日、久しぶりにフランスの免疫学者の友人からメールが届いた
やり取りの中で、クリルスキーさんの本のことが出た
フランス人の彼も読んだらしいのだが、専門家でも理解するのに苦労したという
おそらく、一度読んだだけでは頭に入ってこないのだろう
理解するためには、著者の思考の跡を何度もなぞらなければならないのかもしれない
そういう本の翻訳をやったことに驚き、そして労っていただいた
2018年10月28日日曜日
第4回ベルクソン・カフェ 迫る
Tod und Mädchen / Mort et Jeune fille (1915)
Egon Schiele (1890-1918)
Egon Schiele (1890-1918)
フランス語を読み哲学する第4回ベルクソン・カフェが近づいてまいりました
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
<2回シリーズ>
① 2018年11月9日(金)18:00~21:00
② 2018年11月月15日(木)18:00~21:00
<1回だけの参加でも問題ありません>
テクスト
Pierre Hadot« Apprendre à mourir »「死ぬことを学ぶ」
Exercices spirituels et philosophie antique, pp. 48-60(Albin Michel, 2002)
<参加予定者には予めテクストをお送りいたします>
会場
恵比寿カルフールB会議室
参加を希望される方は、she.yakura@gmail.comまでご連絡ください
よろしくお願いいたします
2018年10月27日土曜日
第6回サイファイ・カフェSHE札幌、技術から現代を考える
午前中は雨と風でどうなるかと思ったが、午後から晴れてくれた
第6回になるSHE札幌を開催した
1名の方が都合が悪くなり欠席となったが、写真の4名の方が参加された
実はカメラを忘れたため、参加された長谷川氏のスマートフォンをお借りした
こういうことは稀ではなくなった
今回のテーマはハイデッガーの技術論を基に、テクネーの本質について考えた
何度も触れているが、日本語では見慣れない術語が出てきて苦労する
既にある言葉を使うのではなく、新しく造る傾向があるためだ
人を哲学から遠ざけることに貢献?している
ハイデッガーに関しては、個人的な縁がある
フランスに渡る前の2年間、フランス語を勉強するためにブログをやっていた
それを読んだフランスの哲学教師が長いコメントを書いてくれた
一つのポイントは、わたしはハイデッガーを愛するために生まれてきたというのだ
その意味がよく分からなかったが、今回彼が書いたものを読み、少しだけ見えてきた
と、思った
似たようなことを考えているように感じたからだ
以下、独断をもって書いてみたい
一つは、わたしが言っている「科学の形而上学化」についてである
科学の成果の本質は、科学では掴みえないので形而上学を導入しようという立場である
ハイデッガーは、技術の本質は技術的ではないと言っている
技術を中立的なものとして見ると、その本質には辿り着かない
本質が見えてこないと、技術との自由な関係も結べない
技術にどのように対処してよいのか分からないのだ
それから、彼が見ていた科学時代における思考の欠如である
勿論、人間は考えている
しかし、それは計算に基づく思考であり、科学的思考である
欠けているのは、存在そのものの意味に入る瞑想的な思考であるというのだ
これまでこの場で言ってきた瞑想の重要性に繋がる
この見方は意識の三層構造理論に当て嵌めるとさらに明確な像が浮かび上がる
つまり、現代人の思考は第二層止まりで、枠を超えた思考が行われる第三層には入らない
瞑想的思考が排除されているのである
この思考こそが世界を救うかもしれないのに、である
問題は、この思考は具体的な問題解決に貢献しないこと
そして、この思考に習熟するためには時間と訓練を要することである
そのため、残念ながら、その必要性が真に理解されることになっていない
ハイデッガーの技術に関する考えは、近いうちに専用サイトに纏める予定である
技術に関してここで言えることは、次のことだろうか
それは、技術の本質から齎されるものが我々の生活を覆いつくしていることである
目立たない形で、産業、経済、教育、政治、戦争、マスメディアなどに組込まれている
現代では、我々はすでに技術の本質の中に生きている
そこには主体性がないので、生かされていると言った方が正確だろう
しかし、その中にいる人にはそれが見えていないのだ
なぜ文系の役人が文系の学問を軽視するような方針を出すのか疑問であった
しかし、こういう背景を考えると腑に落ちる
おそらく、彼らの思考も技術の本質から齎されるものに侵されていたのである
そのため根源的な思考、瞑想的な思考ができなくなっているのである
2018年10月26日金曜日
終日ハイデッガーを読む
今日は朝からハイデッガーの日本語訳を読んでいた
言葉を読んですぐにイメージできない日本語が出てきて、それが重要になる
そのために言葉を造るのである
そして、それが日本では術語になるのだろう
そういう時はフランス語訳を読んだ方が分かりやすい
すでにある言葉を使っていることが多いからだろうか
日本語で哲学するのも大変である
カフェ前日ということもあり、これまでになく集中できたのではないだろうか
この集中を日常的に維持できれば素晴らしいのだろうが、そうはいかない
明日も準備は続ける予定である
2018年10月24日水曜日
黄色い満月、そしてクラクフ再訪
今週土曜のカフェSHEの準備をして店を出たところで、低く上がった大きな満月を見た
一瞬、得をしたような気分になる
残念ながら、その色をわたしのカメラは捉えることができない
おそらく、この時しか見ることができない色なのだろう
卵の黄身を少し赤くしたような、黄金色と言った方がよいような色をしていた
昔から月見をしてきた人の気持ちが分かるような、深い悦びを感じさせる景色であった
「旅と散策とヨーロッパ」は日本のテレビの一つのテーマであることを再確認
その町はクラクフ
ほぼ十年前、同じ町を歩いたことを思い出す
ポーランドの旅(2009年4月)
実際に見たところだけではなく、行けなかったところも出ていた
いつものように、頭の中が清風にそよいだ

登録:
投稿 (Atom)
























