2022年3月30日水曜日
ハイデッガーの形而上学(40)
2022年3月26日土曜日
ハイデッガーの形而上学(39)
2022年3月24日木曜日
ハイデッガーの形而上学(38)
2022年3月23日水曜日
ハイデッガーの形而上学(37)
2022年3月20日日曜日
ハイデッガーの形而上学(36)
「ディオニュソス的」という言葉で表現されているのは、統一への衝動であり、個人、日常、社会、実在を越えでて、消滅の深淵を越えでてつかみかかるはたらき、すなわち、より暗い、より豊満な、より浮動的な諸状態のうちへと激情的に痛ましく溢れでるはたらきであり、あらゆる転変のうちにあって変わることなく等しきもの、等しい権力をもつもの、等しい浄福をめぐまれているものとしての、生の総体的性格へと狂喜して然りと断言することであり、生の最も恐るべき最も疑わしい諸固有性をも認可し神聖視するところの、大いなる汎神論的共歓と共苦であり、生産への、豊穣への、回帰への永遠の意志であり、想像のはたらきと絶滅のはたらきの必然性の一体感である。
「アポロン的」という言葉で表現されているのは、完全な孤立への、典型的「固体」への、単純化し、際立たせ、強め、明確ならしめ、一義的ならしめ、典型的ならしめるすべてのものへの衝動、すなわち、法則の下での自由である。
これら二つの自然の芸術的威力の敵対関係に芸術の発達が結びつけられているのは、人類の発達が両性の敵対関係に結びつけられているのと同じく、必然的である。権力の充実と抑制、冷ややかな、高貴な、とり澄ました美しさにおける自己肯定の最高形式、すなわち、これがギリシア的意志のアポロン主義にほかならない 。
ギリシア人の魂内におけるディオニュソス的なものとアポロン的なものとのこの対立性が、私がギリシア的本質に当面して心ひかれる想いを感じた大きな謎の一つである。私が骨折ったのは、根本において、なぜまさしくギリシア的アポロン主義がディオニュソス的地底から発育せざるをえなかったのかを見ぬくことにおいてほかにはない。ディオニュソス的ギリシア人こそ、アポロン的となることを必要としたのである。言いかえれば、物すごいもの、多様なもの、不確実なもの、恐ろしいものへのその意志を、節度への、単純性への、規則と概念に従属することへの意志でくじくことを必要としたのである。節度なきもの、荒涼たるもの、アジア的なものを、ギリシア人は心の底にもっている。だから、ギリシア人の勇敢さはそのアジア主義との闘争にある。美はギリシア人にとっては贈与されたものではなく、論理も、慣習の自然性もそうではない、――美は、征服され、意欲され、戦いとられたものであり――それはギリシア人の勝利なのである。
ここから私はギリシア人の神ディオニュソスを立てる。すなわち、生の、否認され折半された生ではなく、全き生の宗教的肯定を。(典型的なのは――性的行為が、深みを、秘密を、畏敬を呼びおこすということである。)
ディオニュソス対「十字架にかけられた者」、そこに君たちは対立をもつ。・・・十字架にかけられた神は、生の呪詛であり、おのれをこの生から救済しようとする指示である、――寸断されたディオニュソスは生の約束である。それは永遠に再生し、破壊から立ち帰ってくるであろう。
2022年3月19日土曜日
ハイデッガーの形而上学(35)
一八七六年ごろ、いまやヴァーグナーがどこへ到りつこうとしているのかがわかったとき、私のこれまでの全意欲が危険にさらされているのを見てとって、私はぞっとした。だが私は、深く一致した欲求のあらゆる紐帯によって、感謝によって、掛けがえのないものを失い、絶対的な窮乏しかのこらないという私の見とおしによって、彼ときわめて固く結びついていた。
ちょうどそのころ私には、私が文献学と教職とにがんじがらめに縛られていると思われた――私の生涯の一つの偶然や応急策に――。私はもはやどうして逃れでたらよいかも知らず、疲れはて、精魂もつきはてた。
ちょうどそのころ私には、私の本能はショーペンハウアーのそれとは反対のことをめざしているということがわかった。すなわち、生が、最も恐るべき、最も曖昧な、最も欺瞞的なものであるときですら、その生を是認することをめざしているということが、――そのために私は「ディオニュソス的」という定式を手中にしたのである。
後の方には、こうある
アポロンの迷妄とは、美しい形式の永遠性のことにほかならない。「つねにかくあるべし」という貴族主義的立法のことである。
ディオニュソスとは、官能性と残酷性のことにほかならない。 移ろいやすさは、生産し破壊する力の享楽であると、不断の創造であると、解釈されうるかもしれない。
2022年3月18日金曜日
ハイデッガーの形而上学(34)
2022年3月17日木曜日
ハイデッガーの形而上学(33)
2022年3月14日月曜日
ハイデッガーの形而上学(32)
2022年3月12日土曜日
ハイデッガーの形而上学(31)
2022年3月11日金曜日
ハイデッガーの形而上学(30)
c)人間存在がそこに在ることとないことに基づく気分がそこに在ることとないこと(つづき)
この問いを追求する前に、我々の講義の務めについて何が言われてきたのかを振り返っておこう
我々が哲学する際の基本となる気分を呼び覚ますという仕事に向き合っている
気分とは、普遍的に有効な方法で直ちに確認できない何かである
気分は確認できないだけではなく、それができたとしても確認すべきではないのである
なぜなら、全ての確認は意識の状態に持って行くことを意味しているからである
気分に関しては、意識させる全ては破壊、変更を意味する一方、気分を呼び覚ます際には我々は気分があるがままにさせることに関心を持つ
呼び覚ますとは気分がそうあるように任せることである
ある意味で、気分はそこに在ってないのである
それはすでに言ったように、石がそこに在るのとないという差ではない
それは完全に逆のことである
それに対して、離れて在るということはそこに在るということの反対ではない
寧ろ、離れて在るすべては、Daseinに関係してそこに在ることが前提になっている
我々は離れて在ることができるために、そこにいなければ(da-sein)ならない
つまり、離れて在ること、あるいは「そこにいていない」ことは奇妙なことで、気分はまだ曖昧なやり方で存在の奇妙な在り方と関係している
気分がそこに在ると言うことは基本的に誤解を招くということについては触れた
なぜなら、その場合、気分を存在する性質のような何かとして捉えているからである
この概念に対して、心理とか伝統的なものの見方で見られるものとしての普通の意見を持ち出した
気分とは、思考とか意志の横に在る感情とするものである
この分類は人間を理性的な存在として見る考え方に基づいて行われている
我々は、まず気分は存在ではないこと、単純に魂の中に表れる何かではないこと
第二に、気分とは最も不安定で儚いものではないこと
我々のネガティブな主張と対比して、ポジティブであるものを示すことが問題になる
我々は気分とその本質を少しだけ我々に近づけなければならないのである
2022年3月10日木曜日
ハイデッガーの形而上学(29)
人間の本質に属するものとしての気分をいかにしてポジティブに捉えるのかそして、我々が気分を呼び覚ましたいのであれば、どのように人間自身と関連付けるのか
2022年3月9日水曜日
ハイデッガーの形而上学(28)
2022年3月8日火曜日
ハイデッガーの形而上学(27)
2022年3月7日月曜日
ハイデッガーの形而上学(26)
2022年3月6日日曜日
ハイデッガーの形而上学(25)
2022年3月5日土曜日
ハイデッガーの形而上学(24)
2022年3月4日金曜日
ハイデッガーの形而上学(23)
形而上学的真理は神学的知そのものにとってなくてはならないものなので、もしそれが軽視されることになれば、啓示の神学という意味において、神学そのものが危ういものになる危険性がある







