2018年11月15日木曜日

第4回ベルクソン・カフェの二日目終わる



本日は第4回目になるベルクソン・カフェの二日目を開催した
2名の欠席があったが、写真の9名の皆様に参加していただいた

今回は参加者の皆様に積極的に読むところに加わっていただいた
そのせいかどうかわからないが、いつになく質疑応答が充実していたように感じた
その中で、講師の解釈に誤りが見られ宿題となった部分もあった

今回も中休みが参加者だけではなく講師にとっても好い効果を及ぼしたようだ
最後まで読むのは難しいと予想したのだが、かなりはしょったものの終えることができた
お忙しい中、参加していただいた皆様に改めて感謝したい

今日はピエール・アドーさんの「死ぬことを学ぶ」の後半を読んだ
今回のテーマに、自然学(la physique)も魂の鍛錬になるということがある
一つの例としてアリストテレスの自然学があるが、それはこんな具合だ
自然学はそれ自体が目的になる観想的営みで、日常の心配事を除くことにより平静と悦びが得られる
原因に遡ることができる真の哲学者であれば、自然はその素晴らしさを研究する者のためにある

ストア派のエピクテトスは、我々の存在意義はこの観想の中にあるとまで言っている
つまり、我々は神の作品を観想するためにこの世に生まれた
そのため、奇跡的傑作を観、自然と調和して生きた後でなければ死んではならないと言う
この感覚はわたしの中にも生まれているので、ストアの影響が現れているのだろうか

二つ目は、フィロンやプルタルコスの空想的自然学がある
これはアリストテレスの自然学に比べると、科学の度合いが薄くなる
彼らの自然学は、思考の中で月や太陽や他の星と一体になるというような考え方をする
彼らの体は地上にあるが、魂には翼が具わっていてエーテルの上を歩き、地上を観想できる
まさに世界市民に相応しい
彼らはすべての人生を祝祭にするのである

それから、全体を視野に入れ、普遍的思考へと上昇するレベルがある
ここでプロティノスの全なるもの(le Tout)が出てくる
以下は表面的理解に基づくものである
我々は元々全なるものであったが、そこに何かを加え、自分ではないものになっていく
全なるもの以外を拒否すれば、全なるものはそこにあるのが見えてくる
それによって成長することになる

新プラトン主義では魂の進歩という概念を取り入れた
プロティノスの弟子で著作の編纂者でもあったポルピュリオスは、進歩を3段階に分類している
「体からの分離による魂の浄化」、「感覚的世界の超越」を経て「知性と一者(l'Un)への回心」と進む
一者とは、存在するすべてが由来する存在を超えた第一原理を意味しているようだ

プロティノスは、ものの本質は純粋な状態で検討しなければならないと言う
それ自身でないものを取り除いて、そのものを検討するのである
それを外の対象だけではなく、自分自身に対しても行うこと
自分自身の純粋な状態を調べると、魂の不死性も信じることができるようになる
この過程には魂の鍛錬が決定的に重要になる
魂の非物質性と不死性が見えないのは、この営みが欠けているからである

魂の鍛錬により、単に善を知るだけではなく、善と一体になることがある
最早自分自身ではなくなり、一者と一つになることもあるという
ここまで来ると神秘的な世界である


今日のまとめは、近いうちに専用サイトに掲載する予定です
ご覧いただき、コメントなどをいただければ幸いです




0 件のコメント:

コメントを投稿