2018年11月10日土曜日

第4回ベルクソン・カフェ、初日終わる



今日、第4回のベルクソン・カフェを開催した
4名の方が欠席となったが、写真の6名の方が参加された
お忙しい中、参加いただいた皆様に改めて感謝したい

今回のテーマは「死ぬことを学ぶ」で、半分の4ページを終えることができた
準備段階では終えるのは難しいのではないかと考えていたので、驚いた
これまでは休憩なしで3時間読み続けたが、今回、中休みを入れることにした
その時にいろいろなディスカッションが出てきて、講師も気分転換されたのだと思う
それが後半に勢いをつけたのではないかと疑っている

ピエール・アドーさんのテクストの簡単なまとめを以下に

いつものように対立する概念が出てきて、頭が整理される
そのような論の進め方をする
不変の規範の世界、普遍的な理性を要求するロゴス
それに対して、永遠の生成、肉体の変わりやすい欲求

この対立の中で、ロゴスに忠実な人間は生命が危険に晒される
ソクラテスはそのために命を失ったのである
これがプラトニズムの基礎を成している

つまり、優れた魂は肉体の生の上に善や徳を置く
ソクラテスは良心が要求することを放棄するより死を選んだのである
この選択はまさに哲学的選択で、哲学は死の鍛錬であり、学習であると言えるだろう

プラトンの『パイドン』で論じられているように、問題となる死は魂と肉体の分離である
魂が肉体の感覚に関係する情動を取り除くことである
それは一方的で感情的な視点から解放し、思考を普遍的で規範的な視点に高める努力である
この鍛錬は、自分自身への思考の集中、瞑想、内的対話を前提としている

「死の鍛錬としての哲学」というフォルミュールは、西欧哲学の中に大きな影響を及ぼした
プラトン主義に敵対するエピクロスやハイデッガーもそれを取り入れた
このフォルミュールを前にすると、すべての哲学的お喋りは空っぽのものに見える
哲学者が死について書いたものには、「明晰さ」という特別の徳が見られる

エピクロスによれば、死を考えることは存在の有限性を意識すること
それが瞬間に無限の価値を与える
ストア派の人は、死の学習の中に自由の学習を見る
モンテーニュに、「哲学することは死ぬことを学ぶこと」という有名なエッセイがある
そこでセネカを剽窃して、死ぬことを学ぶとは隷属することを忘れることだと言った
死を考えることは、内的生活の品位と水準を変容させる

ハイデッガーにとっても、哲学とは死の鍛錬である
死を明晰に理解することがオーセンティック(真正)な自分を発見し、創造する切っ掛けとなる
つまり、死が自分の身にも降ってくることを理解した時、自分の意識は内に向かうようになる
真の自分を求めようとする
真の自分への道を開く「明晰さ」か、あるいはそこから目を逸らす「気晴らし」か
その選択は各人に任されている
まさに哲学的選択である

死の鍛錬とは、「全体」の瞑想と、個人的な主観から普遍的な客観性への移行とに関連する
つまり、純粋な思考の鍛錬のことである
哲学者のこの特徴は、古代には「魂の高貴さ」と言われた
それは思考の普遍性の果実である
哲学者の思弁的で瞑想的なすべての仕事は魂の鍛錬になる


今日のまとめは、近いうちに専用サイトに掲載する予定です







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